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2016年3月

2016年3月14日 (月)

第90話 生きていた!

第90話 生きていた!

その時、私と家内が生きていたのは幸運としか思えない。15年も経ったあとだから話せることだ。2000年12月23日の午後14時45分頃。東名高速道を走っていて起こった出来事である。


<コントロールを失った>

白銀台にある東京都庭園美術館で行われていたルネ・ラリック作品展を見て、それから世田谷区上野毛にある五島美術館に寄った後、首都高速道路の用賀インターチェンジから東名高速道路に入った。私のクルマは横浜町田インターチェンジを通り過ぎた3車線のうちの真ん中を走っていた。右側の追い越し車線では速い車が追い抜いていく。左側前方の走行車線に黒いワゴンタイプのクルマが私のクルマよりもやや遅く走っていた。自然と、その黒いワゴン車にゆっくりと近づいていき、そのまま並行して追い抜いて行く形となった。

私のクルマがオーバーラップし始めた時に、やや頭を出していた黒いワゴン車はハンドルを右に切って、こちらの車線に入り込んできた。側面衝突は必至だった。右側の追い越し車線にはクルマはいなかった。私はハンドルを右に切って避けようとした。急に切ったら危ないことは知っていたので、出来るだけわずかに切った、つもりだった。

その瞬間である。クルマはコントロールを失った。

あとになって聞くと、それまで寝ていた助手席の家内は私の叫び声で目を覚ましたそうだ。クルマは右に急に方向を変え、中央分離帯のコンクリートのバリケードに跳ね返されて、ロデオの馬乗りのように左に右に飛び跳ねた。横転するなと思った。何秒たったのかわからない。とてもスローモーションな動きに感じた。気がついたら、クルマは東名高速道路の三車線の真ん中の車線上に、クルマの流れとは逆向きに止まっていた。スピンして180度回って止まったのだ。妙に静かだった。

前方からはクルマがこちらを目指して押し寄せてくる。古い西部劇のシーンによくあるような傷ついた主人公が1人で大勢のインディアンを迎え撃つ場面を想像してほしい。もうだめだと観念した。こちらに向かってくるクルマの運転者の顔がよく見えた。必死の形相をしていた。彼も恐ろしかったであろう。ぶつかったら、相手も即死だ。最初のクルマは何とか避けてくれた。こちらもハンドルをしっかりと握りしめ、押し寄せてくるクルマの運転手の目を凝視した。目を見れば、彼が次にどうするかが予測できそうだった。次のクルマは少し余裕を持って避けてくれた。

気がつくと、エンジンはかかっていた。いつもの振動が伝わってきた。前方のクルマがはるか遠くにいる瞬間を見計らってアクセルを踏むと、がたがたと身を震わせながらもクルマは何とか動いた。よく気がついたと思うのだが、それでもいつものように右側のウィンカーを点滅させ、ハンドルを右に切って路側帯にギリギリに寄せることが出来た。

助かった。生きていた。二人ともけがもなかった。

ドアを開け、降りて、クルマを一周した。右側の後輪がひしゃげて、車体から飛び出している。中央分離帯にぶつかった時に衝撃で車軸が曲がったのだ。(下図をクリックすると大きくなります)
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名古屋方面の道路をよく見ると、引きずった車輪の跡が残っていた。動輪である前輪はエンジンとつながっているからクルマは移動できたが、後輪はちゃんとは動いていなかったのだろう。タイヤの跡はそれを物語っている。(下図をクリックすると大きくなります)
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不思議なことに、そのほかにはかすり傷一つない。よかった。心底、そう思った。


<助けられた>

このような出来事が起こった時に、何を最初になすべきか日頃は考えたこともない。とにかくどこかに連絡しなければならない。今のように携帯電話を持っていたら、最初にそれを使ったかもしれない。しかし持っていなかった。前方、つまり100mほど東京よりに緊急電話ボックスが見えた。通り過ぎていくクルマを避けるようにしてたどり着き、受話器を取り上げた。道路公団の担当者が出てきた。緊急電話の場所と番号を伝え、けが人はないこと、クルマを路側帯に寄せていることを伝えた。それから、警官に代わった。

