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2017年6月

2017年6月28日 (水)

第95話:白内障の話 その2 モネと白内障

第95話:白内障の話 その2 モネと白内障 v.3.0

 

前話(第94話)では白内障の手術によって私の色彩世界が大きく変わる体験を述べました。調べてみると、あの印象派の画家モネも当時としては異常なほど長生きをしたために白内障にかかり、84歳の時に手術をしていました。彼の体験した色彩世界の変化がどのようであったのか知りたくなりました。

白内障にかかった経緯は、年代記風に書くと次のようになります。

・1840( 0歳) モネ、パリで誕生
・1865(25歳) 初めてサロンに入選する
 (注:その後、普仏戦争を避け英国に滞在する1870年前後からモネの絵は急に大きく変わる。
    ターナーの画風や科学的色彩論の影響を受けて、“印象”的な絵になっていく。)
・1874(34歳) 第1回印象派展。「印象、日の出」を出展。
   ・・・・・・・・・・・・・
・1908(68歳) 春,眼に異常を感じ始める 
・1912(72歳) 夏頃、白内障と診断される。特に右目の容態が悪い。
・1923(84歳) 1月と7月に右目の手術を受ける。矯正用のメガネを掛け始める。
・1926(86歳) 12月5日死去。

資料はネットオークションで手術後にさっそく手に入れたカタログ「マルモッタン・モネ美術館蔵 モネ展 図録」(2015)より引用しています。このマルモッタン・モネ美術館はモネの晩年の作品、つまり白内障にかかる前の絵の他に、かかってから手術をするまで、そして手術後の作品(と思われる絵)が特に多く所蔵されているので、今回の私の関心事に関しては最もふさわしい美術館であり、美術展だったということになります。

 

白内障になってどうなったか

モネは50歳になった1890年に、終の住みかとなるノルマンジーの村ジヴェルニーに土地と邸宅を買い、買い増ししながら広げ、例の「蓮の池」を作り、日本風の太鼓橋を架け、バラを植え、庭にもアトリエを作るなどしていきました。眼に異常を感じるようになったのは1908年(68歳)の頃と言うから、引っ越してから18年も経っています。白内障の手術は1923年(84歳)ですから、1908年から1923年の間に描かれた絵は明らかに白内障にかかった影響が現れているに違いありません。そのような絵が実際に存在しています。

<絵画:日本風の橋の光景>

次の図は睡蓮の池にかかる日本風の太鼓橋の風景をほとんど同じ位置から異なる時期に描いたものです。左の絵は1900年だから正常な眼の時であり、右の絵は1918-24年となっていて描いた時期の幅が広いので特定できません。白内障にかかっていた1918年に書いた絵を手術後の目で見てあまりにも変わっていたので、手術後の1924年に少々手入れした可能性があることを暗示させます。とは言え、1918年の絵は、視力が衰えていたために全体がボケていて暗く、黄色がかっていて、私の体験との違和感はありません。

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<絵画:画家のアトリエの光景>

次の絵は「バラ園から見た画家のアトリエ」と題した同じ位置から描いた1922年の白内障の時の絵と、手術の年(1923年)をまたいだ1922-24年の絵です。

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左の絵はボケていてすべてが黄色から赤味を帯びた色彩になっています。右の絵は正反対にすべてが青白く描かれています。この色彩変化は私の手術後に見た光景にそっくりです。最初の手術をしたのは1923年の1月だから、左側の絵は1922年と言っても手術直前に描いていた絵の一つで、ひょっとしたら未完成のまま放置され、手術後にみた色の世界があまりにも変わっていたので、1924年に大幅に手入れをしたのではないかとも考えられます。とにかく美術館側もモネが描いた年を特定できないと説明しているので、本当のところはわかりません。

 

モネの色彩世界の変化

モネが白内障にかかった年齢では、目の前の色彩の世界は物理的に言えば下図に示した高齢者(Older)ようになっていたはずです。しかし若者(Young)から高齢者(Older)への色彩世界の変化は極めて徐々に起こっているので、私の経験からいえば、それに気がつくことはまずありません。モネは68歳の時に眼の異常を感じたのですが、その時は右と左の眼のバランスがおかしくなったとか、視力が衰えたとの気づきであったでしょう。眼医者に行く気になって白内障と診断されたのはその4年後のことであり、手術を受けたのは更にその12年後と言うことになります。つまり、眼がおかしいと気がついてから16年たって84歳で手術をした時は、特に右眼の白内障がかなり進行していたことは疑いありません。その時には図の高齢者(Older)のように、全体的に網膜までの光の透過率が落ち、特に青色から緑色にかけての寒色系の色が見えにくくなっていたはずです。赤色の側の暖色系の色の見え方の低下が少ないことは明らかです。これらのデータはモネの描く同じ場面の色彩世界の違いを説明しています。

