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2016年9月

2016年9月 2日 (金)

第93話 私のチェルノブイリ、そしてフクシマ  その2

第93話 私のチェルノブイリ、そしてフクシマ  その2

 

3.フクシマ原発事故

チェルノブイリ原発事故から35年たった2011年3月11日に、大地震と大津波によってフクシマ原発事故が発生した。放射性降下物は原発周辺ばかりでなく、遠く離れた東京にもやって来ていた。

3月15日に東京の病院で撮影された医療用レントゲン写真画像に黒い点の出ていることが発見されたのだ。東京まで運ばれた放射性降下物が病院の中に入り、放射線室の中の私たちが開発した放射線画像センサー「イメージング・プレート」に付着し、放射された放射能を検出していた。放射性降下物による写真フィルムの品質故障であるGPS(Giant Black Spot)と同じ現象である。イメージング・プレートは自然環境放射能レベル以下をも検出するので、いち早く異常を検出したというわけだ。この事実はふつうの家の中まで放射性物質が入り込んでいるとの証拠となり、多くの人をパニックに陥れた。

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すでに放射線とは無縁の日常生活を送っていたのだが、フクシマ原発事故には大いに関心を持って見ていた。しばらくして、昔のことを知っている知人から、地域の教育委員会協議会の研修会で校長先生はじめ、学校の先生達に放射能の話をするように頼まれた。フクシマ原発事故からまだ日が浅く、放射性降下物もこの地方に飛ばされてきていたこともあって、地域の人たちも放射能汚染パニックになっていたのである。先生達もどのように対処して良いのかわからなかったのかもしれない。

日本では、特に放射線や放射能の話は原爆などからの怖い話だけが伝わり、放射線の科学的な解説そのものについてはほとんど知らされていないのが現実である。「幽霊の正体見たり枯れ尾花」ではないが、放射線について少しでも理解してもらえれば、落ち着いて対処することもできると思い、、多数のスライドを作り、題して「身近な放射線の話」として講演した。以下はその時の要旨である。

 

 

<身近な放射線の話>

 

はじめに

「災難に逢う時節には災難に逢うがよく候。死ぬる時節には死ぬがよく候。これはこれ災難を逃がるる妙法にて候」。これは江戸時代の良寛さんが地震に遭った越後の友人にあてた手紙に書いた言葉です。

私たちの住む日本は変化のある四季がきっちりと巡り、時々起こる大雨・地震・台風・火事などの災難はすべて一過性のものでした。災難の起こった時がどん底であり、それ以降は頑張っていけば自分の世代の時間の中で何とかなってきたものです。しかし今回の3.11震災は一過性の従来の災難に加え、子孫代々までにおよぶ災難が加わっています。まだ収拾がつく見込みが立っていないフクシマ原発事故です。何とかしたくても何ともできない半減期の長い放射能による災難であり、このことが私たちの心の中に、これまでの災難と違って特別に重くのしかかっていると思います。

 

私たちは昔から放射線の中で暮らしてきた

とは言え、太陽の光や空気と同じように、私たちは原始の時代から放射線の中にどっぷり浸かって暮らしてきました。宇宙線や大地、建物の壁や床、身の回りにあるさまざまな品々から放射線はやってきますし、食物や空気中の放射性ガスから取り込んだ放射性同位元素が身体の中に存在していて、私たち自身が放射線源でもあります。それが常なのです。

私たちが暮らしている足柄平野はたまたま日本で最も自然環境放射線レベルの低い地域です。箱根山が太古に大噴火を起こした際に、放射性同位元素カリウム40の少ない火山灰を大量に降り積もらせたおかげです。日本の中には足柄平野よりも約5倍も高いレベルの地域があり、世界ではその数十倍もの高レベルの地域があります。人類はそのような環境で進化して来たのであり、そこで健康に暮らしてきました。だから放射線の中で暮らすこと自体に恐れを抱くことはありません。注意すべきことは、フクシマ原発事故で新たに加わった放射性物質が私たちの健康にこれまでと違った異変をもたらすのかどうかです。

 

