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2020年1月

2020年1月 3日 (金)

第97話 我が家の最初のクルマ

第97話 我が家の最初のクルマ                  v.1

 

父親との短い思い出の中にある我が家に来た最初のクルマが何だったのか、知りたくなった。

 

終戦直後にクルマを買った

父親は太平洋戦争中は軍医として中支に行っていたと母から聞いていた。“中支”との言葉は今では誰も使っていないのだが、現在の中国の中部地方で「華中」と言うらしい。母にも聞かなかったので、中支のどの町に行っていたのかは知らない。昭和18年3月に招集され、昭和21年3月に空襲と艦砲射撃で焼けて何もなくなった我が家に復員したらしい。“復員”との言葉ももう死語なんだろうな。その頃はまだ防空壕に住んでいたのかもしれない。つまり記憶の上では、生まれて4年後、幼稚園に行っていた頃に初めて父親に出会ったことになる。その時の記憶はないのだが、母が言うには“おじさん”と呼んで、なかなかなつかなかったのだそうだ。

父親は“復員”してからまったくゼロから診察室と病室、家族が住むバラックを緊急に作ったそうだ。“バラック”との言葉ももう死語になった。あり合わせの板やトタンで応急に作った粗末な建物のことだ。そんなバラックにも入院患者は来たし、病気で亡くなる入院患者さんもいた。夜中には往診の電話はかかってくるし、大やけどで担ぎ込まれる患者もいた。我が家は代々「やけどの薬」で有名であったようで、ずいぶんと遠くから患者がやって来た。伊豆の方からはるばる漁船に乗って来た患者もいたようである。だから病室まで作ってあったのだろう。知らないおじさんが毎日我が家の庭を掃除していたこともあった。あのおじさんは“精神衰弱”になった人で、何でも手仕事をしていると直るのだと聞いたことを覚えている。“精神衰弱”との言葉も今では使われなくなった。

診察や往診に加え、若くして県の医師会の理事や市の医師会長やらをやっていて忙しくて、そのためバラックの家を本格的に建て直すよりも前に、往診に出かけるためのクルマを先に買ったと母から聞いていた。まだ焼け野原が残っている終戦直後である。クルマを買う人などほとんどいなかったであろう。隣の町にある国道沿いの日産の販売店から買ったことは覚えている。当時はトヨタの名前は聞いた記憶がなく、現在と違って日産のはるか後を追い掛ける弱小企業だったのだろう。父親は診察と外出で忙しく、周囲にいる友達のように父親と一緒によく遊んだと言う記憶はない。しかしクルマに乗っていく往診にはたびたび助手席に乗せてもらった。末の息子と接する貴重な機会と思っていたのかもしれない。

 

古い写真が出て来た

古い写真が出て来てきた。たぶん1950年頃、70年ほども前の写真だ。やっと見つけたクルマは2ドア、後部ドアはハッチバックの丸っこい形をしていた。そう言えばそうだったな。やっと形を思いだした。今で言えば4人乗りのバンタイプだった。クルマの色は濃紺色で、跳ね上げ式の後部ドアには我が家の名前が白く書いてあった。これが書いてあると往診の時に駐車禁止の場所でも警察が駐車を認めてくれると聞いた。クルマに関して記憶に残っている話はその程度なのだ。このクルマが日産のどのようなクルマだったか知りたくなった。 

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クルマのことで具体的に覚えているのは方向指示器のことである。今のクルマは次ぎに曲がる方向を、ハンドル脇のレバーで操作して点滅するランプつまりウィンカーで指示する。我が家の最初のクルマはクルマの右側と左側に飛び出す赤い腕木を、運転席にあるケーブルで引っ張って跳ね上げる方式の方向指示器だった。そのケーブルを引っ張る二本の注射器のような形をした装置が運転席のパネルの下側に取り付けてあった。往診で助手席に乗せられている時、次ぎに曲がるかどうかを見極めて、方向指示器を父親よりも早くだすことに夢中になった時期があったことを覚えている。「やった!」という感じが楽しかったのだろう。だから詳しく覚えている。また覚えていることは、クルマは現在のようにセル一発で簡単にエンジンが掛かることもなかった。あの当時のクルマは、時々、エンジンの前に回って、細い穴から長い鉄棒を差し込んで、くるくる回してエンジンを掛けていた。反発力が強くて子供には回せなかった。外にいる人がクルマを押して勢いをつけてから、運転席にいる人がローギアを入れてエンジンを掛けることもよくやったように思う。

