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2020年2月

2020年2月20日 (木)

第98話:「方丈雑記」 心筋梗塞入院記 v.2(一部修正)

第98話:「方丈雑記」 心筋梗塞入院記 

 

8年も前の『方丈雑記』と書かれた心筋梗塞で入院した時のメモが出て来た。2回の手術を行った15日間の最初の入院と、10ヶ月後の術後検査のための3日間の入院である。この手術以降は死ぬまで毎日5種類もの薬を飲み続けることになった。ある意味では人生の変曲点の一つであろうと思うので、あらためて記録として残そうと思う。

 

あとから思うと何だか変だった

年齢と共に知らない間に多様な変化が体内で起こっていて、その些細な異常の組み合わせによって正常な健康状態から次第に外れていき、ある「しきい値」で突然に顕在化する。心筋梗塞という病は誰にでもできるコレステロールという垢が何かの拍子にはがれて血管の中を流れていき、たまたま心臓の冠動脈に詰まることが原因である。血管が詰まってしまうと心臓の筋肉が壊死し突然死する。若くして亡くなった父親のように、脳血管が詰まったのではなくてよかった。家族や親戚筋で心臓病で死んだ者はいないし、健康診断の数値はいつも正常だったし、はっきりと自覚するような症状が現れていたわけでもない。それでも思い出すと予兆のような現象があったことは確かである。そう、あとから考えると、だ。

2012年10月のある日、電車に乗って郵便局の本局に行き、お堀端を歩いて久しぶりに海を見に行った。台風のうねりが大きく、砂浜から沖に伸びている突堤には大きな波しぶきがかかり先端まで行けなかったことを覚えている。この時に胸に変な感じがしたことはたしかだ。

2日後の夜、連合自治会の打ち合わせに近所の市役所支所まで自転車で行った時も、その前日と同じような変な感じがした。痛いというのではなく、圧迫されているというのでもなく、詰まったという感じでもなく、引っかかるというのか、とにかく何か変だった。

そして次の日、朝、近所の家に回覧物を届けて戻って来たときに、前日と同じ兆候が現れて、なぜか玄関先で座りたくなった。こんなことは今までに無かった。しばらく座っていて、すぐにふだんとまったく変わらない状態に戻ったのであるが、やはりこれは何かおかしいと思い、かかりつけのO先生に診てもらう気になった。自分から医者に診てもらう気になることはまずないことだ。家内からは一緒に行こうかと言われたのだが、大丈夫だからと一人でクルマに乗って出かけた。

 

いつもの先生に診てもらう

私よりも一歳年上のO先生の医院には一通りの設備が整っている。私も開発に関わりあったことがあるドライケム(FDC)というすぐにその場で結果が出る乾式生化学分析装置もある。その血液検査に加えて、心電図、胸のレントゲン写真、問診と一通りの検査をした。先生が言うにはCPKが500位でちょっと高く、また心電図波形がちょっと気になるとおっしゃった。CPKとは何かの酵素のことであろうとは思ったが、それが何を意味するのかさっぱりわからなかった。

あとで調べて見ると、CPK、つまりクレアチン・フォスフォ・キナーゼとは、心臓をはじめ骨格筋、平滑筋など筋肉の中にある酵素で、これらの細胞に異常があると、CPKが血液中に流れ出すため、高い数値を示す。男性の場合、1リットルの血液のなかに40~250単位、女性の場合30~200単位が基準とのこと。基準値より高い場合、急性心筋梗塞、心筋炎、進行性筋ジストロフィー、萎縮性筋硬直症、多発性筋炎、甲状腺機能低下症、悪性腫瘍などが疑われるのだそうだ。

先生は「特に気にすることはないよ、でも病院でもう少し詳しく検査してもらうように紹介状を書くから行くかい」と聞いてきた。断るわけにはいかない。紹介先は神奈川県西部の拠点病院である近くの県立足柄上病院である。病院の診察カードをとりに家に戻ろうとしたが、先生は「病院に電話しておいたからすぐ行け」という。その日は土曜日であって、循環器系の当直医がいないかもしれないが総合内科医はいるとのこと。家に電話してそのままクルマで病院に向かった。

 

