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2017年6月28日 (水)

第95話:白内障の話 その2 モネと白内障

第95話:白内障の話 その2 モネと白内障 v.3.0

 

前話(第94話)では白内障の手術によって私の色彩世界が大きく変わる体験を述べました。調べてみると、あの印象派の画家モネも当時としては異常なほど長生きをしたために白内障にかかり、84歳の時に手術をしていました。彼の体験した色彩世界の変化がどのようであったのか知りたくなりました。

白内障にかかった経緯は、年代記風に書くと次のようになります。

・1840( 0歳) モネ、パリで誕生
・1865(25歳) 初めてサロンに入選する
 (注:その後、普仏戦争を避け英国に滞在する1870年前後からモネの絵は急に大きく変わる。
    ターナーの画風や科学的色彩論の影響を受けて、“印象”的な絵になっていく。)
・1874(34歳) 第1回印象派展。「印象、日の出」を出展。
   ・・・・・・・・・・・・・
・1908(68歳) 春,眼に異常を感じ始める 
・1912(72歳) 夏頃、白内障と診断される。特に右目の容態が悪い。
・1923(84歳) 1月と7月に右目の手術を受ける。矯正用のメガネを掛け始める。
・1926(86歳) 12月5日死去。

資料はネットオークションで手術後にさっそく手に入れたカタログ「マルモッタン・モネ美術館蔵 モネ展 図録」(2015)より引用しています。このマルモッタン・モネ美術館はモネの晩年の作品、つまり白内障にかかる前の絵の他に、かかってから手術をするまで、そして手術後の作品(と思われる絵)が特に多く所蔵されているので、今回の私の関心事に関しては最もふさわしい美術館であり、美術展だったということになります。

 

白内障になってどうなったか

モネは50歳になった1890年に、終の住みかとなるノルマンジーの村ジヴェルニーに土地と邸宅を買い、買い増ししながら広げ、例の「蓮の池」を作り、日本風の太鼓橋を架け、バラを植え、庭にもアトリエを作るなどしていきました。眼に異常を感じるようになったのは1908年(68歳)の頃と言うから、引っ越してから18年も経っています。白内障の手術は1923年(84歳)ですから、1908年から1923年の間に描かれた絵は明らかに白内障にかかった影響が現れているに違いありません。そのような絵が実際に存在しています。

<絵画:日本風の橋の光景>

次の図は睡蓮の池にかかる日本風の太鼓橋の風景をほとんど同じ位置から異なる時期に描いたものです。左の絵は1900年だから正常な眼の時であり、右の絵は1918-24年となっていて描いた時期の幅が広いので特定できません。白内障にかかっていた1918年に書いた絵を手術後の目で見てあまりにも変わっていたので、手術後の1924年に少々手入れした可能性があることを暗示させます。とは言え、1918年の絵は、視力が衰えていたために全体がボケていて暗く、黄色がかっていて、私の体験との違和感はありません。

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<絵画:画家のアトリエの光景>

次の絵は「バラ園から見た画家のアトリエ」と題した同じ位置から描いた1922年の白内障の時の絵と、手術の年(1923年)をまたいだ1922-24年の絵です。

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左の絵はボケていてすべてが黄色から赤味を帯びた色彩になっています。右の絵は正反対にすべてが青白く描かれています。この色彩変化は私の手術後に見た光景にそっくりです。最初の手術をしたのは1923年の1月だから、左側の絵は1922年と言っても手術直前に描いていた絵の一つで、ひょっとしたら未完成のまま放置され、手術後にみた色の世界があまりにも変わっていたので、1924年に大幅に手入れをしたのではないかとも考えられます。とにかく美術館側もモネが描いた年を特定できないと説明しているので、本当のところはわかりません。

 

モネの色彩世界の変化

モネが白内障にかかった年齢では、目の前の色彩の世界は物理的に言えば下図に示した高齢者(Older)ようになっていたはずです。しかし若者(Young)から高齢者(Older)への色彩世界の変化は極めて徐々に起こっているので、私の経験からいえば、それに気がつくことはまずありません。モネは68歳の時に眼の異常を感じたのですが、その時は右と左の眼のバランスがおかしくなったとか、視力が衰えたとの気づきであったでしょう。眼医者に行く気になって白内障と診断されたのはその4年後のことであり、手術を受けたのは更にその12年後と言うことになります。つまり、眼がおかしいと気がついてから16年たって84歳で手術をした時は、特に右眼の白内障がかなり進行していたことは疑いありません。その時には図の高齢者(Older)のように、全体的に網膜までの光の透過率が落ち、特に青色から緑色にかけての寒色系の色が見えにくくなっていたはずです。赤色の側の暖色系の色の見え方の低下が少ないことは明らかです。これらのデータはモネの描く同じ場面の色彩世界の違いを説明しています。

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手術後のモネの黄色いメガネ

モネは手術後、黄色に着色したメガネを掛けるようになりました。手術した右眼用はぶ厚い黄色の凸レンズ、手術をしなかった左眼用は曇りガラス状の黄色のただのガラスフィルターのようにみえます。ベッドの上でそのメガネを掛けて、意気消沈したように横たわっているモネの写真(左)が残っています。