警戒灯を点滅させたよく見かける道路公団のクルマがやって来たのは、それから30分後。私のクルマよりも50mほど上流側、つまり東京寄りに止め、手際よく赤い三角帽子を置いて、係員がやって来た。その間でも、大きなトラックがビュンビュンとすぐそばを通り過ぎていった。その風圧でクルマが揺れる。(下図をクリックすると大きくなります)
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事故のクルマは道路公団の作業車が運び出すかと思ったら、まず、JAFに入っているかと聞く。以前は入っていたのだが、一度もお世話になったこともないので数年前にやめていた。聞くと、事故車はJAFか、JAFがいそがしいときは他の専門業者が運び出すのだそうだ。

そのうちにパトカーもやって来て、今度は下流側、つまり名古屋側に止めた。結果として、けが人もいないし、道路公団側の資産を損傷させたわけでもないし、この事故のきっかけを作り出した黒いワゴン車はとうに消え去っていたし、結局のところ自損事故ということになった。しかし私の自動車保険に自損事故は含まれていない。クルマを柱や壁にぶつけて凹ますことはしばしばあっても、そのたびに自分で修理してきた。他人に仕掛けられた大きな自損事故などは想定外であった。

クルマを運び出してくれるJAFのクルマがやって来たのは、それから2時間後であった。クルマの中で家内とじっと待っていた。長かった。JAFのクルマは、私のクルマの後ろ側にまわって止まり、後輪に治具をはめ、油圧のホークで後輪を持ち上げた。前輪をまっすぐに向け、ギアはニュートラルに、と言われたとおりにし、後ろ向きに牽引してもらう。展望車に乗った気分である。クルマが東京側からどんどんと追いつき、追い抜いて行く。通り過ぎていく車の運転手や同乗者も、私と家内に顔を向け、観察して通り過ぎていく。知った顔に出会うと困るな、などと家内と話す。今から思うと、滑稽な会話だった。

近くの高速バス停留所まで引っ張られて行き、側道に止めて、今度は前輪の方にも補助車輪の付いた台車を取り付けた。これは小さなタイヤが2個付いていて、てこの原理を利用して長い鉄棒で車体を浮かせ前輪をはめ込む。なかなか工夫されている。

次のインターは厚木である。そこで東名高速道路から降りて、渋滞の町の中に入っていく。すぐ後ろについてくるクルマの運転手と、必然的に間近に見つめ合うスタイルになった。相手も前方にいるこちらをじっと見るしかない。何となくバツが悪い。私のクルマがトヨタ車であったので、インター近くの近くのトヨタのディーラーまで運んでもらった。JAFに入っていなかったので、運び賃は約4万円かかった。(下図をクリックすると大きくなります)
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店の中に入っていったら、もう10年近くも会ったことのなかった友人がそこにいるのではないか。まさに奇遇。何事もなかったように、お互いに挨拶する。今日の事故のことは誰かに話すことでもないし、黙っていようと思っていた。しかし久しく会っていないのに、なぜこのような特別の場所で再会するに至ったのかを話さないことには、彼の疑問も解けないと顔つきでわかった。ことの次第を話すと、無事でよかったねと彼は先に帰っていった。

ここから家までは遠い。荷物も結構あった。ディーラーには代車はないし、タクシーで帰るには遠すぎる。いろいろと話していたら、このような場合には、トヨタレンタリースで一般のレンタカーよりも半値近くで貸してくれるとのこと。結局、カローラを24時間3900円で借りることになった。そして荷物を積み替え、何とか家まで帰ることが出来た。


<なぜ事故が起こったのか>

直接の原因は、追い抜こうとしていた私のクルマに気づかずに左車線を走っていた黒いワゴン車が急に右側に進路変更してこちらの車線に入り込んできたことにある。明らかに後方確認の義務を怠ったのだ。それは許されることではないが、私のクルマがバックミラーの死角に入り、見えない状況にあったかもしれない。右のすぐ後ろのクルマがミラーから消えてしまう、つまり死角に入ってしまうことは私もよく経験する。