あれよあれよと言う間もなく緊急手術が始まった

先生からは病院の正面玄関ではなく脇の夜間入口から入るようにと言われていた。受付に行って名前を告げて待っていたら、テレビドラマの緊急入院シーンでよく出て来る移動式ベッドと共に何人かの看護士さん達が急いでやって来た。何か事故でもあったのかなと思っていたら私のところで止まり、名前を確認してから「乗って下さい」という。わけがわからないままに医者や看護士がずらりと待機している手術室に連れていかれた。寝たままでいいからと言われ、何人かに抱かれて隣の手術台の上に移され、ベッドの上で衣服をぬがされて丸裸にされ、手術着を着せられ、おちんちんにホースをはめられた。手術が長時間かかることもあるので、オシッコを自動的に排出するためとわかったのはずっと後のことである。

総合内科医という若い医者がいろいろ質問してきた。そのうちに循環器の先生がその日はたまたまいたらしく、若い医者は「安心した。すぐ手術です」という。彼だけだったらどうしたのだろう。手術の担当となった循環器の医者は持ってきた手術同意書と朱肉を見せて、「奥さんに電話して了解を取り付けた。はんこは持って来ていないだろうから拇印を押せ」と言とう。手術が直ちに始まろうとしていた。検査もなく、まったくあれよあれよという間もなかった。「ちょっと待ってくれ、俺だって都合があるんだ」(実際にはもっとていねいに)と医者に言ったのだが、彼はまったく意に介さず、「命とどちらが大切か」などと脅す。「それなら心臓の血管が詰まっている証拠を見せろ」と言いかけたが、ぐっとこらえた。浮き世に未練を残してやって来る患者はたくさんいるのであろう、若い医者の受け答えは慣れたものだった。仕方なしに拇印を押した。

 

目の前のモニターで手術を楽しむ

そのような状況の中で手術が始まった。私の好きな手塚治虫の漫画「ブラックジャック」のように心臓をメスで切り刻まれるのかと身構えたけれど、細くなった血管に“ステント”を入れて膨らませる手術のようだったのでひと安心した。あとでわかったのであるが、ステントとは網目構造をした金属製のパイプであり、編み目構造体そのもののステントと、生体反応を制御するための薬剤処置をした表面層を含む複合構造のステントとの2種類あるようだ。後者の方が新しいのだが、それぞれ利害得失があるらしく、私の場合は、担当医は最初の手術では前者を、二度目の手術の時は後者のタイプを使った。危険を分散させたかったのか、実験したかったのか、なぜ使い分けたのかわからない。

手術は、X線吸収の大きなヨードの入った造影剤を血管に注射し、X線照射しながら心臓と血管に挿入したカテーテルの動きと位置とをモニターテレビで観察しながら行う。血管造影撮影画像、つまりアンギオグラフィ画像については、放射線デジタル医療画像診断システム開発をした時に放射線医たちとの共同研究をしていたことがあるので見慣れた画像である。知識としてはあったのだが体験するのは初めてであり、自分の実物のアンギオグラフィ画像を見ることのできる実に貴重な機会である。興味が湧いてきた。目の前にあるモニターディスプレイをじっくりと観察してやろうと手術が始まるのを待った。

そのうちに右手首に麻酔を注射され、動脈を切ってカテーテルが挿入され、造影剤が注入され、アンギオグラフィによる透視が始まった。そばで何やらごちゃごちゃと医者達はやっていることはわかった。局部麻酔なので頭はさえているし、冠動脈の血管造影で心臓がぴくぴく動いている様子が目の前のディスプレイではっきりと見える。「ナイス!」、「バッチリ!」などとの若い医者同士の話は聞こえるし、「ニトログリセリン4cc!」などと言っている話も聞こえてくる。「なに? あの爆薬のニトログリセリン? まさか」と言い聞かせる。自分の手術ではなく他人事のように思えてきて、なかなかおもしろくなってきた。最初の麻酔用の針を刺した時以外は、痛いとか苦しいとかとの感じはなかった。ニトログリセリンが注入されたときは手首から始まって身体全体が急に冷たくなってぎょっとした。あとから知ったことなのだが、ニトログリセリンは冷蔵庫に入れる冷暗保存なので、冷たいまま体内注入されたから冷たく感じたのであろう。