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基準はどのようにして決まってきたか

放射線の健康への影響に関する基準とその論理はすべて <しきい値なしの直線(LNT)仮説> が前提になっています。これは、大量の放射線を短時間に浴びても、微量な放射線を長時間浴びても、放射線を何度も間欠的に浴びても、その積算量が同じならば同じ影響を与えるという仮説です。放射線作業者や事故などで大量に一時的に浴びた場合は過去にデータがあり、この仮説は成り立つのですが、ふつうの市民のように何年もの長期間に微量に浴び続ける場合のデータはありません。だから大量被曝のデータをゼロに内挿して微量の場合を推定してきました。

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これらの基準を作った当事者たちは、「この仮定は正しくないかもしれないが、危険を過小評価する恐れはないことで満足している」(国際放射線防護委員会ICRP勧告1965)と 告白しています。この仮説は短期間に大量被曝の可能性がある放射線作業従事者に対する世界共通の管理基準として設定するには好都合でした。ある仮定のもとで数値としてきっちりと決めることが出来るからです。

一方、市民に対しては、根拠もなく放射線作業従事者の1/10に安全率を設定し、“市民生活をしていく中で危険を過小評価する恐れはない” としているものの、しかし 「1988年の自らの報告、それに基づいて作られている1990年のICRP勧告のリスク推定値は大きすぎる可能性がある」(国連科学委員会報告1994)と率直に認めています。この結果、低めに設定した基準は微量な環境放射線量の変化に対しても過剰なほどの市民の反応、つまりパニックを市民に起こさせる原因にもなっていることは確かです。その基準よりも少しでも大きいとリスクが大きい、危険だとのメッセージでもあるからです。

 

人には生体防御機構が働いている

長期間にわたる微量の放射線の被曝に関して、以前は「遺伝に影響する」とされていましたが、現在では「遺伝への影響は人では見つかっていない。遺伝的影響よりも“がん”である」(ICRP勧告1977) とされました。加えて「科学界は何年か前から、低線量の放射線を照射された細胞と生物は、放射線の影響に対して適応するような変化を起こすことに気がついていた」とし、さらには「従来の低線量放射線の確率的影響リスク推定値は、適応のような過程に対して何らの考慮も払われていなかったことから、誇張されすぎていたかもしれない」(国連科学委員会報告1994))と これまた率直に認めています。つまり現在の<しきい値なしの直線仮説>は微量の放射線の被曝に対しては間違いかもしれないというのです。

近年のバイオサイエンスの進展により、酸素代謝時に発生する活性酸素や放射線によるDNAの損傷とその修復メカニズムがわかってきました。障害が起こるかどうかはDNAの損傷速度と修復速度のバランスが影響すると考えた方が真実であり、微量の放射線を長期間浴びるような環境では修復機能の方が効果的に寄与していることがあるのでしょう。

 

おわりに

現在の足柄平野における空気中の放射線レベルは原発事故以前の自然放射線レベルとほとんど変わりません。注意するとしたら、原発事故直後にやってきて雨と共に地面にしみ込んだ放射性同位元素(主としてセシウム137)による呼吸や食物を通しておこる内部被曝でしょう。

 

とは言え、放射線の身体に対するリスクに関しては、あるレベルから危険で、あるレベルまでは安全という基準値はありません。多くの仮定から成り立っている リスク論/確率論 であって、不可避的な危険とどのように付き合っていくかとの個人の価値観の問題と思います。とても危険と考える人もいて当然です。リスクがあると思われる食材をまったく食べないことに心がける人もいるでしょう。

しかし私はそうすることによる健康への影響の方が大きいのではないか、食べたものが身体の外に排出される代謝半減期や生体防御機構を考えれば、現状の放射線レベルは重大な影響を及ぼさないのではないかと思っています。それに加え、足柄平野の自然放射線レベルの数十倍の環境で生活していても問題となるような障害は発生していない人たちが世界にはたくさんいるとの事実を信じて生活した方が個人的な精神的ストレスは少ないのではないか、と思って暮らしています。

 

