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2019年6月 2日 (日)

第96話 「小田原宿」の前に「をたわら宿」はあったのか

第96話 「小田原宿」の前に「をたわら宿」はあったのか

 

はじめに

もう何年か前のことである。地元の自治会長が急死し、長年逃げまくっていた自治会長を代わりに頼まれてしまった(第64話「自治会長になったわけ」)。自治会長になってにると、地元についてあまりにも知らなかったことに気がついた。それで住んでいる「久所(ぐぞ)」について、近所の長老などに話を聴いたり図書館で調べて資料を作ったのであるが(第86話「久所の始まり」、第88話「久所のむかし話」)、ところがこの資料を知人が見つけ、地元の歴史愛好家の方々の集まり(小田原史談会)の会報に載ることになってしまった。つまり会員になったのだが、この会の集まりに出席すると時々発表せよとの宿題が課せられる。テーマは何でもいい。だが、どうせなら地元の誰もが興味を持っているけれども、誰もまだわかっていないらしい話がいいと思い、「なぜ小田原との地名になったのか」に決めた。つまり、「小田原のルーツを知りたい」との大それたテーマである。というのも、会合に何回か参加しているうちに地元の歴史に興味を持つ方々の楽しみ方は二つのカテゴリーがあるように思えてきたのだ。

一つは書籍を読んだり講演を聴いたりして、さらに興味がわき出すと専門書や古書を解読しながら新たな知識を増やし関心のある分野の理解を深めていく楽しみ方である。ほとんどの会員はこのタイプであろうと目星を付けた。新参者の私としては、極めて特殊なテーマに限定し、重箱の隅を突くように詳細に調べ尽くして、新たな情報を提供して会員に貢献する方法論もあったろうが、地元の歴史をほとんど知らないで過ごしてきた私にはこのような方法論は無理であると最初からわかっていた。

もう一つは、誰でも知っているような一般的な情報を出来るだけ広範囲に集め、関心のある自分のテーマにそれらを関係づけながら「あり得ない話でもなさそうだ」との筋書きを推理していく楽しみ方だ。ひらめいた思いつきをもとに自分だけの仮説を創っていく方法論である。私のようにまだ深遠な深みを知らない新参者だからできると言ってもいい。しかしこの推論プロセス(アブダクション)で創られた仮説は論理の飛躍が大きいために、相手にホラ話・あり得ない話との気持ちをしばしば引き起こさせる。しかし、万が一にも本当にあった話かもしれないと少数の人たちが感じてくれたら、うれしいことだ。あらゆる地元の歴史の詳細をおどろくほどご存じの長老たちがどのような反応をするのか知りたいと思ったこともある。

 

史料を年代順に並べて俯瞰する

そのような次第で、半年ほど前突然に「なぜ小田原なのか・いつから小田原なのか」と、急に「小田原のルーツ」を知りたくなった。それまで気にもしなかった事柄が、急に気になるようになる瞬間が人生の中では時々起こるものだ。とにかく半世紀近くも住んでいるのに何も知らないので、まずは網羅的に、というか何か手掛かりが得られないかと、「小田原」との言葉が出てくる史料を、『小田原市史』や近隣の市町村編纂の史料、図書館の文献・事典・辞書類を片っ端から拾い集め、読み、調べて、史料をリストアップした。

最初にわかってきたことは、「小田原」との言葉については、江戸時代末期に出版された『新編相模風土記稿』(江戸幕府 昌平黌編1841)では次のように言っていたことである。すなわち、『門川村(現湯河原町)の蔵から出て来た古文書によると、古くからの地名「小餘綾(こよろぎ)」が小余綾(こよるぎ)となり、それが「小由留木」と書き表されるようになって、その草書体を「小田原」と読み間違えたことに由来する』との「小由留木説」を紹介している。この説は現在でも「小田原」との言葉のルーツとしてしばしばあちこちの一般的な資料で紹介されているは知っていた。しかし語り言葉としての「こゆるぎ」が発音のまったく違う「をたわら」に変化することはあり得ないことだ。この説は江戸時代にいた頓智の利いた誰かが言い出した歴史に残る名ジョークと思った方がよさそうだ。

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次ぎに、「小田原」との言葉が出てくる史料を作られた年代順に並べて上から眺めることにした。すると興味深いパターンが見つかった。史料に「小田原」との言葉が出て来なくなる時期があったことだ(表の中で『市史』とは『小田原市史』の略)。