私は昔のクルマのように、ボンネットにバックミラーがついているタイプが好きだ。首を動かすことなく、焦点をちょっと変えるだけで、後方を確認できる。しかも死角がない。現在の主流のドアミラータイプは首を曲げて視線の方向をかなり変えないと後方を確認することが出来ない。バックミラーを見ている間は、前方の注意がおろそかになっている。その上、後ろのクルマがまったく見えない死角がある。自分の安全のためにも、追い抜くときは出来るだけすばやく追い抜かなければいけないと思う。もっとも、高級車のバックミラーは二重の曲面を持つミラーになっていて、死角が起きにくいようになっている。高級車だけのことはある。

助けてくれたJAFのおじさんに、なぜいとも簡単に操縦のコントロールを失ったのかと聞いたところ、最近のクルマはより軽く動くパワーハンドルになっていて、力を加えずとも簡単にハンドルが切れてしまう。わずかに切ったつもりでも、大きく切った結果になることはよくあるし、時速80kmで走っていても簡単にスピンしてしまうのだそうだ。そのような事故の例をたくさん聞かされた。

私は高速ではハンドルを常に小さく切るように心がけてきたつもりである。車線変更もゆっくり入るようにしてきた。しかし今回は、結果として、側面衝突を避けるためにやや多めに切ってしまったようだ。100kmをやや越えていたのだろう。それでスピンした。前輪ではなく後輪が中央分離帯に激突して、車軸が曲がった。これがまたクルマを飛び跳ねさせて、コントロールを失った。

テレビやラジオのニュースを聞いていると、トラックの横転事故が結構多いのに気づかされる。急ハンドルによるスピンが起こったのだろうと想像している。ひょっとしたら、私の場合のように誰かに仕掛けられ、仕掛けた“加害者”は逃げ去り、トラックの運転手の運転ミスとして処分される例は結構多いかもしれない。

それにしても、高速道路上でスピンして突然に止まってしまった私のクルマに、他のクルマが突っ込んでこなかったことは、幸運としか言いようがない。その日は、娘達にとって、両親が突然に同時に死んでしまった日になりかけた。牽引車にひかれながら、お墓とか遺言のことも日頃から考えておかねばいけなかったな、とその時は素直に感じ入った。

2016年3月 8日 (火)

第89話 本庄季郎さんの「とんぼの実験」の話

第89話 本庄季郎さんの「とんぼの実験」の話


1980年代の半ば頃であったかと思う。私の敬愛する先輩の研究者であった本庄 知(さとる -1907))さんに頼んで、父上に研究所の会議室で講演をしてもらったことがあった。父上の名前は本庄季郎(きろう 1901-1990)さん、お歳は80歳を過ぎていたと思う。実にかくしゃくとしていた。(本庄知さんについては、第23話 「ネガとポジの話」参照)

ゼロ戦の設計者であった堀越二郎さんの名前を知っている人なら、三菱の一式陸上攻撃機(一式陸攻、米国のコードネームはBetty)の主任設計者であった本庄技師の名前も知っていると思う。一式陸攻は太平洋戦争中に総数2400機も作られた日本を代表する双発攻撃機であり、機体に防弾や防火の設備は不要であるとの軍命令の結果、銃撃されるとすぐに火がついたことからアメリカ軍のパイロットからは「ライター」とニックネームがついたり、山本五十六元帥がロッキードP38ライトニングに待ち伏せされてブーゲンビル島の上空で撃墜された時に搭乗していたのも、この一式陸攻だった。本庄季郎さんはその他にも数々の名機を設計している航空機技術者であった。(下図はクリックすると大きくなります)
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太平洋戦争後、航空機を造ることができなくなって、本庄季郎さんは航空機設計技術を応用した画期的な自転車を開発したり、琵琶湖で毎年行われているテレビでも人気の番組「鳥人間コンテスト選手権大会」の第1回目(1977)に優勝した機体の設計者でもあった。最近では2013年に公開された映画「風立ちぬ」では、主人公の堀越二郎さんの同僚として登場しているから、案外多くの方がご存じかもしれない。(下図はクリックすると大きくなります)
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その本庄季郎さんの話は、少年の頃に、とんぼを捕まえて翅にさまざまな細工をして、とんぼの飛び方を研究した話である。長じて航空機の名設計者になった本人の話だから迫力があり、とても面白く、刺激的であり、忘れられないものになった。話の最後に、作ってきた紙飛行機を会議室の演壇から飛ばして、20mくらいはあった反対側の壁まで、聴衆の頭の上を見事に一直線に飛ばせて見せてくれた。その時の会議室にいた人たちから上がった大きな歓声は忘れられない。

