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2014年10月15日 (水)

第87話 久所のむかし話

第87話 久所のむかし話


第86話「久所(ぐぞ)の始まり」を調べたときにお話を伺った高橋清さん(大正十四年生)は自治会長や生産組合長などを、また曾祖父の繁次郎さんは旧富水村の村会議員などを歴任し、久所の昔についてもっとも詳しく知っておられる最長老のお一人です。興味深いお話はまだまだありました。もう少しご紹介したいと思います。


久所の初めのころ

『 伝え聞いた話では、昔、七人の武者がこの地に住み着いたのだそうだ。そのきっかけは小田原北條氏が豊臣秀吉に敗れ、北條氏に仕えていた多くの武者たちが職を失ったことにあるのではないかと思う。

昔からこの地には椎野・高橋・和田・押田・飯田和との姓が伝わっているので、これらが武者の苗字ではなかったか。和田家は途絶えてしまい、今は残っていない。また久所にはセイザエモン屋敷、トミエモン屋敷、ワダ屋敷と呼ばれていた屋敷跡があったことを覚えている。

祖母は文久三年(一八六二)生まれ、その祖母の祖父は七左右衛門といい、過去帳によると享保十八年(一七三三)に亡くなっている。それ以前の過去帳はお寺が火事で焼けてしまい、残っていない。』


高橋家の最初のご先祖は久所の地に入った最初の七人と伝えられている武者の一人であったようです。このお話と久所周辺の歴史や地名の調査から、「久所の始まり」は前に述べたように、今から四百年ほど前に小田原北条氏が滅んだときに、現在の中井町の久所に縁の深い武者たちがこの地に入り、開拓して久所と名付けたとする地名転移説の可能性が高いようでした。

久所の旧家の菩提寺はほとんどが北ノ窪の陽雲寺なのですが、高橋家だけは久野の潮音寺(小田原市久野五一一)だそうです。お寺が遠かったため自宅敷地の中にも先祖代々のお墓があります。その潮音寺にあった過去帳が焼けてしまい、先をたどれないのではっきりわからないそうですが、最初のご先祖がやって来た時期は戦国時代の末期から江戸時代初期頃なのでしょう。

またお名前の出た五つの姓は和田姓を除き現在でも久所には多くあり、特に椎野姓はとても多くて自治会の全戸数の約二割にもなります。私の家の周囲の五軒はすべて「椎野さん」です。


昔の富水村のこと

『 江戸時代の小田原藩の頃から府川村はあった。府川村は最初から府川と久所の二つの区域に分かれていた。明治になり、この地は足柄県府川村久所と言った。のちの小田原市自治会五十区の一が府川で、五十区の二が久所だった。

そののち、府川村は他の村と共に合併して富水村になった。さらに富水村・久野村・芦子村・二川村が合併して足柄村に、すぐに足柄町になった。昭和十五年、皇紀二千六百年の記念で、足柄町と小田原町が合併して小田原市になった。』


所蔵されていた『神奈川縣足柄下郡 旧富水村地図』(昭和七年発行)を拝見しますと、いろいろと興味深いことが分かりました。この旧富水村とは明治二十二年(一八八九)四月一日付の市町村制の施行により、それまでの蓮正寺村・中曽根村・飯田岡村・堀之内村・柳新田村・小台村・新屋村・清水新田・北窪村・府川村・穴部村・穴部新田および多古村と足柄上郡岩原村の飛地が合併して発足した村です。これらの村はいずれも江戸時代後期に書かれた『新編相模国風土記稿』にも相模国足柄上郡の村里としてすべて記録されていました。ただし狩川を境に東と西で分かれていて、蓮正寺村から清水新田までは成田庄に、また北窪村から穴部新田までは早川庄に属していました。

『小田原市史』などによれば、この富水村は蘆子村・二川村・久野村と合併して足柄村が発足する明治四十一年(一九〇八)四月一日まで存在しました。従って『旧富水村地図』は昭和七年発行ですが、江戸時代の状態がまだまだ色濃く残っている明治時代の初めが記録されていると思います。(下図をクリックすると大きくなります)