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最も古い史料は、『新編相模風土記稿』の中で記述されている奈良時代の『相模国風土記』なのだが、この古『相模国風土記』は現存していないので「小田原」との地名が本当にあったのか今となっては確認できない。当の昌平黌の編集担当者も信用できないと書いている。

加えて、この奈良時代に編纂された古『風土記』は、それ以前に出された『風土記撰進の勑』(713)に定められた地名の「好字二文字化」、つまり中国の伝統に従ってすべての地名を好ましい意味を持つ漢字の二文字にせよとの指示に従って書かれている。たとえば、泉は和泉に、三野は美濃に、遠淡海は遠江などのように、強制的に変更された。そのため、平安中期の『和名類聚抄』によれば、それまでの地名は好字二文字に徹底され、全国3330の「郷」の一・三・四字の地名は全体の約1%にすぎなくなったという。現在でも日本の地名は圧倒的に二文字が多いのはこの奈良時代の布告によると思っていいのだろう。そのような次第で、もしも三文字の「小田原」が当時すでに存在していたとしたら、たとえ「郷」のレベルよりも狭い地域の地名であったにせよ、「好字二文字化」の影響を受けて別の表現になっていた可能性が高いと思われる。従って奈良時代の古い『相模国風土記』に「小田原」との言葉があったとの説は信用しない方がよさそだ。

その次に「小田原」の地名が出てくる史料は五百年後の十二世紀末、鎌倉時代を舞台とする『曽我物語』であった。『曽我物語』では、建久二年(1191)に曽我祐成(すけなり)が 「小田原の宿より始めて佐河(酒匂)・古宇津(国府津)・・・・等の宿に出入りした」との記述がある。また『佛牙舎利記』では 「建暦二年(1212)、将軍実朝が円覚寺舎利殿への宋から送られてくる仏牙舎利(お釈迦様の歯)を小田原で待った」との記述が見られるようになる。

 

「小田原」が現れなくなる

その後、明らかに小田原を通った旅の記録なのに「小田原」の記述がない史料が数十年間続く。まず飛鳥井雅有の『春の深山路』(1280)では「箱根越えして、酒匂宿に泊まる」とあり、「小田原宿」ではなく「酒匂宿」に泊まっている。ほぼ同じ頃、『十六夜日記』(1283年頃)で、阿仏尼はけわしい箱根を越えたのち次のように語っている。「・・・麓に早川といふ川あり。・・・・、湯坂より浦に出でて日暮れかゝるに、猶とどまるべき所遠し。伊豆の大島まで見渡さるゝ海づらを、いづこかといふと問へば、知りたる人もなし、海人の家のみぞある。鞠子川という川を、いと暗くたどり渡る。今宵は酒匂といふ處にとどまる。明日は鎌倉に入るべしとなり。・・・」と書いた。つまり、箱鎌倉時代の東海道である箱根の湯坂道を下ってきて、早川から酒匂川に向かう伊豆の大島が見える浜辺(今の御幸の浜あたりで、まさに小田原の地)で出会った漁師に、ここはどこかと聞いても地名を知らなかったと書いている。この時、都の上流階級の才女が洗練された京言葉で質問しても、当時の相模国の片田舎の粗野な漁師には言葉が通じなかった可能性は大いにある。しかしこの六十才を越えている老女はまだ暗い早朝に三島宿を出発し、日が暮れて酒匂宿で泊まるまでに四十キロ近くを歩き通して来たのであるから、もしも宿泊可能な「小田原宿」がすぐそばにあったならば、さらに遠い酒匂宿に行くことはなかったであろう。

 

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次の『宴曲集・巻第四・海道下』(1296年以前に成立)では 「足柄峠を越え、箱根湯本にまわり、早川を渡り、磯伝いに駒で鎌倉へ行く」とあり、明らかに小田原を通っているのに記述がない。そのあとの『遺塵和歌集』(1300)では、「弘安のころあづまへまかりて・・・・・・竹のした 関もと さかう はやすぎて こいそ 大いそ さがみがは・・・・・」とあり、箱根峠ではなく足柄峠を越えて関本に下り、酒匂川を渡り、大磯に向かっている。小田原の記述はない。

 