時々「頭を右にして息を吸って止めて下さい」などといわれる。大きな大角か半切サイズの分解能の高い静止画像を撮っていたのだろう。モニターが見えないので、何を撮影していたのかわからない。この時は『イメージング・プレート』で撮影したはずだ。自分が開発に関わった放射線デジタル画像診断システムを使ってもらえるのはうれしいことだ。あとから知ったのであるが、撮影条件は管電圧70〜81kv・電流値430〜910mA・撮影速度6.3msとあった。つまり心臓の動きを止めるのに撮影時間は1000分の6.3秒だった。

 

写真で見るとよくわかる

手術のプロセスは、簡単にいえば、手首の血管からカテーテルを入れて、アンギオグラフィを見ながら目的とする心臓の冠動脈の患部まで、いくつもある血管の分岐を間違えずに細いカテーテルを導き、バルーンを膨らませることによってステントを広げ、そのあとバルーンはしぼませて引き抜いてステントだけを置いておく処置である。若い医者たちの「ナイス!」などと聞こえてくる会話は間違いなくステントが患部にうまく届いた時であろう。気持ちはよくはわかる。大した技術である。

第2回目の手術のあとで、担当医から第1回目の手術の経緯のアンギオグラフィ写真を見せてもらった。心筋梗塞のステント処置は正式な医学用語では「経皮経管的冠動脈形成手術」と言うらしい。この写真は動画のシーンをプリントしたので画像の質はよくないのだが、手術の状況はよく分かる。最初の写真では私の冠動脈の一つがとても細くなっていて血流の流れが弱々しかったことがよくわかる。その狭窄部にステントを設置してバルーンで膨らませた様子もわかる。血流を止めているので血は流れていない。最後の写真ではバルーンを抜いて血流が元の状態に回復したことがよくわかる。

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手術は1時間半ほどで終了した。終了したときに、担当医が言うには冠動脈のもう1本に狭窄部が見つかって、その手術は経過を見ながら実施する日を決めると宣言された。手術が終わってよかったと思っていたのにまだ残っていたのかという思いと、そんなに私の血管はあちこち詰まっているのかとの驚きがあった。そのまま集中治療室(ICU,Intensive Care Unit)に運ばれて1泊した。

 

病室のつれづれ事 

入院2日目。 心筋梗塞という病は早く気がつけばステント処置によって直ちに元の元気な状態に戻ることが出来る。私は至って元気な状態であったけれど、ICUは重症の病人の専用病室であったので、重症患者並みの最大級の丁重な扱いをしてくれる。おとなしくしていて、そのギャップを素直に楽しむことにした。

入院3日目。 4人部屋に移された。隣には87歳のお婆さんがゼイゼイとやっている。とにかくベッドから動くなという日々がはじまった。最初は、胸には心電図のための電極コードが6本、鼻の孔に酸素供給のパイプが一本、右手の指先には酸素量測定のセンサーとそのコードが1本、左手には点滴のチューブが1本取り付けられ、寝返りも打てないほど。もちろんオシッコにも行けない。ベッドサイドに置いてある溲瓶(しびん・シュビン・オランダ語らしい)を使うことになる。

入院中はベッドに静かに寝ているようにと指示されていたので、真上の天井ばかり見て暮らすことになった。4人部屋の病室の天井に設置されていたカーテンレールは部屋を4つに仕切っている。私の真上ではおよそ3m×3mの四角形、つまり昔の単位で言えば1丈(10尺)平方。まさに何もすることなく流れていく時の中で、鴨長明の庵のように方丈の空間(四畳半というところか)が私の居場所となった。そう考え出したら鴨長明の庵の間取りがどうなっているのか知りたくなった。彼も同じ広さの庵で寝起きしている。それで古い『方丈記』を我が家から持ってきてもらった。浮き世と離れて、何事も急がず、のんびりと自然の移ろいと共に過ごしているあの本だ。彼は簡単であるが庵の内部の様子を述べている。

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その記述から想像する庵の間取りをノートに書き上げた。どこが出入口なのかわからないが、屋根の庇(ひさし)が伸びている東側のどこかに出入り口の引き戸があるのだろう。