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『旧富水村地図』では、他の大字、つまり他の旧村里とは違って大字府川の地図は二つありました。現在の府川の地図と久所だけの地図です。今はほとんど忘れ去られていますが、久所の小字は十一ありました。すなわち 水窪(みずくぼ)・堀籠(ほりかご・眞角(まかど)・外貝戸(そとかいど)・美之輪(みのわ)・仲澤(なかざわ)・西之窪(にしのくぼ)・渡り澤(わたりさわ)・鹿塚(ししづか)・堀ヶ窪(ほりがくぼ)・羽ヶ尾(はねがお)です。『旧富水村地図』に久所の地名は出てきませんが、『新編相模国風土記稿』の府川村の項に小字として久所が出てきていますし、『旧富水村地図』の大字北ノ窪の地図には小字として久所前がありますから、この地図ができる前から久所は地名として存在していたことはたしかです。現在の国土地理院発行の地図に久所の地名が明記されていることはそれを物語っています。


今はない天神さまのこと

『 現在の久所公民館の場所は昔は山だった。おばあさんから聞いた話では、明治の末までそこには天神さまがあった。久所の人たちは昔からその天神さまと諏訪神社の二つを鎮守としていたそうだ。天神さまは明治の一町村一神社政策により現在の諏訪神社に合祀され、土地もまとめられた。以前土地台帳を調べてことがあるのだが、天神さまのあった土地は明治の終わり頃、明治四一年か明治四二年頃と思うのだが、諏訪神社の土地として登記されていた。諏訪神社の下社などもその時に合祀されてなくなったのだろう。現在の府川一番地には神社がなくても諏訪神社の土地であるのはそのような経緯があったためだ。

つい数年前に老朽化で取り壊された諏訪神社の神楽殿の建物は天神さまのお社の一部だった。「天満宮」と書かれた額が諏訪神社の中の奥宮にまだ置かれているはずだ。額には寄贈した「幸次郎」の名前があったと思う。また天神さまが取り壊されるときに、社の中にあった小さな奥宮は子安の社として北ノ窪の陽雲寺に引き取られた。しかし大正一二年の関東大震災で北ノ窪天神社が倒壊したあと、再建したときに北ノ窪天神社に移された。今でも奥宮として社の中にあるのではないか。

天神さまの跡地には関東大震災のあとに養蚕のための久所の共同作業所が作られた。私の家の一階の天井が高いのは二階で蚕を飼っていたためだ。その共同作業所の隣には事務所の建物があって、久所の人たちが集まる場所、青年会所として使われた。四畳半と八畳間くらいの広さだった。昭和三〇年代になって、明治製菓の工場が小田原市栢山に作られることになり、その造成に土が必要になって山を削り低くして今の久所公民館の土地が作られた。公民館の脇の切り通しの道もその時に造られた。』


この地に神社があったとは知りませんでした。神社合祀政策に関しては明治初年の太政官布告と明治三九年(一九〇六)の内務省.訓令の二つがあります。特に後者の内務省訓令により日本の神社の数は激減し、鎮守の森もまた消滅しました。全国二十万社のうち七万社が取り壊されたといいます。これによって鎮守の森が消え去り、地域に根ざした多くの文化や歴史もまた消え去りました。南方熊楠がこれに反対運動を起こしたことはよく知られています。神社合祀が行われる以前はそれぞれの集落にはさまざまな神さまを祀っていた複数の神社があったのでしょう。久所もまた例外ではなかったようです。(下図をクリックすると大きくなります)

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【江戸時代の久所には西光寺と天神社の一寺一社があった。字天神下にあった西光寺は後に廃寺となり号を移して、元禄の大地震の死者を弔うために小田原谷津の慈眼寺が建立された。天神社は明治末の神社合祀政策により取り壊され、跡地には養蚕の共同作業所と事務所が建てられた。事務所は青年会所としても使われていた。現在の公民館は昭和30年代に天神社があった小山を削り取った平地に建てられ、脇の切り通しの道はその時に新しく作られた】