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「モネ展 図録」の説明によると、説明によると、このメガネは 『白内障の術後の色覚異常矯正するための仕組みになっている。左目のレンズは、左右の眼の見え方の違いから生じる二重像を防ぐため、不透明になっている。右のレンズは手術を行った眼のために少し黄色に着色してあり、分厚い凸レンズとなっている。黄色は青が強く見える状況を改善し、さらに以前より光をまぶしいと感じる問題を解消してくれるものとなった』 とありました。黄色は青色の補色であり、見えすぎる青色を白色に変えています。

 

見えない眼で絵の具の色をどのようにして選んだのだろうか

モネが手術をした右眼は、その直前ではほとんど失明に近い状態ではあったかと思われます。また手術をしなかった左目でも視力は著しく落ち、色彩認識は白内障にかかる前とはかけ離れていたはずです。またそのことを画家であるモネはよくわかっていた、と思うのです。たとえば、目の前の春の若葉を見て、表現したい色をパレット上の絵の具から見て、選んで、キャンバスの上に移す時に、描いた色が「春の若葉の色はこんな色だ」という過去の経験からの記憶色と違ってしまうことが多々あったと思います。

下の写真に示すようなモネのパレットが残っています。残っているということは、最晩年の最後の絵を描いた時に使った状態で残っているはずです。白内障に掛かる前、白内障にかかったあと、そして手術後にも使ったパレットであろうと思いたいのです。印象派の画家はパレット上に基本となる少数の色相の絵の具を置いていることのが特徴です。印象派で点描画家のスーラもそうでした。それら少数の色をキャンバスの上に移し、並置して視覚混合させ、色彩を表現するというシュヴルールの言う「色彩調和論」を実践していました。だから、パレット上のどの位置にどの基本色があるのかは決まっているので、あらためて探さなくてもわかっていたと思います。だから、色の識別が白内障で困難になっても何とか絵が描けたのでしょう。もう一つ言えることは、目で見て選択する色の識別はむずかしくても、絵の具のチューブには色番号が書いてあるから、その番号を何とか読めば、長年の経験から望みの色を描くことができたでしょう。絵の具チューブは米国人画家ジョン・ゴフ・ランド(1801-1873)によってすでに1841年に発明されていました。

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白内障はなぜ起こるか

日本人に多い病気は厚生労働省の調査(2008)によると、1位:高血圧、2位:歯の疾患、3位:糖尿病、4位:がん、5位:脳血管疾患、そして6位:白内障のようです。白内障は年齢と共に誰もが必ず罹る病気です。しかし「眼内レンズ」手術が進歩したおかげで誰もが直る疾患となったと実感しています。

間違っているかもしれませんが、私は白内障の症状の発生メカニズムは次のように理解しました。先ずは眼の構造を下記に示します。

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「白内障」は他人から見ると相手の眼が白くなって見える病気です。緑色に見える場合は「緑内障」です。白内障にくらべたらかなり重篤な眼の疾患です。白くなって見えると言うことは、光学的には透明なはずの水晶体の中に光の散乱体、すなわち周囲の体液と屈折率の違う蛋白質の変質した粒子のようなものが多数発生し、散乱して光が網膜に到達しにくくなったことを意味しています。蛋白質が変質して少々硬くなるだけでも、屈折率はわずかに高くなりますから、光路は乱れ、光はまっすぐには通らなくなります。水晶体細胞は皮膚と同じように新陳代謝で新しい細胞が生まれて老廃物が発生する(らしい)のですが、しかし体表面の皮膚と違って垢のように体外に効率的に廃棄されるメカニズムがありません。つまり眼球の中に老廃物が堆積されていくことになります。私を含めて高齢者の眼球がぶよぶよと大きく張り出すようになってくる原因だそうです。

同時に、加齢や紫外線、過剰な強い光などにより、タンパク質が変性して黄色く着色したり、色素が沈着したり、硬化していく現象も起こります。その結果、周囲が暗くなると急に見えにくくなったり、視力が低下したり、さらには網膜までの透過率の波長依存性が前述の図ように変化して、色の見え方が変わってくると私は理解しています。ただし色の変化はほとんど自覚がありません。手術をして初めてわかることになります。

 

古代から白内障手術は行われていた

モネの白内障の手術は1923年に行われ、治療後はメガネを掛けていました。私の白内障手術の場合のように「眼内レンズ」を入れてはいません。90年以上も前のモネの手術はどのように行われていたのか、白内障手術の歴史を調べることにしました。参考にしたのは、主として 「白内障手術の歴史」(三島済一、「臨眼」誌 連載 全4回、1994年〜1995年)他です。

それによると古代の人は寿命が短かったとは言え、白内障にかかる人もいたようです。お釈迦様が生まれる頃の紀元前800年頃、つまり今から3000年も前に、インドのベンガル地方にいた“ススルタ”という名高い医者が医学書をしたためていて、その中に白内障の手術をしたという記述があるそうです。この手術の方法は変質して硬くなった水晶体を針で突いて、眼の内側に落とすという荒っぽい方法でした。この方法は、"Couching"(クーチング、硝子体転位法)と呼ばれているようです。