(追加注:後日、鴨長明は北枕で寝るはずはないとの友人Oさんの指摘は納得するものであった。とすると上図では寝ている頭側が出入り口になってしまう。普通ではあり得ない。従って、そうではなく 1)寝床は南側の壁に接し、頭を南にして寝ており、出入り口は寝床の足元の東壁側にあったのかもしれない、あるいは2)東壁側は基本的に板壁であって明かり取り用の障子のみで出入り口はなく、出入りは南側のぬれ縁から行ったのではないか、とも考えられる。実際はどうなのだろう。いずれにせよ、火を用いる炊事などは東側に長く伸びた庇の下で行ったのだろう。)

南側の「竹のすのこ」、つまり「ぬれ縁」の西端に「竹の吊棚」と書いたが、実際には鴨長明は「閼伽(あか)棚」と言っている。学生時代、ヨットの中に入ってしまった海水を汲み出す大きなヒシャクのことを「アカ汲み」と言っていたことを思いだした。「アカ」は水なのだ。きっとこの棚は汲んできた水を使うための「流し」のような使い方をした場所ではないかと思う。このような間取り図はきっと物好きな研究者が詳しく調べているに違いないから、いずれその研究報告を見てみたいものだ。これも何かの縁だから、入院中に書いたメモは『方丈雑記』と題しておこうと思う。

入院4日目。 やっとベッドから歩いてトイレまで行くことが許された。初めてのウンチ。それだけ病院食は量が少ないというか、安静状態を維持するなら適量なのだろう。ただしオシッコだけは別に取るようにと言う。これはなかなか難しいことだ。そのような訓練はしたことがない。どうしても同時に出てしまう。

入院5日目。 点滴もなくなり、心電図のコードだけが残り、歩きやすくなった。オシッコに行くことも、歩くこともOKとなった。上肢・下肢にセンサーを取り付けて、4つの血圧を測る血液検査があった。どうしてそんなことがわかるのだろうと思うのだが、この4点データから身体全体の血管の硬さ分布がわかるのだそうだ。ディスプレイをチラッと見たら「血管の硬さは80才」などと表示が出ていた。本当なのかしら。午後から「200m歩行負荷テスト」を行った。病棟内の廊下をグルグルと4周巡って200mを歩き、その直後に心電図・血圧・血液検査を行って、前後の数値の比較を行う。これで問題なかったので、次はヒートショックの「シャワー負荷テスト」になるのだそうだ。

入院6日目。 暗いうちは雲が多かったが、太陽が昇り始めたら晴天になった。富士山も良く見える。御殿場線の電車もローカル線なのによく通っていく。小田急線の青銀色のロマンスカー「あさぎり号」が屋根越しに目の前を通った。結構たくさんの人が乗っている。普通の電車は屋根だけしか見えないのに、「あさぎり号」は背が高いのだと初めて気がついた。

入院7日目。 病棟内の同じフロアーをグルグル歩き回って「500m歩行負荷テスト」を行う。検査の結果、これもOKとなった。テストに合格することは何でもうれしくなるのでおかしくなる。

入院8日目。 ただただ寝ているのは実に暇である。持ってきてもらったDVDの「ニュルンベルグ裁判」を見た。最初の孫つまり長女の子供が生まれたときに、急に年寄り気分にはなりたくなかったので「おじいちゃん」やら「おばあちゃん」ではなく、ドイツ語の「オ〜パ」と「オ〜マ」と呼ばせるようにした。これなら許せる。実際にこの言葉をドイツ語として聞いたことはなかったのだが、このDVDの中で街角のソーセージ屋の若い売り子の女性が裁判長役のスペンサー・トレイシーに “Aufviedersehn, Opa!” と声を掛けていた。それがわかって、何だか妙にうれしくなったから不思議だ。

入院9日目。 初めて病棟の1階まで降りる。隣の患者の訪問客はていねいな言葉を使うおばさんなのだが、患者に何をしたいのか、何をしたのかと質問ばかりしている。この手の見舞客は最も性質(たち)が悪い。患者さんは黙ってしまった。疲れたのだ。9日目と10日目に大便の中に潜血があるのかどうかの検便検査が行われた。これは今後に何らかの出血(不慮のけがや大腸ガン手術など)が生じた時に、ステント処置のあとで服用する血管拡張剤や血液凝固防止剤によって大量出血が起きないようにあらかじめ行う検査なのだそうだ。