【参考:単位】
・ ベクレルBq(放射線の発生能力):1Bqは毎秒の原子核の崩壊回数(1キュリーCi:3.7×1010Bq)
・ グレイGy(放射線の吸収エネルギー):1Gyは1kgの物質に1ジュールのエネルギーを与えた時
・ シーベルトSv(放射線の生体への影響力):Sv = Gy ×放射線加重係数(発がん性基準)
            (放射線加重係数:γ線・X線・β線:1、中性子線:5〜20、α線:20)

 

 

私が学校の先生たちに講演で言いたかったことは、次のようなメッセージであった。

『 これまでの災害は人為的であれ自然的であれ、一過性であった。原発災害は違う。解決策は今の私たちにもわからない。意図と違った事故が万が一にも起こった時に、その災害の解決策を未来の子孫に委託するようなあらゆる試みを、今生きている私たちはしてはならない』  のであって、

『 まず原発を全廃する時期を決め、それまでに原発に代わるエネルギー源開発に、日本の科学力・技術力・資源力・政治力・経済力を総結集し、実現することと思う。』

しかし、日本政府の現在の政策は、フクシマ原発事故の教訓を忘れ、経済性を最優先にし、原発を続々と再稼働する方針を貫いている。原発問題は“今”の「損か・得か」で判断するのではなく、そのことが人類の将来にとって「善いことなのか・善くないことなのか」で判断すべき事柄であると、思う。 判断すべき、次元が違うのだ。

2016年9月 1日 (木)

第92話 私のチェルノブイリ、そしてフクシマ   その1

第92話  私のチェルノブイリ、そしてフクシマ その1

 

今日は9月1日、防災の日。1923年、今から93年前に関東大震災、正式には「大正関東地震」が起こった日。

地震は人知の及ばない自然の原因で起こる災害なのだが、世界を震撼させた3つの原子力発電所事故(以下原発事故)は、人為的ミスが大きく関わっている。1979年の米国スリーマイル島原発事故、1986年に起こったソ連(当時)のチェルノブイリ原発事故と、その25年後に起こった2011年の日本のフクシマ原発事故の3つである。原子力発電所の安全神話は、ヒトの能力を過信し、かつ自然を制御できると思い込んだ人類の過信の上に築かれていたといえよう。私は、そのうちのチェルノブイリ原発事故とフクシマ原発事故の2つの騒動に、私なりに関わった。記録も残されていないので以下に雑記しておこうと思う。

 

1.中国の核実験

なぜ放射線に敏感になったのか

そのまえに、私がなぜ“放射線”とか“放射能”との言葉に敏感になったのか、記しておきたい。そもそも社会に出た最初の仕事が、原子力発電所に使うウラニウム核燃料被覆管の開発研究であった。しかも研究手段として、その材料(ベリリウムBe ーカルシウムCa合金)のX線回折による結晶構造解析をおこなった。X線回折装置を新たに購入するためにX線作業主任者などという資格も取った。そのために勉強した知識も新たに加わった。研究テーマと研究手段のどちらも放射線に関わっていたので、必然的に放射線に敏感になっていったというわけである。

当時は、将来の日本のエネルギーは原子力が担うのだという希望に満ちていた時代だった。日本の原子力発電もまだ黎明期にあって、商業用原子炉のタイプを、濃縮ウランを核燃料とするアメリカ型にするか、天然ウランを核燃料とするフランス型にするかを決める最終段階にあった。結局日本はアメリカ型を採用したのだが、その結果、フランス型に属する研究をやっていた私の仕事は2年経って中止になった。

若気の至りで、新たな仕事を求めて、畑違いの写真フィルム会社に転職した。入社後、紆余曲折があったのち、まったくの偶然で、基幹研究所で行っていたレントゲン写真フィルム研究室に配属された。この研究室は、医療画像診断用のレントゲン写真システムの基礎研究から商品開発まで行うことをタスクとしていた。ここでも放射線、そして医療との縁ができた。

 