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手術後のモネの黄色いメガネ

モネは手術後、黄色に着色したメガネを掛けるようになりました。手術した右眼用はぶ厚い黄色の凸レンズ、手術をしなかった左眼用は曇りガラス状の黄色のただのガラスフィルターのようにみえます。ベッドの上でそのメガネを掛けて、意気消沈したように横たわっているモネの写真(左)が残っています。

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「モネ展 図録」の説明によると、説明によると、このメガネは 『白内障の術後の色覚異常矯正するための仕組みになっている。左目のレンズは、左右の眼の見え方の違いから生じる二重像を防ぐため、不透明になっている。右のレンズは手術を行った眼のために少し黄色に着色してあり、分厚い凸レンズとなっている。黄色は青が強く見える状況を改善し、さらに以前より光をまぶしいと感じる問題を解消してくれるものとなった』 とありました。黄色は青色の補色であり、見えすぎる青色を白色に変えています。

 

見えない眼で絵の具の色をどのようにして選んだのだろうか

モネが手術をした右眼は、その直前ではほとんど失明に近い状態ではあったかと思われます。また手術をしなかった左目でも視力は著しく落ち、色彩認識は白内障にかかる前とはかけ離れていたはずです。またそのことを画家であるモネはよくわかっていた、と思うのです。たとえば、目の前の春の若葉を見て、表現したい色をパレット上の絵の具から見て、選んで、キャンバスの上に移す時に、描いた色が「春の若葉の色はこんな色だ」という過去の経験からの記憶色と違ってしまうことが多々あったと思います。

下の写真に示すようなモネのパレットが残っています。残っているということは、最晩年の最後の絵を描いた時に使った状態で残っているはずです。白内障に掛かる前、白内障にかかったあと、そして手術後にも使ったパレットであろうと思いたいのです。印象派の画家はパレット上に基本となる少数の色相の絵の具を置いていることのが特徴です。印象派で点描画家のスーラもそうでした。それら少数の色をキャンバスの上に移し、並置して視覚混合させ、色彩を表現するというシュヴルールの言う「色彩調和論」を実践していました。だから、パレット上のどの位置にどの基本色があるのかは決まっているので、あらためて探さなくてもわかっていたと思います。だから、色の識別が白内障で困難になっても何とか絵が描けたのでしょう。もう一つ言えることは、目で見て選択する色の識別はむずかしくても、絵の具のチューブには色番号が書いてあるから、その番号を何とか読めば、長年の経験から望みの色を描くことができたでしょう。絵の具チューブは米国人画家ジョン・ゴフ・ランド(1801-1873)によってすでに1841年に発明されていました。

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白内障はなぜ起こるか

日本人に多い病気は厚生労働省の調査(2008)によると、1位:高血圧、2位:歯の疾患、3位:糖尿病、4位:がん、5位:脳血管疾患、そして6位:白内障のようです。白内障は年齢と共に誰もが必ず罹る病気です。しかし「眼内レンズ」手術が進歩したおかげで誰もが直る疾患となったと実感しています。

間違っているかもしれませんが、私は白内障の症状の発生メカニズムは次のように理解しました。先ずは眼の構造を下記に示します。

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「白内障」は他人から見ると相手の眼が白くなって見える病気です。緑色に見える場合は「緑内障」です。白内障にくらべたらかなり重篤な眼の疾患です。白くなって見えると言うことは、光学的には透明なはずの水晶体の中に光の散乱体、すなわち周囲の体液と屈折率の違う蛋白質の変質した粒子のようなものが多数発生し、散乱して光が網膜に到達しにくくなったことを意味しています。蛋白質が変質して少々硬くなるだけでも、屈折率はわずかに高くなりますから、光路は乱れ、光はまっすぐには通らなくなります。水晶体細胞は皮膚と同じように新陳代謝で新しい細胞が生まれて老廃物が発生する(らしい)のですが、しかし体表面の皮膚と違って垢のように体外に効率的に廃棄されるメカニズムがありません。つまり眼球の中に老廃物が堆積されていくことになります。私を含めて高齢者の眼球がぶよぶよと大きく張り出すようになってくる原因だそうです。