入院10日目。 富士山の頂上付近に雪が積もっている。きのう降ったのだという。このころにもなると世間のことや外界のことを考えなくなる。以前の急性肝炎の入院の時もそうだった。世間でのこれまでの煩悩はここまで。これから「無」の境地の入口になる。そんなこともあって家から兼好法師の『徒然草』を持ってきてもらった。その123段に、人にとって大事なことは「第一に食ふ物、第二に着る物、第三に居る所」にすぎないし、これに加えて病になった時の「第四に薬」とある。「衣・食・住・薬」だ。これらをもとめることが出来ない状態を「貧しい」といい、それ以上求めることは「奢り(おごり)」であるという。まあ、そうなんだろうな。

午後、歩くと言ったのだが無理やり車イスに乗せられ、別棟の検査室に連れて行かれ、「階段負荷テスト」を行った。表彰台のような三段ほどの階段を登り下りして、向き直ってまた登り降りるという動作を10回くり返す。このテストでもOKとなった。このあと「温水シャワー負荷テスト」をやる予定であったのだが、これまでの負荷テストの成績がよかったためか、10日ぶりにシャワーを使うことが許された。垢がたくさん出た。病室の患者仲間は「痛み」を持っている人ばかり。共通テーマは「痛み」にからむ話なので、「痛み」がない私とはなかなか会話が成立しない。「痛み」や「「苦しみ」のない患者は病院では当然ながら希少動物である。病室仲間との距離感はずいぶんあったと思う。

入院11日目。 身体を動かすために病棟1階に降りた時に、長年パーキンソン病を患って身体が思うようにならなくなっている豊田の親友に電話した。鳴った途端にすぐ出て来た。いつもはベッドに寝ているので、こんなことはこれまでまず無かった。食事中だったらしい。「先に行って席を取っておいてやるからな」と抜かす。「オレが先になるかもしれないから、そんなことを言うな」と返したら、「フグの干物を銚子の店から送ったから、一杯やってくれ」と言ってきた。短い会話だったが、暖かかった。

この日だったか、家にあったフランス映画「恐怖の報酬」のDVDを持って来てもらった。シャンソン歌手として有名なあのイブモンタン主演の古い映画(1953)で、中学生の頃に名古屋の映画館で見たことがある。油田の火災を爆破によって消すために液体ニトログリセリンをトラックに載せて運んでいく、なかなか見応えのある名画である。このニトログリセリンはショックを与えるとすぐに爆発してしまう危険な爆発物であるが、ノーベルがこれを珪藻土にしみ込ませて安全なダイナマイトを発明したことは誰でも知っている話だ。手術で使ったのも、心臓病患者が常時携帯しているのも同じニトログリセリン。何が違うのかわからなかったのだが、添加剤などを加えて爆発しないようにしているらしいことを初めて知った。考えてみれば当然のことだった。

入院12日目。 朝、赤富士がきれいに見えた。すぐに雲が出て来て見えなくなってしまった。

入院13日目。 第2回目の手術の日。 朝5時半頃に採血に来た。担当医が8時半にやって来て、血液検査結果はいいので、今日ステント手術をするという。12時頃になって手術が始まる。手術室はこの前と同じだというのだが、感じが違う。病室ですでに手術着に着替えさせられていたから、自分で手術台に上がる。パジャマのズボンはそのままだ。「最初の時は直ちにすっぽんぽんにさせられたのだけれど」と担当医に言ったら、この前は「緊急入院」だったからとのこと。そうだったのか。病院に連絡しておいてくれたO先生は心筋梗塞であぶない状況だと電話で伝えていたのだろう。

手術が始まった。医者同士の会話が聞こえてくる。造影剤の注入量は115mlらしい。入れた途端に全身が急に冷たくなった。手術中も点滴をやっていることに気がついた。造影剤やニトログリセリンを早く体外に排出させるためらしい。手術中は胸が詰まった感じが前回よりも強く、胸がちょっと痛い。手術中では医者達の「ナイス!」とか「ピッタリ!」などとの会話がまた聞こえてくる。目標位置にステントがピッタリはまったのだろう。聞いていて愉快になってくる。