品質故障の発生

写真フィルム会社は核爆発実験による放射性降下物(fallout particle)に対しては、ことのほか敏感であった。特に,中国やソ連など日本の西側で行われる核実験の場合、偏西風の影響で日本に放射性降下物が運ばれてくる。そのために、工場では常時モニターリングポスト(ガイガーカウンター)で放射線量を計測し、毎月1回空気中のほこりをエアダストサンプラーで捕集し、放射能計測をおこなっていた。新聞報道などにより、核実験などで放射能汚染の恐れがあると判断された場合には、放射能計測を毎日の測定に切り替え、全社あげての厳戒態勢を取った。

もちろん、日常的にエア・フィルターや水シャワーなどで工場の建物内に空気中の微粒子が入り込まないように、半導体工場並みのクリーンルーム体制を取っているのであるが、それでも入り込んできたり、原材料に付着したり、人体に付着したりして、製造工程に放射性物質が入り込む可能性がないとは言えない。そうなると、眼に見えない放射性微粒子が製品としての写真フィルムに混入して、のちになって撮影した貴重な写真に原因不明の黒点が現像されることになる。この故障は社内ではGPS(Giant Black Spot)といっていて、極めて重大な品質故障であった

1977年1月にカラーフィルムでそのGPS品質故障が起こった。過去の故障の状況分析から見て、何らかの放射性物質によるものと思われた。新聞記事の調査を行った結果、前年の1976年の中国の核実験は下記のように行われていた。おどろくほど頻繁に核実験が行われていたかおわかりであろう。

  1976年 1月23日      第18回 核実験    地上
      9月26日       第19回 核実験   地上(地上で最大級のもの)
     10月17日      第20回 核実験  地下
     11月17日      第21回 核実験  地表に近い大気中(最大級のもの)

 

故障原因の解析

当時は私の研究グループは、真性ゲルマニウム半導体検出器をはじめとする社内でも最も充実した最先端の放射線に関連する測定解析機器と設備を所有していた。そのため、中国の核爆発実験の放射性降下物によると思われたこの故障の時にも、製造部門からの依頼を受けて、社内の解析部門と一緒に放射性降下物の同定と解析を担当した。

なぜ、私の研究グループが社内随一の放射線計測設備を保有していたかというと、当時、私はレントゲン写真フィルムシステムに代わる新たな放射線医療画像診断システムの探索研究チームに属し、のちに「イメージング・プレート」と呼ばれるようになる蛍光体物質の輝尽発光現象を利用した放射線画像センサーの可能性を模索していた。しかしそのようなセンサーが本当に実現できるかどうかもわからない時期であり、実現できると確信できたのはそれから3年後であり、システムが商品として世界市場に出て行ったのは6年後のことであった。

実現できるかどうかわからないような研究の初期の段階でやるべきことは、目指すテーマに関連する分析装置や測定装置の整備であると信じている。市販品で買える測定装置は購入し、特殊な測定装置は自分で作る。これらの分析・解析設備によって、目的とするモノや現象を世界で最初に測定したり、世界で最初に発見することができる。それによって研究の方向が大きく変わることすらある。独自の分析・解析評価装置が独自の発見や発明を生むのだ。市販の装置だけでは大したことはできない。そのような次第で、放射線に関しては社内随一の解析チームになっていたのである。

ともあれ、GPS品質故障の解析を担当し、混入していた微粒子の核種解析の結果、質量数95付近の元素群と105付近の元素群が検出された。原爆の主体をなすウラニウム235が核分裂を起こすと、質量数95付近の元素群と105付近の元素群(合計すると質量数235になる)の典型的な二山の分布になる(下図参照)。これで核爆発であることが特定できる。 製品に使用した包材の製造年月日などの状況証拠から、この故障の原因は1976年9月26日の中国核実験の放射性降下物によるものと推定された。

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2.チェルノブイリ原発事故

最初の報道

上記の中国の核実験騒動から10年たった1986年の4月29日の天皇誕生日に、ソ連のチェルノブイリ原発事故のニュースを家で知った。その瞬間に、これはいそがしくなるぞと思ったことを今でも覚えている。事故の詳細は翌日の4月30日の新聞の朝刊でわかった。原発事故は実際には3日前の4月26日に起こっていたのだ。数日後には放射性物質が日本の上空にやってくる恐れがあった。