「小田原」が再び現れる

ところが、嘉元三年(1305)頃に書かれたと思われる金沢文庫所蔵の『称名寺文書の某書状』では「二所への御まいりの人ハ、をたわらと申候にとゝまりし候」とある。定説ではこの史料が「小田原」との言葉の初見と言われている。この史料は源頼朝が1188年に始めた「二所詣」が民衆にまで広がり、三嶋大社・箱根権現・伊豆権現への東海道や箱根道が整備され、「小田原宿」がこの頃には成立していたことを示唆している。さらに「十六夜日記」を書いた阿仏尼の子である冷泉為相(ためすけ)の『藤谷和歌集』(1310年頃)には、『小田原 同(さがみ) つくりあへぬ 春のあら小田はらひかね よもぎながらに今かへすらむ 』と詠んでいて、母阿仏尼が通った約三十年前とは違って「小田原」が登場している。そのあとの『足利尊氏関東下向・宿次注文』(1335)や『箱根権現参詣・遷宮目録写』(1346)にも同様に「小田原」が登場し、以降「小田原」との地名頻繁に登場するようになる。

 

中断期があるのはなぜなのか

以上のように「小田原」との言葉が出てくる史料を年代順に並べると、1200年代初めには「小田原」との地名が現れているのに、その後現れなくなる数十年間の中断期があり、1300年以降の史料にはまた頻繁に出てくるとのパターンが見られる。なぜなのだろうか。現在の定説では『曽我物語』や『仏牙舎利記』が実際に書かれたのは鎌倉時代よりもあとの南北朝(1336-1392)の頃なので、これらの史料に書かれた年代はそもそも信頼できないとされている。つまり「小田原」との地名が現れなくなるとの中断期のパターンはあり得ないと言うことになる。

しかしながらよく知られているように、「古代ギリシャのホメロスの物語は歴史上の真実のことを記述していない」との定説の中にあって、ハインリッヒ・シュリーマンは実際にトロイの地を発掘することにより、トロイの話は真実であると明らかにした。もしも『曽我物語』や『仏牙舎利記』の中の年代の記述が正しいとしたら、1200年頃にはすでに“をたわら”と呼ばれていた地に宿場があったことになる。現在の「小田原宿」が成立する前に存在したかもしれないその宿場を、のちの「小田原」宿と区別するために、仮に「をたわら」宿と名づけることにしようと思う。その「をたわら宿」は後に衰退あるいは消滅するとの変遷を経て、1300年頃に「小田原宿」として再登場し、発展していったことになる。

これは本当にあり得る話なのだろうか。「小田原のルーツを知りたい」とのテーマで調べていったら、現在の「小田原宿」とは別の「をたわら宿」がその前にあったかもしれないとの話になってしまった。それなら、それでおもしろい。さらに調べて見ることにした。

 

松原神社は小田原宿の総鎮守

いろいろな史料を見ていくと、十四世紀頃の小田原宿は現在の松原神社付近にあったと比定されている。鎌倉時代の終わり頃から「小田原宿」の場所は変わっていないことになる。松原神社は、明治以前には松原大明神と呼ばれていて、小田原宿の総鎮守として知られている。小田原宿と松原大明神は古くから固い縁で結ばれてきたことがわかる。松原神社の由緒によれば、松原大明神は鎌倉時代が始まる前、平安時代末期の久安年間(1145-1150)に勧請されたこと、最初は相模国足柄下郡山王原村松原にあったとの説が示されている。つまり松原神社は山王原村の“松原”から現在の小田原宿の地に移転したとされている。

山王原村とは現在の小田原市東町一帯を言い、町名改正以前は小田原市山王原と呼ばれていた。『新編相模風土記稿』によれば、その山王原村はさらに古くは原方村と呼ばれていたようなのだが、のちに村の鎮守の山王社にちなんで山王原村としたとある。調べて見ると、その時期は江戸時代初期の正保年間(1644-1648)だったらしい。平安末期に松原大明神が建立された頃は山王社もなければ山王原との地名も無かったであろう。山王社は松原大明神が移転したあとに建立されたのであろう。現在でも山王神社は松原神社と深い縁で結ばれているらしい。もしも「をたわら宿」が存在していたとしたら、鎮守としての松原大明神の近く、つまり後に山王原村と呼ばれる地域の街道筋、すなわち鎌倉時代の古東海道沿いにあった可能性が高くなる。

 

江戸時代に山王原村に小字「上宿」・「中宿」があった!