同時に、加齢や紫外線、過剰な強い光などにより、タンパク質が変性して黄色く着色したり、色素が沈着したり、硬化していく現象も起こります。その結果、周囲が暗くなると急に見えにくくなったり、視力が低下したり、さらには網膜までの透過率の波長依存性が前述の図ように変化して、色の見え方が変わってくると私は理解しています。ただし色の変化はほとんど自覚がありません。手術をして初めてわかることになります。

 

古代から白内障手術は行われていた

モネの白内障の手術は1923年に行われ、治療後はメガネを掛けていました。私の白内障手術の場合のように「眼内レンズ」を入れてはいません。90年以上も前のモネの手術はどのように行われていたのか、白内障手術の歴史を調べることにしました。参考にしたのは、主として 「白内障手術の歴史」(三島済一、「臨眼」誌 連載 全4回、1994年〜1995年)他です。

それによると古代の人は寿命が短かったとは言え、白内障にかかる人もいたようです。お釈迦様が生まれる頃の紀元前800年頃、つまり今から3000年も前に、インドのベンガル地方にいた“ススルタ”という名高い医者が医学書をしたためていて、その中に白内障の手術をしたという記述があるそうです。この手術の方法は変質して硬くなった水晶体を針で突いて、眼の内側に落とすという荒っぽい方法でした。この方法は、"Couching"(クーチング、硝子体転位法)と呼ばれているようです。

水晶体がないと強度の遠視の状態になります。レンズがないカメラのようなものですが、それでも明暗はわかるようになるし、ひょっとしたらピンホールのメガネで目の前の光景が見えたのかもしれません。この手術の方法は1800年頃まで、日本を含めて世界の各地で行われていたようです。

日本ではこの白内障を意味する言葉が、平安時代に書かれた現存最古の医学書「医心方」(いしんぽう、984)に出ているのだそうです。白内障の手術は、水晶体を眼の中に突き落とすという上記の"Couching"法が室町時代の初期(1350〜1360)には行われていたとのことですが、おそらく中国から伝わったのではないかとされているようです。ずいぶんと昔から白内障の手術は行われていたことになります。

18世紀になると、変質した水晶体を手術で眼の外に取り出すという方法がフランスで考案されました。"Extraction"(エクストラクション、水晶体摘出法)と言うようです。この方法の方が危険は少ないということで、"Couching"法に代わって20世紀半ばまで行われていきます。1923年のモネの右眼の白内障手術は、水晶体を摘出するというこの"Extraction"法で行われたことになります。何とか見えていた左目はあえて危険な手術を行わなかったのでしょう。

年をとれば誰でも遠視になります。年齢とともに水晶体はかたくなり、水晶体の厚さを調整する機能が困難になり、近くのものにピントを合わせることができなくなります。凸レンズを遠視用のメガネに使うというアイディアはすでに13〜14世紀にイタリアで考案されていたというから、白内障手術をして水晶体を取ってしまっても、強い度数の凸レンズ・メガネで視力は何とか補正できたのでしょう。見えないよりはましですし、何も文字を読めないよりは少しでも読めて方が良いに決まっています。手術後のモネのメガネはそれだったと思います。

 

「眼内レンズ」という眼科手術の革新が起こった

では、今日のように水晶体を取りだした跡に眼内レンズを入れるというアイディアに成功したのはいつからであったのだろうかと調べてみると、眼科手術に革命を起こしたこの「眼内レンズ」法は、1949年にイギリスの眼科医Nicholas Harold Lloyd Ridley(1906-2001)が行った手術が最初のようです。そのイノベーションの発端となった発見のプロセスが興味深かったので以下に書いておこうと思います。