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そのような次第であったので、チェルノブイリ原発事故の最初の新聞報道があった4月30日に関連部門の担当者の打ち合わせがさっそく開かれた時にも、研究部門として参加した。もっとも写真フィルムへの放射能汚染もさることながら、すでにデジタル放射線医療画像診断システム(FCR)が市販されていて、放射線画像センサー“イメージング・プレート”の製造工程への放射性降下物の放射能汚染への警戒が緊急の課題であった。他人事ではなかったのだ。

 

5月5日に最大強度になった

放射能計測として実際に行ったのは、紙フィルター上に固定された空気中のほこりの放射能分布の画像化と、その相対的強度を測定すること、および放射性降下物の核種の同定であった。具体的には、サンプルは空気中のほこりをエアーダストサンプラーで24時間吸引し、紙フィルターに付着させたものであり、そのフィルターをイメージング・プレートに26時間密着露光し、通常のレントゲン写真の20倍の感度で画像を読み出した。前年に行った広島原爆の「黒い雨」の画像化実験の結果から、ガイガーカウンターやシンチレーションカウンターで計測するよりも、高感度に放射能を検出できることが分かっていたからだ。

最初に測定した5月1日のサンプルでは、異常な放射線像は検出されなかった。しかし次の5月3日のサンプルになると、放射線画像は画像として読み取れないほど全面が黒化していた。つまり、サンプルからは多量の放射線が放出されていたのである。実際にその画像を見た時は、いったいどうなってしまうのだろうと背筋が寒くなったほどであった。

あわてて画像化条件を見直して、フィルターとの露光時間を26時間から30分に、つまり感度を1/52に落とした。この条件変更により、画面上の黒点の数が計測可能になった。黒点の数は平常時の5月1日では3cm平方の面積当たり4個であったものが、5月4日になった途端に1718個、つまり放射線量は430倍に急造し、5月5日には2267個、つまり平常時のおよそ570倍になった。さらに増加するかと心配していたのだが、翌日の5月6日には955個、平常時のおよそ200倍になり低下の傾向が観測された。偏西風に乗った放射性物質は日本を通り過ぎつつあることがわかった。

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最大の放射能を示した5月5日のエアダストサンプルを用いて放射能核種の同定を行ったところ、ヨウ素131の存在が確認できた。しかしセシウム137は確認できなかった。一方、広島原爆の「黒い雨」の画像化実験以来協力関係にあった理化学研究所の放射線研究室でも核種の解析をしてもらったのだが、やはりヨウ素131がほとんど100%であり、わずかにヨウ素132とセシウム137が1%弱含まれている結果になった。私たちの解析と合っていたと言える。ヨウ素131の半減期は8.05日なので減衰が早く、時間経過と共に残存する主要な核種は次第にセシウム137となっていく。

 

自然環境の放射能レベルは高止まり

チェルノブイリ原発事故の発生前、つまり平常時から放射性物質がモニターリングポストの測定値の変化を見ると、チェルノブイリ原発の爆発によって発生した放射性物質は6日間ほどかかって5月2日頃に日本に到達し、5月5日に極大値となり、以降急減し、偏西風に乗ってきた放射性物質は日本上空を過ぎ去って太平洋に流れていったことがわかる。チェルノブイリ事故による放射能汚染に対する警戒態勢が解除されたのは事故発生から約1ヶ月半後の6月11日であった。しかしバックグラウンドのレベル、つまりは環境放射線量は事故が起こる前よりも高くなったままに残ったが、放射性降下物によるに品質故障は起きなかった。

とは言え、第2次大戦後におけるおよそ2000回の核爆発実験(そのうち543回の大気圏内核実験.2011年当時)の放射性降下物によって、日本の自然環境における放射能レベルは戦前にくらべて高いままに維持されたのだが、そこにチェルノブイリの放射能が新たに加わったことになる。

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それから35年後に大地震と大津波によってフクシマ原発事故が引き起こされた。 (第93話に続く)

 

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