さらには明治から昭和にかけての神道国家管理時代は「宮」号は祭神が基本的には皇族であり、かつ勅許が必要であったため、天満宮と称していた神社も天神社・天満神社などと改称させられたようです。天神さまと親しまれていた久所の天満宮は、改称させられる前に明治末の神社合祀政策が出たあとで取り壊されたのではないかと思います。しかし『旧富水村地図』には天満宮とその敷地がはっきりと描かれていました。神社は現在の久所公民館の場所に四角く囲まれて描かれていました。当時は小高い山の上にありました。

お話のように諏訪神社には数年前まで鳥居の奥に朽ち果てた小さな舞台のような建物がたしかにありましたが、それが昔の天神さまの神楽殿であったとは知りませんでした。天満宮と書かれ額は、平成二十六年三月の諏訪神社大祭の前日に社の中に入る機会があり確認したところ、たしかに諏訪神社の中の奥宮の裏側の壁に立てかけてありました。額の裏側には『慶応二寅年正月 願主當邑 椎野幸冶良・・』と書かれてありました。「・・」は額の補強のために裏面に打ち付けられた木材により判読できなかった部分です。慶応二年ですから明治維新になる直前の江戸時代末期であり、當邑とは久所のことを示しているのでしょう。この額の隣に欄間のような大きな彫刻がありましたが、高橋さんによるとこれも天満宮の社の一部とのことでした。北ノ窪天神社に移されたという久所の天満宮の奥宮については、まだ確認していません。(下図をクリックすると大きくなります)
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諏訪神社のこと

『 府川の名主であった稲子家の先祖は信州から移ってきた武田信玄の一党であって、諏訪神社の創建はそのご先祖が関係していると聞いている。府川の中にあって稲子さんだけは久野にある総世寺の檀家だ。稲子家はもともと久野に住んでいて、久野から府川に移ってきたのではないか。稲子家は諏訪神社にまつられているご神体を保管していて、お祭りの時に神社に持っていくようにしていて、神主のような立場だった。

諏訪神社の天井絵は今はうすくなってとても見にくいが、昔は鮮やかな絵だった。江戸時代に狩野派の小田原の絵師が描いたと聞いている。あるとき天井絵に描かれている龍が降りてきたという龍の形をした跡が床の上に見つかって大騒ぎになったことがある。その時に撮った写真を見たことがあるが、たぶん中に吹き込まれた落ち葉かナメクジが動いた跡ではないかと思う。』


久所と府川の共通の鎮守であるこの諏訪神社は、『西さがみの地名』(田代道弥著)によれば、県立おだわら諏訪の原公園の中にある現在の上社の「本宮」の他に、昔は山を下ったところに「前宮」(細窪)があり、また下社の「春宮」(相洋高校グラウンド)および「秋宮」(清水新田)の四つがあったようです。この四つの宮からなる形式は長野県にある諏訪大社と同じです。『日本歴史大事典』によれば、日本書紀にすでに記録があるという諏訪大社については「源頼朝が挙兵時より守護を受けたことで武家が武神として信仰、全国に勧請(かんじょう)された」とあります。勧請とは「神仏の分身、分霊を他の土地に移してまつること」の意であり、その結果、全国各地には一万とも言われる多数の諏訪神社が存在するようになりました。この地の諏訪神社が創建されたのもこの出来事があった後でしょう。『小田原の神社巡り』(神社探訪会)によれば、市内には一九三社もの神社があるそうですが、その中で諏訪神社はこの一社だけです。

古くから軍(いくさ)神として崇められていた諏訪神社を創建したのは、やはり武者が関係していたのでしょう。諏訪神社の鳥居脇にある由来記によれば、『武田信玄・勝頼に仕えていた新川光輝という武士が武田家滅亡後に里武士となって当地に住みつき諏訪明神を祀った』と記されています。武田家滅亡は武田勝頼が自刃した天正十年(一五八二)とされていますからまだ小田原北條氏の時代です。久所に最初にやってきたという「七人の武者」の時期もやはりその頃であって、諏訪神社の創建に関係していたのでしょうか。

久所のもう一人の長老である椎野寿雄さん(昭和四年生)のお話によれば、

『 現在の諏訪神社の社は昭和の初め頃に建てられた。ひいおばあさんからは、その前の社は大工さんだったひいおばあさんの実家が建てたと聞いている。ひいあさんは昭和十五年に九十二歳で亡くなっている。』