終わったのは午後1時頃。やはり初日の第一回目と同じ一時間半ぐらいかかっているのだが、2回目の方が長く感じられたし、違和感も強い。これは1回目の手術では興味津々で次ぎに何が起こるかを楽しみにしていた『知らぬが仏』効果が有効に機能していたのだろう。知ってしまうと2回目の手術では『煩悩』が生じてしまう。午後1時半頃に担当医がやって来て前回と今回の血管造影写真を持ってきてくれた。前回の写真はすでに示したので、2回目の写真を下に示す。冠動脈の狭窄部をステントで広げて、血流状態が元に戻ったことがよくわかる。

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入院14日目。 心筋梗塞は病気の中でも“高貴な病気”であると思う。重症のときは予兆も無くほとんど苦しまずに突然死ができる。軽症のときは物理的な簡単なステント手術で完治する。親友の1人が見舞いに来た。彼が私の入院でショックを受けた理由は、私が入院したことではなく、常に綿密な健康チェックや人間ドックを受けていると自負しているのに、それに何も引っかからない病気が身近で起こったことらしい。笑ってしまった。異変に気づくセンシティビティを高めておき、すばやく専門医の意見を聞くことが最善なのに。

入院15日目。 退院の日。看護婦さんが「どこかおかしいところはないですか」と聞いてくれた。さっそく「かゆみ」を訴えた。「先生は専門に特化されすぎていて、かゆみのことは興味がないらしい」と言ったら「そうなんです」と彼女はすなおに答える。科をまたがる診療は専門の隙間に落ち込んでしまい、いやがられるらしい。そんな話をしたら「別の先生に話してみます」と言ってくれた。

 

退院後のつれづれ事

かゆみ

退院後は、半月も寝たきりでいたために宇宙飛行士のように筋肉がなえて歩けなくなるように足が弱った。それに、たぶん血管造影剤(ヨード剤)の薬疹と思うのだが、全身の猛烈な「かゆみ」で困った。「かゆみ」はかきむしると全身があざだらけになるので、前回の急性肝炎の入院時に知った私の特効薬は「米酢」を塗ることである。これはなかなかいい。酸性であることともさることながら、同時に水分が体温ですぐに蒸発して皮膚温度を冷やすこと、米を発酵することで得られた保水成分が皮膚の乾燥を防ぐことが効いている。しかし塗った直後はお酢がぷんぷんとにおい、にぎり寿司の舎利になった気分になってしまう。周囲にもお酢の匂いがしていたに違いない。またよく使う「キンカン」は即効的に「かゆみ」によく効く。寿司シャリ気分にはならないメリットはあるのだが、保水成分がないので長くは保たない。

薬のこと

死ぬまで毎日飲み続けることになってしまった薬は5種類である。まずは 1.血栓の原因物質のコレステロールが肝臓で合成されることを防ぐ高脂血症薬(スタチン剤)、2.血管を拡張させ血圧を下げる薬、3.血圧を上げる物質の働きを抑えて血圧を下げる薬、4.血栓を出来にくくする薬(バイアスピリン)、しかし副作用で胃炎をおこすこともあるので、5.胃酸の分泌を抑える薬の5種類である。この組み合わせに落ち着くのも、試行錯誤の長い試みがあっただろうな、と思う。

困ったのは、これらの薬を飲むことによって怪我をしたり鼻血が出た時に、血が止まりにくくなったことである。歯医者で歯を抜くときに前もって飲むのをやめたこともある。実際には日常生活でそれほど問題にはならなかったが、事故や病気で大量出血したときなどは大ごとになるのだろう。気にしていなければならない。