その時に本庄季郎さんが私たちに配った資料を、以下に原文のまま示そうと思う。今となっては貴重な資料である。ただし難しそうな漢字には、小さな子供でも読めるようにふりがなを付けておいた。
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「とんぼ」の実験 

私の少年時代(1915年前後)、中野道玄町は広々とした水田と畑の中に茅葺(かやぶき)の農家が疎(まばら)らに建って居(い)た。夏休みの夕方には、小供(こども)言葉で言う「ちゃん」と「ぎん」と「ぎんちゃんめ」が無数に飛び交って、蚊や小さい昆虫を追っていた。

「ちゃん」とは「大山とんぼ」(「ぎんやんま」ともいう)の雌(めす)で「ぎん」はその雄(おす)である。夕方田んぼの上に群がって飛び交っているの多くは「ちゃん」で、「ぎん」は数少ない。我々のもっとも貴重品として、後を追ひかけたのは、極めて数が少ない「銀ちゃんめ」である。「ぎんちゃんめ」は実は雌なのだが横腹の色が普通の「ちゃん」の様に緑色ではなく雄の「ぎん」と同じか、より一層鮮(あざ)やかなコバルトブルーである。

小供の目は鋭いもので、翼巾(翅(はね)の端から端までの長さ)15cmそこそこで、頭の先から尾の先までが7〜8cmしかないとんぼの飛行中に、その腹の色と翅の形から、これを見分けるのである。私とすぐ上の兄はこの珍しい「ぎんちゃんめ」を見付けると、もう夢中で、足許まで気を配る予猶(よゆう)がなく、度々(たびたび)畔道から田んぼに落ちた。

「ちゃん」は羽化(うか)したばかりでまだ翅が十分固くなっていない、殆(ほとん)ど無色透明のものを「ほやちゃん」、薄く日焼けして最も元気なものを「しぶちゃん」、一層色が濃くなって見事な茶色をした翅をもったものを「あぶらちゃん」、更に老年期に入って翅が所々破れているものを「ぼろちゃん」といった。「あぶらちゃん」や「ぼろちゃん」には腹に茶色の染(し)みが出来たものがあり、これが小供には貴重品として扱われた。

雄の「ぎん」に就(つい)ては、この様な年功序列による区別が付けられていなかったが、そのわけは、晝日中(ひるひなか)に、とんぼ釣りの囮(おとり)として役立つのは雌の「ちゃん」か「ぎんちゃんめ」だからだろう。

さて、私達兄弟は、夕暮が近づくと毎晩の様に、もち竿(さお)にもちを手ぎわ良く塗って、これを巧みに操(あやつ)り、傷の付いていない姿で、一夕に100匹前後の「ちゃん」と僅かの「ぎん」を獲(と)り、これを二つか三つの鳥籠(とりかご)に一ぱい入れて家に持ち歸(かえ)り、この中から10匹前後を厳選し、他は再び夕暮の空に放すのを日課とした。

飛行試験用としては、「渋(しぶ)ちゃん」か、羽化後3,4日の「ぎん」が最も適していた。

大山とんぼの他に「やんま」や「おはぐろとんぼ」なども実験に用いられるが、やんまの類(たぐい)はやゝ狂暴で手に噛(か)みつくと痛いので使いにくいし、「塩からとんぼ」やその雌の「麦わらとんぼ」は、「大山とんぼ」に較(くら)べて、小がらで性能も劣るので使わなかった。又(また)「おはぐろとんぼ」は翼面荷重(単位翼面積当り重量)が小さく、尾翼を付けて曲返りをさせるには適していたが、他の実験には向かない。

 さて、前おきはこの位にして、大山とんぼの四枚の翅を種々(しゅじゅ)に切った時の飛行実験の話に移ろう。 (下図はクリックすると大きくなります)
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                                  図1  いろいろな切り方をしたトンボの翅