 

日産ヘリテージコレクションへいっても見つからない

日産が自社の古いクルマを宣伝していて目につくのは“ブルーバード”からだ。調べると初代は1959年(昭和34年)に発売とある。我が家のクルマはそれ以前である。当時は型式だけで表されていて、 “ブルーバード”のようなニックネームをつける時代ではなかったのだろう。そのような次第で日産の古いクルマを集めているという「日産ヘリテージコレクション」なる博物館を見つけ出し、日産座間工場内にあるその博物館を訪ねることにした。電話を掛けて予約していったのだが、電車に乗って、バスに乗り換えて、降りてからも工場の塀に沿って長く歩いてやっとたどり着いた。遠かった。クルマで行かない人は少ないと思うほどのなかなか不便なところだ。

「日産ヘリテージコレクション」は以前はクルマを生産していたであろうと思われる工場風の建物だった。何人かでグループを作らされ、ガイドのお姉さんに引率されて説明を聞くシステムになっている。日産の歴史を聞きにきたわけではないので、しばらく付いていったがすぐに離れて1人でそれとおぼしき年代のコーナーにあるクルマを探しに行った。記憶に残る2ドアの丸っこくて、跳ね上げ式の方向指示器のクルマはない。それでも何となく形が似ているクルマはあったので、ガイドのお姉さんにそれよりも古いクルマはなかったのかと聞いたのだが、わからない。彼女の説明マニュアルには書いてないようだ。古いカタログを見せるパソコンコーナーなら手掛かりがあるかもしれないというので、別の部屋に行って検索したら何となく似ているクルマが出て来た。よかった。型式名を書き留めて、家でゆっくり検索してみることにした。

 

最初のクルマは日産DB2型(に違いない)

型式がわかったので、インターネットで古いカタログの写真が出てくるサイトを見つけ調べて見ると、終戦直後の日産の乗用車の歴史は次のようになっていた。最初のクルマは昭和22年8月発売のDA型(1947/8発売・排気量722cc・15馬力)だが、これではなさそう。排気量722ccとは今の軽自動車の660ccとほとんど変わらない。馬力はとても小さい。半年後の昭和23年3月には次のDB型(1948/3発売・排気量722cc・15馬力)に改良され、また半年も経たずに改良型の“DB型デラックス・セダン”(1948/8発売)が出ている。そう言えば「デラックス」という言葉を当時はよく聞いたな。何でも“デラックス”と付いた商品があふれていた。

そのあと昭和25年に馬力をあげたDB2型(1950/8発売・860cc・20馬力)、145mmに延長したロングボディ化のDB4型(1951年発売)とボディを4ドア化にした昭和28年にはDB5型(1953年発売 25馬力)と立て続けに短期間の間に次々と改良されている。DB型以降は日産のヒットになる1954年発売のあの“ブルーバード”になる。

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 カタログには運転席の写真も出てくる。その内部の写真を詳細に見ていくと、運転席でワイヤーをレバーで引っ張って方向指示器を跳ね上げるタイプはDB2型までであって、DB5型からは回転レバーを左右に回して方向指示器を跳ね上げる方式に変わっていた。それと、1952年に家を建てる前に買ったと言うからには購入時期からみると、我が家のクルマは発売時期から見てDB型“デラックス・セダン”あるいはDB2型であろうと思われた。どちらも形は同じなのだが、たぶん我が家のクルマはDB2型であろう。