1940年8月15日、英国空軍戦闘機ホーカー・ハリケーンに乗っていた第601飛行中隊リーダーのパイロットGordon Cleaverがイギリス本土のウィンチェスターの上空で撃墜されました。ドイツ空軍との“Battle of Britain”が始まって1ヶ月ほど経った頃です。彼は2日前には双発のメッサーシュミットBf.110を撃墜しているのですが、この日は、記録にはないのですが、ハリケーンよりも航空性能に優れていたドイツ空軍の戦闘機メッサーシュミットBf.109に撃墜されたのではないかと私は思っています。彼はパラシュートで脱出して命は助かったものの、撃墜された際に風防(キャノピー)の破片が両眼に突き刺さったのです。18回もの眼の手術を行うことになりましたが、しかし破片を残したまま左目の視力は著しく低下し、右目は失明しました。

 

その後、英軍の眼科医Ridleyが眼の治療処置でCleaverの診察を担当することになりました。その際に、彼はCleaverの眼の中に入っていた風防材料のアクリル樹脂(ポリメチルメタアクリレートPMMA、ICI製)の破片が、ガラス製風防材料の破片の場合は炎症を起こすのに対して、何の炎症をも起こしていないことを発見したのです。アクリル樹脂レンズなら炎症を起こさずに「眼内レンズ」に使えるとのRidleyのひらめきを実際に眼科治療に試みるには、しかし長い平和な時間が必要でした。

 

Ridleyは第2次大戦後になって、そのことを思い出し、アクリル樹脂で眼内レンズを作ることにし、1949年にそのレンズを用いてインプラント手術を試みたのです。Cleaverが撃墜されてから10年もの歳月が経っていたことになります。このRidleyの方式は今日までも踏襲されている眼科手術におけるイノベーションとなりました。私も彼の恩恵を受けていることになります。

後日談として、「眼内レンズ」のイノベーションのきっかけとなった戦闘機ホーカー・ハリケーンのパイロットCleaverは70歳になった時に、白内障手術を行って「眼内レンズ」を入れ、40年ぶりに視力が回復したと言うことです。

最後に付録として、白内障とは直接には関係ないのですが、「眼内レンズ」発明のきっかけとなったホーカー・ハリケーンの勇姿を載せておきたいと思います。写真とともに示したハリケーンの三面図は「第2次大戦 イギリス軍用機の全貌」(酣燈社 昭和36.11.25)から引用しています。この図は、当時、ヒコーキを描かせたら右に出る人がいないと言われていた橋本喜久男さんの作品です。ホーカー・ハリケーンは名機スーパーマリーン・スピットファイア(「第75話スピットファイアを見つけた!」を参照)にくらべても性能が劣る平凡機だったのですが、スピットファイアに次いで大量に生産されために、幸運にも第2次大戦中のイギリス空軍を代表する戦闘機になりました。

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2017年6月27日 (火)

第94話:白内障の話 その1 私と白内障

第94話 白内障の話 その1 私と白内障 v.3.0

 

発端:星が二重に見えた

2年前か3年前のある時、秋の夜道を駅から我が家に向かって歩いていました。我が家は箱根山のふもとに位置しているので夜空は街の中よりも暗く、星がよく見えます。西の空を見上げると箱根山の上の方に明るい星が二つ並んで光っていました。今日は金星と火星が並んで見える運のいい日だったのかなと、何だか得をしたような気分で合点して歩いていました。しばらくすると、道のずっと遠くで光っている街灯が黒い山影を背景に見えだしました。しかし、明かりは1つのはずなのに、2つの光の点に見えるのです。二つに見えた金星と火星は実は一つの星であって、眼の方がおかしくなっていると気がついた最初でありました。

翌日の昼間に、明るい光の中でモノの見え方を注意して観察すると、近くにあるモノはそれほどでもないのですが、遠くにある電柱などがはっきりと二重に分かれて見えています。これまで気がつかなかっただけなのだと初めてわかりました。最近になって視力が衰えてきたなと感じて来ていたのですが、この“乱視”が原因だったと実感しました。それで、近所の眼科医に行くことにしたのです。

頼りなさそうな医者が言うには「軽い白内障です」との診断。自分がまさか白内障にかかっていたとはにわかに信じがたい出来事でした。聞いた最初の思いは「もうそんな歳になったのか!」でした。それでも日常の生活にはそれほど困らなかったので、あてがわれた目薬を気分休めに時々さす程度で毎日を過ごしていました。それから1年以上は経ったと思うのですが、自動車運転免許証の更新の時期が半年後に近づいた時に、気になって街の眼鏡屋で視力を検査してもらったら、免許証更新の眼の検査に合格しないほど視力が衰えていることがわかりました。白内障とは眼の水晶体が白濁する疾患であると理解していましたから、モノが二重に見えることと白内障との関係がよく分かりません。しかし調べてみると、白内障の症例でモノが二重に見えるとの報告もあります。そのような次第で、自動車運転免許証を更新するには白内障の手術が必要であろうと観念しました。