いつまで保つのだろうか

バルーンによって閉塞した血管を拡張させる臨床応用は1977年にすでに行われていたようなのだが、バルーンとステントによって血管を拡張して心筋梗塞を治療する臨床応用はずっと遅れて1992年に始まったらしい。異物である金属の金網によって生じる血栓の対処方法にずいぶんと手こずったようだ。服用の薬を何にすべきか、やステント表面処理などだ。実際に実用になってきたのは2000年代の直前らしい。つい最近に普及した方法と言っていいだろう。この治療方法は、物理的手段によりほとんど直ちに完治するすばらしい治療方法であると思う。医者と技術者の長い間の共同作業、実にさまざまな技術分野(材料・メカ・エレキ・画像・医薬などなど)の積み重ねがある。個人が受賞するノーベル賞とは違って数多くの人たちによる総合化・システム化によって実現できた人類のすばらしい智恵の結晶である。分岐がたくさんある狭い血管の中を延々と目的の患部までステントを導いていく職人技とも思えるテクニックもすばらしい。ただしこの方法のアイディアから実用化まで日本人の寄与はなさそうである。日本は個々の技術や技能に関しては誇れるものを持ってはいても、多様な分野にまたがる総合システム化は不得意な事例が多い。このステントによる治療方法もその一つであろう。

退院後にある友人に聞いたのだが、彼は12年前にステントを3個も入れる手術をしたのだそうだ。血管造影撮影のための造影剤は手首の動脈から注射し、ステントは股の付け根の動脈から入れた。私の場合は、造影剤の注入もステント処理のカテーテルの挿入も、いずれも手首の動脈から行われた。彼の時は何泊かの入院が必須の出血を伴う危険のある大手術であったが、今は日帰りで手術が可能なほどに進歩した。ステントがいつまで保つかについて、その当時は10年間の実績はあるが、その後はわからないといわれたそうだ。たしかにこの処置が実用化されたのばかりであったから実績はなかったのだろう。ともあれ、彼のステントは12年間は大丈夫だったということになる。私の場合は何年保つのだろうか。

 

10ヶ月後の検査入院でもOK。よかった。

前回のステント処置手術の約10ヶ月後に、術後の経過を確認するための検査入院をした。

入院1日目。 9時過ぎに病院に行き、入院。まずは血液検査、心電図検査を行う。終わって担当医からどのような検査を行うのか説明があった。すぐに昼食。病院食は久しぶりである。1階の売店でうろうろしていたら、館内呼び出しで名前を呼ばれて驚いた。病室に戻ってみると点滴の“ルート”を付けるとのこと。聞いてみたら、ルートとは腕に取り付ける点滴の差し込み口のことらしい。

以前の入院の体験から、近くの図書館にある落語CDのすべてをiPodに入れてある。寝ながら暇をつぶせるので入院の時にはとても役に立つ。ベッドの中で桂枝雀の「くしゃみ講釈」を聞く。『講釈場 いらぬ親父の 捨て所』などと言っている。ご同輩の老人たちが集まる医者の待合室などもそうなんだろうな。桂枝雀は好きな落語家だった。自殺などしないで長生きしてくれたらよかったのに。必死に芸の道を究めようとして、行き着くところまで行ってしまったのだろう。

入院2日目。 血管造影検査の日。朝9時頃にX線室へ行く。去年の1回目の時よりも手首から冠動脈にカテーテルが到達するまでに手間取った感じがした。担当医は「この前よりもかかっていますかね〜」などと素直に聞く。顔なじみになったこともあろう。終わり頃になって、全身が急に熱くなった。造影剤を心臓に入れたらしい。心臓から造影剤が全身に送り出された瞬間だったようだ。冠動脈とのサブトラクション(差分画像)をするためなのだろうか。10時頃に血管造影撮影は終了。簡単に終わった。

午後4時半頃に結果の説明があった。心臓の張と縮の比率も問題なし、心臓壁の損傷(壊死)もなし、とにかく検査はOKとなった。午後5時頃に点滴を外す。夕食の時に食事と一緒に栄養士もやって来て、「食事はどうですか」という。おいしくなったし、箸やスプーンも付いてきた。いろいろ聞いてみると、やはり去年の時とは栄養士が代わったのだそうだ。食事のシステム全体を変えたことがよくわかった。一人暮らし用やダイエット用食事も含めて、病院レストランをやったらよいと思うのだが。私ならさっそく食事に行く。実際にある私立病院ではレストランをやっているらしい。県立のこの病院では無理だろうな。

入院3日目。 11時頃に退院した。迎えに来てもらって、家に寄らず、そのまま箱根の芦ノ湖畔のホテルでお祝いのランチを食べ、ついでに湖の湖面を目の前にした温泉にゆっくりと浸かった。 

これで心筋梗塞の病の一連の顛末は終わった。

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