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カタログの詳細を見ると、当時のクルマの様子がよくわかる

【車体】:木骨鋼板表流線型 乗員四人・ドアレギュレーター・通風開閉装置

車体が木骨鋼板とは知らなかった。木で枠を作って、その上に鋼板を張ったということだ。“流線型“という言葉も当時のかっこいい形のほめ言葉だったな。ドアレギュレーターって何だろう。ドアに付いている窓を開け閉めするハンドル装置のことなのだろうか。通風開閉装置というのもよくわからないが、側面付いている外気を取り入れるフタのようなものだったかもしれない。

【計器盤】:速度計・油圧計・電流計・点火スイッチ・チョーク釦・スロットル釦・ワードロック釦・小物戸棚

今のクルマではチョーク釦(ぼたん)・スロットル釦(ぼたん)などついていない。エンジンを掛けるときにちょこちょこと調節していたことを思い出す。今は電流計もない。

【付属品】:方向指示器・後面鏡・ワイパー・スペアホイール・ツール1組

わざわざ付属品として方向指示器が書いてある。右腕を窓から水平に差し出して右折を表し、その腕を直角に上向にすれば左折を表していた時代の名残なのだろう。バックミラーもワイパーも付属品扱いである。時代を感じさせる。スペアホイールであってスペアタイヤではないのも不思議なことだ。そう言えば点火プラグも時々外して掃除をしていたからツールは必需品だったのだろう。

あっちこっちに連れて行ってもらった

このクルマ(DB2型)は1950年頃、つまり小学校1年生の頃に我が家に来て、父親が1954年に亡くなるまでのたった4年間ほどしか存在しなかったのだが、とにかくよく助手席に乗せられて、あっちこっちの往診に連れて行ってもらった。

大きなお屋敷が集まっている住宅地の立派なある家に往診した時のことである。。暑い夏だったと思うのだが、クルマの助手席でいつものように父の戻ってくるのを待っていた。そうしたら奥さんが門から出て来て、コップに入った冷たい甘い紅茶を持ってきて、窓越しに渡してくれた。当時はまだ電気冷蔵庫はなかったから、木製の氷冷蔵庫の氷を砕いた小さな氷がコップの中に浮かんでいたのだろう。砂糖も、紅茶も貴重な時代だったし、今でもその時の状景をはっきりと覚えている。甘くて冷たい紅茶が大好きになったことも、その時に大感激したためと思う。

本港から離れた漁港の外れの“どや街”の往診に連れていってもらったこともあった。“どや街”との言葉ももう死語なのだろうな。往診先は中華そば屋だった。お客はいなった。クルマを止めてあった店の裏の方から何かグツグツと大釜で煮ている様子が見えた。何だろうと思って薄暗い部屋に入り、大釜をのぞいてみたけれど何だかわからない。そのうちに目の焦点が次第に合ってきて、骨が一杯浮いていると気づき仰天した。今なら豚骨ラーメンで当たり前の光景なのだろうけれど。

小唄の稽古にも連れて行かれた。戦争で焼け野原になる前は市内電車が港の方まで走っていたようなのだが、戦後はその線路を撤去して細い通りが出来ていて、両側には細々とした店が並んでいた。その通りの一軒の家の二階に小唄のお師匠さん、小唄のおばさんがいた。父親は宴会の席での余芸として小唄をうなるために、その“おっしょさん”に小唄を習っていたようなのだ。とにかく父親が小唄を練習している間、脇に座らされて終わるのを待っていた。たぶんその“おっしょさん”に可愛がってもらったのだろうが、覚えていない。

 

ついでに

 父親が早くなくなったためか、“父親”のような人を片想いで求めた時期があった。実の親ではないから自分の尊敬できそうな人を自由に選ぶことができた。これは父無し子のメリットである。コバンザメのようにくっついた。1人は友達のお祖父さんで、人生の粋も辛いも超越した瀟洒(しょうしゃ)なお年寄りだった。会話もセンスに満ちていた。しばらくして彼が亡くなったあとは、北海道の山の中を開拓していた遠縁のおじさんになった。もともとは小笠原の父島生まれで、農林省の役人だったのだが、無一文の状態で十勝の山に入って開拓を始めた人だった。北大寮歌の一つ「生命の争闘」の作詞者でもあり、一晩中話をしていても飽きないとても深みのある人だった。最後に会ってから数ヶ月後に、残念にも急に亡くなってしまった。会ったのは二回ほどしかない。それ以降は“父親”のような人を求めることもなくなった。自立したのかもしれない。