 

最初の検査:幻想的な光の世界に出会った

これまで眼の病気にかかったことがなく、眼科とは縁がありませんでした。実を言えば、我が家の父方の家系は江戸時代末期からの眼医者であるし、眼科医のおじさんの家には子どもの頃はいつも遊びに行っていたし、従兄弟は大学の眼科の教授だったし、その息子も眼医者になったのだから、東京の親戚の眼科医に行けばいいのですが、何時間も掛けて行く気にもなりません。そのような次第で、この地域で最も白内障手術を多くやっているとの評判の眼科医を人づてに聞いて、確率的にも私が失敗例に当たる事は滅多に無いだろうとそこに行くことに決めました。調べてみると新しく建てた本院の他に分院や手術専門の分院など3つも新しい施設を保有しているほどに繁盛していて、リストされている最新の検査機器や治療機器も素人目にも充実しているようでした。まあまあ安心してもよさそうな眼科医でした。

それで覚悟して先ずは検査に行きました。当然ながら白内障との診断であり、「手術をしますか」と直ちに聞かれました。クルマが運転できないと田舎の生活もままなりません。「お願いします」と言ったのですが、手術はすぐにではなく、3ヶ月後とのこと。数十人、ひょっとしたら百人を越える手術待ちのご同輩がいるということです。高齢化と共に白内障患者はうなぎ登りに増えていくでしょう。しかも命に関わる話でもありません。高齢化時代の眼科医は少子化時代の小児科医よりもはるかに商売繁盛することは確実でありましょう。

飛び込みで午後遅く検査にいったので、帰りは夜になっていました。医院の入口を出て道路に出てみたら、おどろくほど光の環に満ちあふれた光景に出くわしました。本当に、びっくりしました。イルミネーションで光り輝いている大小さまざまな夜の観覧車が目の前に現れたと言えばわかって貰えるのでしょうか。街灯やクルマのライトなどあらゆる点光源がその周囲に10個かそれ以上の点状の明るいリングになった多くの光源に変化して見えるのです。二重に見えるどころではありません。あちこちの街の光源がすべてそのようなリング状の光源に変化し、互いに重なり合って実に美しい。それがまた動いています。マリファナなどの幻覚剤によってもこのような光景がみえるのかしら、そうなら体験してみたいと思うような初めて見える美しさでした。

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この美しい光景は眼の検査の時に用いた瞳孔拡張剤が直接の原因なのですが、しかし白内障にかかっていなければ見えなかったのではないかと思います。今回は瞳孔が拡大されたために白内障によって生じた水晶体周辺の光学特性の異常が現れるようになったこと、加えて周囲が太陽の拡散光で満ちた昼間ではなく、クルマや街灯などの点光源が支配していた夜の光景であったことが原因であろうと推測しています。このような私の体験した光景をファンタスティックな画像として他の人も見せてあげたいのですが、夜の光景を撮ったデジカメ写真をどのようにデジタル画像処理をすればよいのだろう。知りたいものです。

 

手術:自分で見たかったな

それから3ヶ月後、最初に左目の手術をやり、1週間をおいて右目を手術しました。これまで心筋梗塞のステント埋め込み手術はしたけれど、メスを身体の中に差し込まれ切られるという外科手術はこの歳になるまで経験がなく、今回の白内障手術が生まれた初めてでした。手術は眼に麻酔剤を点滴した後、角膜の脇の方を2mmほどナイフで切開し、硬くなった水晶体を超音波振動子で細かくしながら細いパイプで吸いだすという手術(らしいの)のですが、これらの手術はすべて顕微鏡下で行われます。手術台の上に寝ている時間は1時間くらいですが、手術の本番は8分もあれば終わってしまいます。簡単だと言われても、やはり緊張しました。