とのことです。そうするとひいおばあさんは天保九年(一八三八)頃に生まれたことになります。従って諏訪神社は近年少なくとも明治の初めと関東大震災で崩壊したあとの二度にわたって建て直されていることになります。諏訪神社の鳥居脇にある由来記によれば、造営の記録は天明二年(一七八二)および大正十五年(一九二五)となっていました。天井絵は社が建て直されるたびに江戸時代からの絵をそのまま用いてきたのでしょう。私が久所に引っ越してきた頃はくっきりと見えていたのですが、平成二六年三月の諏訪神社大祭の時に見たときはほとんど消えかかっていました。


今はない西光寺のこと

『 天神さま(天満宮)の隣には西光寺(さいこうじ)というお寺があった。このお寺は小田原の谷津に移り慈眼寺(じげんじ)になった。慈眼寺は「投げ込み寺」と言われていた。』


この地にお寺があったとは知りませんでした。調べて見ますと、お話に出た慈眼寺は小田原市城山に現存する黄檗宗の寺です。寺の縁起によると『元禄十六年(一七〇三)の大地震での被災者を追福するため、大久保加賀守忠増が一寺建立を企図、久野総世寺十八世實全と謀って、廃寺となっていた曹洞宗の府川村の天神下にあった西光寺を引寺し、僧恵極を中興開山に迎えて黄檗宗慈眼寺と号し、承徳五年(一七一五)に堂宇を建立した』とあります。この記述は『新編相模国風土記稿』の谷津村の慈眼寺の項の説明を引用していました。「投げ込み寺」は吉原の遊女で名高い東京の南千住の浄閑寺(じょうかんじ)がありますが、慈眼寺も身寄りのない地震の死者を葬ったのでそのように呼ばれていたのでしょう。

一方同じ『新編相模国風土記稿』の府川村の西光寺跡の項には慈眼寺との関係が書かれていて、『西光寺跡は府川村の字天神下にあって、その西光寺は府川村にある正応寺の開祖が慶長十五年(一六一〇)に隠棲の場として建て、元和年間(一六一五〜一六二四)に亡くなった後は無人となっていたところ、総世寺の第十八世實全が万治三年(一六六〇)に小田原谷津村に号を移して寺を建て慈眼寺となった』とあります。新たに寺を建てることは幕府の御法度であったために、廃寺となった西光寺を利用したのでしょう。西光寺のあった字天神下とは、昔の天神さまのあった小山の下の意であり、現在の久所公民館の北西側に当たるのでしょう。

慈眼寺建立の年代が『新編相模国風土記稿』の二つの記述で五十年ほど違っていますが、元禄の大地震は元禄十六年に実際にあった話なので府川村の項よりは谷津村の項に書かれた年代の方が正しいのでしょう。『新編相模国風土記稿』は昌平坂学問所の幕府の役人が現地調査せずに地元の名主などから提出させた資料に基づく場合も多かったようですので、矛盾したり誤った記述もそのまま載せてしまう場合もあったのだろうと思います。

なお久所にあったという西光寺は十数年ほど存在しただけであり、その敷地面積は四畝四歩(およそ百二十五坪)と記されているので、お墓がある広いお寺という現在のお寺のイメージよりはそのお坊さん一人だけの小さな隠居所のようなものであったのでしょう。


・・・おしまい

新しく住むようになったよそ者にとっては、その地に代々伝わっているむかし話も知らず、幼い頃の遊び慣れた場所もなく、周りの景色も単なる風景でありました。しかし古くからお住まいになっている方々の話を聴き、地域のことを知っていくと、それまで気にも留めなかった身近な風景や周囲の人たちとの会話が急に新たな意味を持ち始め、命を与えられたように輝き始めてきました。昔の風景も目の前に浮かぶようになってきました。

不思議なことです。


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コメント

久所の始まりに続いて、興味深く読ませて頂きました。
私は鹿児島出身で同じよそ者ですので、末尾のお気持ちが良く理解できます。
それにしても良くお調べになられていることに敬意表します。
一度読んだほどでは、南方熊楠のように記憶力も読解力ないので、また改めて拝読させて頂きたいと思います。

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