 図1は;
1) が四翅共完全に元系のまゝの「ぎん」又は「ちゃん」である。重心位置はほゞ前翼の胴体取付部後縁付近。
2) は右前翼を切りとったもの
3) は右後翼を切りとったもの
4) は右前翼と右後翼を切りとったもの
5) は左右の後翼を切りとったもの
6) は左右の前翼を切りとったもの
7) 四翅の後縁を各翅の面積の約1/2を切りとったもの
8) 四翅の翼端を切り、各翅の面積を約1/2にしたもの
9) 尾端に軽くて固い紙で造った水平尾翼を付けたもの

さて、これらの試作とんぼを飛ばせて見ると、
2) かなりよく飛べる
3) 2)と同じように良く飛ぶ
4) どうにか飛べる
5) どうにか飛べる
6) 飛べない
7) 低速では飛べないが、原形よりより高速で飛べる
8) 飛べない
9) 水平尾翼の後縁を上に反(そ)らせて上舵をとると宙返りをする。

これらの実験によって、面白いことが発見された。

実は3)と5)は航空機の安定に関する理論を知っている人なら重心が後退して縦安定不足のため飛べないと判断するだろうし、2)と6)は重心が翼平均翼弦に対し前進するので安定よく飛べるだろうと判断するだろうが、6)の場合は安定より以前に実は釣合(つりあい)がとれず頭重(Nose heavy)で飛びにくいのである。2)の場合はどうにか飛べるが、6)の場合は学者の予想に反して、頭重のため、水平飛行の姿勢がとれず、下降飛行しか出来ない。

7)、8)は学者の予想通りの結果で、7)は翼の性能がよいために飛べるが、8)は誘導抗力の増大によって同馬力では7)と同翼面積にも拘(かか)わらず、馬力不足で飛べないのである。

以上の結果は、安定に関する知識のある学者は、その理論に捕らわれて、昆虫の体内に精密な自動操縦装置が付いている事に気が付かなかったのである。然(しか)し、7)と8)に対する予想は、学者の判断が素人(しろうと)より正しかった。

この様に、学者という者は新しい事実に対して正確な判断を常に下すものではないし、釣合という事だけを知っている素人の単純な意見が時に当たる事もあるのである。

私は小供の時に、この実験を行っていたので、後に航空学を学んで、やっと本当の理論を興味深く理解することが出来た。

私が計(はか)からずも受けていた教育は、多くの場合、疑問が先に生じている事柄を、後から教育が教えてくれたのであった。

学ぶという言葉は「まねぶ」つまり「真似(まね)」る事から来た言葉だそうである。学びが先行し、鵜呑(うの)み教育が流行している国では創意工夫が数少ないのは、一つは疑問と教育の順番が逆になっているからかも知れない。

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本庄季郎さんの少年の頃の 「とんぼの飛行実験」の話は以上である。

とんぼ釣りは子供の頃なら誰でもやるであろう。しかし、とんぼの翅を切ったら、とんぼはどのように飛ぶのだろうかとの疑問を持つまでに至る少年は滅多にないだろう。さらにたとえ疑問を持ったとしても、その疑問を解消する実験を始めようとする少年も、また滅多にいないだろう。本庄さんにはどのようなきっかけがあってそのような疑問が生まれたのだろうか。

それに、その実験にふさわしいとんぼを見極め選択していくプロセスは大したものだ。とんぼの種類だけではなく、雄や雌の違い、種類や生育日数を考慮して捕まえた100匹以上のとんぼの中から、実験に最適なとんぼを10匹ほどをさらに選抜し、他は自然に帰している。実験の条件もすこぶる系統的にやっている。7)のように、翅のアスペクト比を大きくして誘導抗力を減らし、翅の面積を減らして翼面荷重を大きくすると高速に飛ぶことができるという航空機設計の原則も、子供の頃に身体で覚えていたのだ。すごいことではないかと思う。

何かを好きになったり、何かを疑問に感じたりしていると、その事柄に対して感受性がどんどんと高まっていく。そのような状態の時に、それにふさわしい知識や方法論を投げかけられると、乾いた砂に水がしみ込むようにそれらがすーっと吸収されていく。自らもその道を究めるように動き出す。創造性を育てる教育の本質とは自ら学び出すきっかけを作ってあげることと思う。

本庄季郎さんが最後に言っている 「疑問を持ってから学べ」という主張は同感である。

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