「明るいところを見つめて下さい」と前もって言い渡されているので、意識して眼を開け、真上の手術灯を見つめていました。周囲の明暗はぼんやりとわかります。洗浄液というのか、何かの液体をあふれ流れるように眼に注いでいることもわかりました。麻酔をしているとはいえ、グッグっと眼にメスが刺さり、切り開らかれていくといういやな感触は伝わってきました。ときどき痛くなってウッと身構えると、「痛いですか」と担当医がいうので、「はあ!」と声を出したら麻酔剤を追加してくれました。

隣の控え室にいた配偶者はモニターテレビでこの手術を見ていました。あとから聞くと、担当医が手こずりながら硬くなったようなものを吸い出していたというのですが、その時のことだったのでしょう。水晶体は加齢により変質して硬化していたようです。そのあと人工の水晶体、つまり直径6mmの眼内レンズを丸めておいて、たった2mmほどの長さの切れ目から、特殊なインジェクション(注入器)で空になった水晶体の跡に挿入して広げて終了。すごい技術です。

自分でも手術の一部始終をずっと見たかったな、と思います。以前、心筋梗塞でステントを挿入する手術をした時は、目の前に手術用モニターがあって、担当医と同じように手首から心臓までカテーテルが伸びていく血管造影撮影(アンギオグラフィ)の動画を見ることができてうれしかったのですが、眼の手術では目の前にモニターがあっても見るわけにもいきません。

 

眼内レンズ:水晶体の代わり

下図は私の眼の中に挿入されたHOYA製の「眼内レンズ」です。手術指示書を盗み見して製品番号をメモしておいたので調べることができました。レンズ部分は直径6mm、安定させるための腕を入れると13mmもあります。この眼内レンズは紫外線吸収特性を持たせ、黄色に着色された軟質アクリル樹脂のようです。シリコン樹脂製もあるようですが、PMMA樹脂、つまりアクリル樹脂の方が屈折率は高いのでレンズ部分を薄くできます。紫外線吸収性は紫外線による術後の新たな白内障の発生を抑えるためであり、黄色の着色は術後の青色感度の急激な増加を緩和するためです。自分では気がつかなかったのですが、白内障にかかっていた年配者はもともと黄色のサングラスを掛けて世の中を見ていたのです。

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手術当日はしばらくベッドで休んだあと、配偶者運転のクルマに乗って自宅に戻りました。泊まらなくても「一日入院」になると初めて知りました。本当に大丈夫かなと思ったのですが、手術をした翌日の検査に行った時に早くも眼帯を取って、まぶしいほどの新しい色彩世界を見ることができました。挿入した眼内レンズはそれまでの肉眼の可変焦点レンズ特性と違って、明視距離に焦点が合うような固定焦点レンズにしてもらいました。これからの人生で眼の焦点の具合がどう変化するかわかりませんので、多焦点レンズはやめました。だから対象物に合わせて焦点を合わせるという肉眼のような芸当はできません。本や新聞を読む程度なら中学生の頃から掛けていたメガネを掛けずに生活が送れるのですが、自動車運転のように遠くを見る場合には新たにメガネが必要になります。人の眼はすばらしいなとつくづく思います。1週間後には右目の手術も無事終わりました。1ヶ月後には術後の両方の眼も落ち着き、視力を1.2に調整したメガネも新しく作り直し、その週のうちに警察に行き、運転免許証をも更新することができました。

 

知らない間に色の世界が変わっていた

以上で白内障手術の顛末は終わるのですが、実は手術に期待していたことは視力を回復することもさることながら、色彩世界がどうなるのかを知りたいことにありました。なぜそのようなことを期待していたかというと、手術の1週間ほど前に偶然にも手に入れた1つのデータ、すなわち眼の網膜に到達するまでの光のスペクトルが加齢と共にどう変わるかという図が載っていた論文を手に入れたからです。まさに手術前の私が知りたい情報でありました。

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図には、1歳から100歳までの人の網膜に至る眼の中の光の波長毎の透過率が載っています。一見してわかることは波長0.4μm(400nm)の青紫色から波長0.7μm(700nm)の赤色までの可視光範囲の中で、加齢と共にカーブが下に下がっている、つまり吸収が起こっていること、そして特に短波長側の光が網膜に届かなくなってくることがわかります。年齢から推定すると、私の場合は子供にくらべて青色(〜480nm)の透過率が1/3ほどに減っていたことになります。この図を見た瞬間に、子供の頃に見た色の世界と、歳を取った今の色の世界はまるっきり違っていたのだと知ってびっくりし、言葉も出ませんでした。