何か手掛かりがつかめるかもしれないと思い、山王原村の小名(小字)を調べて見ると、江戸時代末期には「新屋」・「上宿」・「中宿」の三つがあった。なぜ「宿」のつく小字が二つも存在するのだろうか。この事実は、もしかしたら、はるか昔に山王原の地に「宿」があったことを裏付けているかもしれないとの妄想が湧いてきた。地名は長年にわたって変化せず、化石のようにそのまま残っていることが多いのだ。

現在も小字として残っているかもしれないと思い、隣の二宮町にある神奈川県西部地方の土地台帳を管理する法務局の出先まで行って、明治時代からの小田原市山王原地区の小字を調査した。しかし小字としての「上宿・中宿」はすでに歴史の中に消え去っていて見つからなかった。それは明治22年の町村合併を皮切りとして、今日までの幾度かの大規模な市町村合併によって、小字のような地名は残念ながら消滅してしまったようだ。古い地名がどんどんと消失していることは、歴史を消し去っていることに他ならない。実にもったいないことだ。

 

宿場があった土地には「宿」のつく小字が残っている!

何か別の手掛かりがつかめるかもしれないと思い、さらに『新編相模風土記稿』に記載されている江戸時代末期の小田原宿を含む足柄上郡・足柄下郡のすべての村々の小字の地名調査をすることにした。すると、江戸末期には二つの郡に199もの村々に639もの小字があり、その小字名リストをじっと眺めているうちに特徴的なパターンがあることに気がついた。古くから街道筋に宿場の存在が広く知られている地には必ず「宿」の字が付く小字があるのだ。これはとてもうれしい発見だった。

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すなわち「小田原宿」のあった小田原には現在も残っている「新宿町・中宿町・古新宿町・臺宿町」が、平安時代から知られている「酒匂宿」のあった酒匂村には小字「中宿」が、また古代からの箱根を越える足柄道の重要な宿場であった「坂本宿」の関本村には小字「上宿・中宿・下宿」があった。さらには箱根の温泉宿として発展してきた湯本村にも小字「下宿・中宿」があった。前川村にも小字「中宿」があったが、これは古代の「国府津宿」に関連しているのかもしれないし、あるいは朝鮮通信使の休憩所が置かれていたとの史実があるので、「宿」があったのかもしれない。「宿」とは地元民ではないヒトがその地を訪れた際に宿泊できる機能を持つ公共的な施設であって、必ずしも“宿場”であることを意味してはいない。

一方、久野村のように小字「中宿・下宿」があるのに、主要な街道筋でもなく、宿場の存在は知られていない例もあった。しかし「久野」については古くから箱根からの山道が続いていたし、久野街道との田舎の街道もあった。「坊所」との地名も残っているし、宿坊のような宗教に関連した「宿」機能を持つ施設があったかもしれない。これは調査をしてみる必要がある。

ともあれ、作業仮説として、過去に宿場があったと知られている地には時代が経た後にまで「宿」の付く小字が残ることが多いと言えそうである。しかし、逆に「宿」の付く小字があったからと言って過去に宿場があったとは、現時点では必ずしも言えないことにも留意しておいた方がいいだろう。

 

「をたわら宿」の誕生

江戸時代後期の山王原村に小字として「中宿・下宿」があったとの事実から、過去にこの地に「をたわら宿」があったかもしれないとの可能性を信じることにしよう。もしも「をたわら宿」が存在していたとしたら、その「をたわら宿」は1200年代の後半に西におよそ三キロメートル移動し、宿場の鎮守であった松原大明神とともに現在の小田原宿の地に移ったことになる。のちの「小田原宿」が成立した頃の最初の規模は宿の数で7〜8軒と推定されているので、それ以前の「をたわら宿」は数軒程度の小さな規模の宿場であったであろう。

古来より酒匂川河口の左岸には「酒匂宿」があった。川を渡った右岸には箱根山に向かう海辺の東海道がつづいていた。この古東海道は鎌倉幕府主導の「二所参詣」が盛んになるにつれて往来する人たちが増えてきて、街道筋も次第に整備されてきた。酒匂川は暴れ川である。東海道の大井川の両岸に島田宿と金谷宿が出来たように、雨が降ったら渡れなくなる酒匂川の右岸にも、左岸の酒匂宿のような宿場、「をたわら宿」ができるようになるのは自然の成り行きであったであろう。

酒匂宿から対岸に渡った先の風景を描いた江戸時代の歌川広重の絵がある。同じように鎌倉時代初期の旅人も酒匂川を歩いて対岸(のちの網一色村)に渡ってから、いったん川沿いに歩き、すぐに古来より小余綾の浜と呼ばれた海辺に沿って右に曲がり、古東海道を箱根に向かって歩いたであろう。「をたわら宿」ももうすぐである。「をたわら宿」の鎮守である松原大明神もこの松原の中にあったはずだ。のちに山王原村と呼ばれるようになるその一帯も、古来から広く「をたわら」と呼ばれている地域の中に含まれていたのかもしれない。「をたわら」とは西にある早川の左岸から東にある酒匂川の右岸までの地域を言っていたのではないか。

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なぜ移転したのか 大地震? 地政学的理由?