水晶体がないと強度の遠視の状態になります。レンズがないカメラのようなものですが、それでも明暗はわかるようになるし、ひょっとしたらピンホールのメガネで目の前の光景が見えたのかもしれません。この手術の方法は1800年頃まで、日本を含めて世界の各地で行われていたようです。

日本ではこの白内障を意味する言葉が、平安時代に書かれた現存最古の医学書「医心方」(いしんぽう、984)に出ているのだそうです。白内障の手術は、水晶体を眼の中に突き落とすという上記の"Couching"法が室町時代の初期(1350〜1360)には行われていたとのことですが、おそらく中国から伝わったのではないかとされているようです。ずいぶんと昔から白内障の手術は行われていたことになります。

18世紀になると、変質した水晶体を手術で眼の外に取り出すという方法がフランスで考案されました。"Extraction"(エクストラクション、水晶体摘出法)と言うようです。この方法の方が危険は少ないということで、"Couching"法に代わって20世紀半ばまで行われていきます。1923年のモネの右眼の白内障手術は、水晶体を摘出するというこの"Extraction"法で行われたことになります。何とか見えていた左目はあえて危険な手術を行わなかったのでしょう。

年をとれば誰でも遠視になります。年齢とともに水晶体はかたくなり、水晶体の厚さを調整する機能が困難になり、近くのものにピントを合わせることができなくなります。凸レンズを遠視用のメガネに使うというアイディアはすでに13〜14世紀にイタリアで考案されていたというから、白内障手術をして水晶体を取ってしまっても、強い度数の凸レンズ・メガネで視力は何とか補正できたのでしょう。見えないよりはましですし、何も文字を読めないよりは少しでも読めて方が良いに決まっています。手術後のモネのメガネはそれだったと思います。

 

「眼内レンズ」という眼科手術の革新が起こった

では、今日のように水晶体を取りだした跡に眼内レンズを入れるというアイディアに成功したのはいつからであったのだろうかと調べてみると、眼科手術に革命を起こしたこの「眼内レンズ」法は、1949年にイギリスの眼科医Nicholas Harold Lloyd Ridley(1906-2001)が行った手術が最初のようです。そのイノベーションの発端となった発見のプロセスが興味深かったので以下に書いておこうと思います。

1940年8月15日、英国空軍戦闘機ホーカー・ハリケーンに乗っていた第601飛行中隊リーダーのパイロットGordon Cleaverがイギリス本土のウィンチェスターの上空で撃墜されました。ドイツ空軍との“Battle of Britain”が始まって1ヶ月ほど経った頃です。彼は2日前には双発のメッサーシュミットBf.110を撃墜しているのですが、この日は、記録にはないのですが、ハリケーンよりも航空性能に優れていたドイツ空軍の戦闘機メッサーシュミットBf.109に撃墜されたのではないかと私は思っています。彼はパラシュートで脱出して命は助かったものの、撃墜された際に風防(キャノピー)の破片が両眼に突き刺さったのです。18回もの眼の手術を行うことになりましたが、しかし破片を残したまま左目の視力は著しく低下し、右目は失明しました。

 

その後、英軍の眼科医Ridleyが眼の治療処置でCleaverの診察を担当することになりました。その際に、彼はCleaverの眼の中に入っていた風防材料のアクリル樹脂(ポリメチルメタアクリレートPMMA、ICI製)の破片が、ガラス製風防材料の破片の場合は炎症を起こすのに対して、何の炎症をも起こしていないことを発見したのです。アクリル樹脂レンズなら炎症を起こさずに「眼内レンズ」に使えるとのRidleyのひらめきを実際に眼科治療に試みるには、しかし長い平和な時間が必要でした。

 

Ridleyは第2次大戦後になって、そのことを思い出し、アクリル樹脂で眼内レンズを作ることにし、1949年にそのレンズを用いてインプラント手術を試みたのです。Cleaverが撃墜されてから10年もの歳月が経っていたことになります。このRidleyの方式は今日までも踏襲されている眼科手術におけるイノベーションとなりました。私も彼の恩恵を受けていることになります。

後日談として、「眼内レンズ」のイノベーションのきっかけとなった戦闘機ホーカー・ハリケーンのパイロットCleaverは70歳になった時に、白内障手術を行って「眼内レンズ」を入れ、40年ぶりに視力が回復したと言うことです。

最後に付録として、白内障とは直接には関係ないのですが、「眼内レンズ」発明のきっかけとなったホーカー・ハリケーンの勇姿を載せておきたいと思います。写真とともに示したハリケーンの三面図は「第2次大戦 イギリス軍用機の全貌」(酣燈社 昭和36.11.25)から引用しています。この図は、当時、ヒコーキを描かせたら右に出る人がいないと言われていた橋本喜久男さんの作品です。ホーカー・ハリケーンは名機スーパーマリーン・スピットファイア(「第75話スピットファイアを見つけた!」を参照)にくらべても性能が劣る平凡機だったのですが、スピットファイアに次いで大量に生産されために、幸運にも第2次大戦中のイギリス空軍を代表する戦闘機になりました。

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