(注)手術後の調査で、この論文の図は国際照明委員会(CIE)から発行されている技術報告書 『ヒトの眼の透過特性と吸収特性に対するコンピュータアプローチ(修正1を含む)CIE 203 incl. Erratum 1』 報告書から引用されていることがわかりました。原本は日本照明委員会(JCIE)から入手できますが、まだ手に入れていません。

 

白内障は身体のあちこちに影響を及ぼしている

下図は、光によってヒトの睡眠を支配するメラトニン量の加齢によるスペクトル依存性を論じた別の論文から手に入れました。この論文は、直接は白内障とは関係ないのですが、加齢にともなう眼の透過率の変化の図がでていたのです。この方がわかりやすいかもしれません。
 (原題は“Aging of Non-Visual Spectral Sensitivity to Light in Humans: Compensatory Mechanisms ?” 。つまり「加齢にともなって生じるヒトの補償メカニズムの非可視光波長依存性」とでもいう研究論文)

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上の図Aは加齢にともなって、つまりYoungからOlderになると青色領域(480nm)の透過率が43.2%も減少すること、図Bは図Aか得られるデータをもとに、ホルモンの一種であるメラトニン分泌の光による抑制効果が特に青色領域の光で軽減されることを示しています。メラトニンは夜になると分泌が高まり、睡眠機能、身体の日周期リズム調整機能など、身体にさまざまな影響を及ぼしているのですが、高齢化によって生じる白内障は視力や色彩の見え方ばかりでなく、眼からの光を通じて身体全体の健康状態にまで影響しているとは知りませんでした。

 

目の前の光景は「真実」ではないのだ

このような変化は徐々にゆっくりと起こっているので、自分では気づきません。これまで目の前で見えている「現実」を「真実」と信じてきたし、それを最後のよりどころとしてさまざまなものごとを理解し考えてこれまで生きて来たのですが、その目の前の光景が若い頃とはかなり違っていたのだと知りました。本当の「真実」が年齢と共に違ってきていていても、異なる「真実」を本当の「真実」と信じていたことになります。哲学問答のように、本当の「真実」とはいったい何なのかと考えてしまいます。生まれた時から盲目の人が成人になって眼が見えるようになった時に、色とその名前が理解できず混乱してしまい、再び盲目の世界に戻りたいと言った実際の事例も理解できます。

ともあれ、そのような次第で、手術前後の色の世界の変化がどうなるのか大いに興味と期待を持って手術の日を迎えました。特に、手術をして新しい色彩の世界を見ることになった左目の光景と、まだ手術前の白内障にかかった右目の光景が同時に体験できる1週間の色彩の世界は貴重でした。まるっきり違う光景が体験できるのです。どちらかの色彩世界を見たかったら、どちらかの片方の眼をつぶればいい。高齢者の色の世界と子供の色の世界の両方を味わえます。ふつうは色の微妙な違いは同時に並べて一対比較しないと認識できないものですが、今回は眼の方が変わってくれています。このような体験は人生に二度とあるまいと思います。実際に手術後の時間が経つにつれて、手術前の見え方がどうであったのか、まったく分からなくなりました。

 

クリアで青白く明るい世界になった

手術の翌日、眼帯が取れた最初の夕方の居間の光景におどろきました。居間の蛍光灯のいつも見慣れている光景を手術前の右目で見た場合と、手術後の開いたばかりの左目の光景をくらべると、右目は色温度2800kほどの暖かみのあるいつもの電球色で、左目はカメラの絞り値値を3段上げたほどのまぶしい白っぽいと言うか青っぽい色温度6800kほど、あるいはそれ以上の高い色温度の光景に見えました。まるっきり違う光景だったのです。

翌日になって見た昼間の居間の白いレースのカーテンは、白内障の右目で見るといつものように白く見えるのですが、手術後の左目で見ると実に青っぽくてまぶしいほどの光景になっていました。数日経って慣れてきた状態で、手術後の左目をつぶり、あらためて白内障の右目で見直す動作を繰り返し、最後に白内障の右目で見つめると白いカーテンが実に黄色っぽく、と言うか褐色に見えるのです。これまで白内障の目で見てもそのカーテンは常に白かったのに。ヒトは常に“学習色”や“記憶色”で対象物を見ていることを実感しました。徐々に白内障が進んできたので、カーテンの色を“本当”は黄色に見えていたはずなのに、手術後の右眼は子供の眼に戻って白色として認識していました。しかし白色が正しいのか、黄色が間違っていたとどうして言えるのか。「真実」とは何か。「認識」とは何かとの哲学の根本問題に触れた感じです。