「をたわら宿」が存在したとすれば、この「をたわら宿」は1200年代の後半に現在の「小田原宿」の地に移転したことになる。なぜ移転する必然性があったのだろうか。『新編相模風土記稿』によれば、山王原村の鎮守であった山王社は慶長年間の巨波で壊れ、移されたとある。現在の山王神社は山王川の河口から300mほど上流の左岸、つまり小田原側に位置しているが、明治時代に川筋を改修する以前は右岸、つまり山王原村側にあった。この江戸時代の大津波は調べて見ると1605年の慶長地震と思われる。松原神社の由来にあるように、松原大明神が現在の「松原神社」の場所に移動した理由も、鎌倉時代にこの地を襲った大地震・大津波かもしれない。 

古代から戦国時代にかけて相模国を襲った大地震を調べると、実際に鎌倉時代にこの地を大地震が頻繁に襲っていたことがわかる。つまり浜辺の松原にあった松原明神社、そして「をたわら宿」は、時期的にみて、十三世紀の1220年、1227年、1240年、1241年、1257年のいずれかの大地震と大津波で壊滅し、より安全な現在の小田原宿の地に移転した可能性がある。

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移転した理由は大地震・大津波だけでは無いかもしれない。時代と共に現在の「小田原宿」の地の方が宿場として地理的に有利な条件に変わってきたことは大いに考えられることだ。「小田原宿」のある場所は、鎌倉時代に入り足柄道に代わり主要道となってきた箱根越えの箱根道を通る東海道と、古来からある足柄峠に向かう甲州道、そして伊豆山権現に向かう熱海道という鎌倉時代の三つの主要街道の分岐にあたる。軍事的にも抑えの場所として戦略的に有利な場所だったと言える。この条件は、当時、この地域の覇権を握っていた中村党の小早川一族にとっても、また地元民や旅人にとっても、単なる通過点の酒匂川脇の「をたわら宿」の地よりも好ましい要因が多々あったはずである。三つの街道が集まる場所に市庭ができ、商いをする仮屋が立ち、人が集まり、集落が大きくなっていき、宿泊する旅人も増えていくという好ましい条件である。そのために「をたわら宿」よりも新たな「小田原宿」の方が繁栄し、「をたわら宿」は自然に衰退していったとの筋書きも、またあり得る話である。

 

おわりに

以上のように、現在残されている様々な情報や史実を関連づけると、「小田原宿」が出来る前に山王原の地に「をたわら宿」の存在した可能性がある。そうであるとしたら、『曽我物語』や『仏牙舎利記』に出てくる“小田原宿”は 初期の「をたわら宿」のことであり、『春の深山路』、『十六夜日記』、『宴曲集』、『遺塵和歌集』などに「小田原」との言葉が現れない理由は、1200年代後半に宿場としての「をたわら宿」が消滅あるいは衰退したからであり、そして1300年以降の史料に「小田原」との言葉が頻繁に現れるようになるのは新たな場所に「小田原宿」が誕生し、発展してきたことによるとの説明が可能になる。果たして歴史の事実はどうなのだろうか。

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それにしても、我が家のすぐそばの諏訪の原丘陵地帯に、縄文時代の初め頃の一万五千年も前から住み始めたご先祖様たちとその末裔たちは、弥生時代になって山から平野に移って暮らし始めたのであるが、いつ頃からこの地を「をたわら」と呼ぶようになったのだろうか。漢字がこの地に伝わって、自然地形から「小田原」と表現するようになってからなのだろうか。すると奈良時代以降になってしまう。しかしそれ以前からヒトは住んでいて土地の名前を口にしていたはずだ。それは何であったのだろうか。「小田原のルーツ」を知りたいとの疑問は残ったままになった。別のアプローチが必要だ。

 

 

 

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