 

自分で買った最初のクルマ ホンダライフ

家庭を持って最初に買った我が家のクルマにも書いておこう。そもそも運転免許証を取ったのは高校2年の時である。もちろん「普通免許」ではない。家の隣のおじさんに借りたスクーター“ラビット”(旧中島航空機の後継である富士重工業製。今のスバル)に乗ってずいぶんと遠出をして、山の中の田舎の駐在所のおまわりさんに無免許で捕まったのだ。高校の学生証を見せても信用されず、盗んだと思われたらしい。隣のおじさんの会社に電話して迎えに来てもらった。一緒についてきた若い人が代わってスクーターに乗ってくれたのだが、隣のおじさんは「乗って帰りたいだろう」と途中から交代させてくれて、我が家まで“無免許”で乗って帰った。今でも隣のおじさんのこの太っ腹には感謝している。

その日から1週間、学科科目を猛勉強して県の運転免許試験場で「軽自動車免許」を取った。実地試験はスクーターだったから慣れたものだった。もちろんしばらくして家庭裁判所に呼び出されてお小言をもらった。父兄同伴とのことだったが、父もいないし兄も家にはいなかったので、知り合いの花屋の兄さんに付いてきてもらった。今でもこの兄さんには感謝している。まだご健在だろうか。御礼を言いたいものだ。無免許運転で捕まったことも高校には知られなかったのだろう。この時代は世間の目もおおらかだった。

この「軽自動車免許」は不思議な免許で「二輪車なら排気量制限無し・四輪車は360cc制限付き」だった。普通車は運転できないのだ。結婚して子供が生まれる事がわかってから、360ccの軽自動車をあれこれ探した。ちょうどホンダが軽自動車初の四ドア車であるホンダ“ライフ”を発売(1971年)した直後であった。家族が増えるので4ドアは決め手だった。50万円はしなかったと思う。

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会社の近くのオートバイ屋で売っていることがわかり、申し込んでおいてから、ある日仕事が終わって取りに行った。一緒に乗って我が家まで来てくれるのかと思ったのだが、店の親父は「乗って行け」という。クルマを買いに来た者は運転できるに決まっていると当然思われたであろう。それまで、とにかく四輪車は一度も運転したことがない。と言って「運転できない」とは言えない雰囲気だった。当時の借家の我が家までおよそ3kmはあった。アクセルとブレーキ、それにクラッチの位置もよくわからない。もちろんクラッチ操作・ギヤチェンジの仕方もわからない。ハンドル操作もしたことがない。店の親父が見守る中を運転席にとにかく乗って、ローギアに入れて走り出そうとして、すぐにエンストした。何回かエンストしてからやっとローギアで走り始めた。ギアチェンジはしないでそのまま冷や汗を掻きながらゆっくりと我が家までたどり着いた。その日から仕事が終わって我が家に帰るとクルマの少ない国道を通って人のいない山の中の道に行き、毎晩100km目標で一ヶ月は続けたと思う。結構な距離になったはずだ。

このホンダライフにはよく乗った。屋根にキャリアーを取り付け、ヨットとマストを積み、家族4人、それにテントや炊事道具など一式を積み込み、山を越え、野を越え、湖・海によく行った。ヨットを積み込むと、ヨットのバウ(艇首)がクルマの先に突き出てしまい、交差点で止まると前の信号機が見えない。そんな時は対面するクルマが走り出した頃を見計らって走り始める術も覚えた。箱根や信州の峠道を360ccでよく登れたなと思う。登りには弱いが、下りには強い。心得て乗れば、何の問題もなかった良いクルマだった。パワーアップした今の660ccはすごいだろうなと思う。

 軽自動車免許はその後廃止になった。今はもう無い。1975年に普通免許の試験を受けて切り替えたが、おかげで免許証には大型二輪免許がちゃんと残っている。排気量無制限だから、いつか超大型のオートバイに乗ってみたいものだ。

 

 

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