 

さまざまなモノの見え方の変化

我が家には赤色・黄色・薄青色・白色の単色の大倉陶園のモーニングカップがあります。それらを食卓の上に並べて、右目で見たり、左目で見たりしました。赤色の変化はほとんどなく、黄色は若干、青色に至っては大きくずれていました。青はくすんだ青色から鮮やかな青になっていました。白色のモーニングカップは手術前の右眼で見ると手術後の左眼よりも黄色っぽく見えるし、庭の木々の緑はキラキラした明るい新鮮な緑に変化していました。今まで一体何を見ていたのだろうという感じです。

これまで色について、配偶者と大いに意見が異なったことがたびたびありました。たとえばセーターを買った際に配偶者は緑っぽい色だと言うのに、私の方はどう見たってグレイだとしか見えなかったことがたびたびありました。互いに相手の色彩センスがおかしいと果てしない論争になったものです。私自身は色盲になったのかなあとこっそりと気に病んだこともありました。それも白内障が原因だったのかとやっと納得しました。眼という画像センサーの特性や計測条件が同じでないと、同じ現象でも異なる結果が得られることは当然でした。配偶者との色についての果てしない論争は終わりました。次は配偶者の方が白内障にかかる順番です。今度は私は色の違いを理解できるようになったはずです。

何年も前の話ですが、ある時オシッコの色が次第に濃くなっていくことに気づきました。とうとう身体が動くこともままならなくなって病院に検査に行ったら黄疸と診断され、急性肝炎で緊急入院したことがありました。それ以来トイレで見るオシッコの色は肝臓に異変があるかどうかとのバロメータになっていました。そして今回の白内障手術後に、オシッコの色が異常なくらい黄色になっていることを発見し、また肝臓が悪くなったのかと心配になりました。しかし、ときおり検査している肝機能検査値ではまったく異常がありません。結局、白内障の手術によって眼の色彩特性が変わり、オシッコがより黄色く見えるようになっただけでした。

最近の懐中電灯はすべて白色LEDになっています。これで照らされた白地の背景は、手術前の眼にはきれいな白色であって特別な違和感はなかったのですが、手術後の眼には青色のムラのあることが明瞭にわかりました。白色LEDはInGaN組成の半導体LEDから発光されてくる470nmほどの青色光と、その光でYAG:Ce 系蛍光体を励起して発光した黄色の光とを混合させて疑似白色を作っています。青と黄色の補色の関係を利用して白色にしているのですが、その青色光がはっきりと見えるようになったのです。世間ではこの青い漏れ光のことを問題にしている、まだまだ白色LEDは改良の余地があるとやっと身体で理解することができました。

 

デジタル写真で再現したかったな

この私の見た色彩世界の変化をデジタル画像で残したいと思いました。まずとりあえずは、変化が大きかったさまざまな光景をデジカメで撮り溜めておきました。しかし単純に色温度を変えただけでは再現できないことは直ぐにわかりました。手術後の目で見た画像に相当する通常のデジカメ画像を、加齢にともなう眼の透過スペクトルで画像処理してやればいいのですが、私にはその高度な画像処理ソフトもなければ、その技術も持ち合わせてはいません。いつかはやりたいと思うのですが、今は無理とわかりました。

そうこうしているうちに、あの印象派の画家モネは当時としては珍しいほどの高齢者であり、当然ながら白内障にかかり、最晩年に手術をしていたことを知りました。彼は画家として手術の前と後で同じ光景の絵を描いていたのです。この出来事は絵画マニアの世界ではよく知られている話のようなのですが、門外漢の私は知りませんでした。モネが私の体験とどのように違うのか、同じなのかを知りたくなりました。彼は私の体験を絵画として見せてくれるかもしれません。それに、彼の白内障前後の絵の変化を理解するにも白内障はなぜ起こるのかについてもう少し詳しく知っておきたいし、今から1世紀近くも昔のことだから白内障の手術も今と違っているはずです。 もう少し調べることにしました。

(第95話に続く)

 

 

 

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