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2014年9月

2014年9月20日 (土)

第86話 久所の始まり

第86話 久所の始まり


「久所」というところ

私の住む小田原市「久所(ぐぞ)」は三つの小さな谷間からなる里山です。箱根明神岳の山裾の諏訪ノ原丘陵の北麓にあります。それぞれの谷間にある集落がそれぞれの組を作っていますので、「久所」自治会内を西から南、そして東の組へと歩いて回るとおよそ一時間近くもかかります。しかし世帯数は小田原市自治会の中でも最少に近いでしょう。

「久所」には自然がまだまだ残っています。玄関前で手をたたくと山からはこだまが戻ってきますし、早朝や夜半になって遠くの踏切の音がかすかに聞こえてくることはあっても、ふだんは風の音や鳥の声、そして田植え時はカエルの声ばかりです。キツツキの音やカッコーの声が聞こえてくる時もあります。引っ越した直後には、庭で飼っていた七羽のチャボがイタチに毎晩一羽ずつ殺され全滅しました。
タヌキ、イノシシ、ハクビシンなどはよく現れますし、崖の麓から湧く「久所の泉」では季節になるとホタルが現れます。サルは時期になると我が家の庭を親子連れの集団で通過していく常連ですし、家の中にも窓を開けて二回ほど入ってきました。

このようなことを言いますと、よほどの深山幽谷の地と思われるかもしれませんが、小田原で新幹線に乗り継いで自宅から一時間ちょっとで東京駅に着きますから「それほど秘境ではない辺境」と思っています。(下図をクリックすると大きくなります)


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「久所」は周囲とは違うらしい

「久所」は箱根山を背にして、小田原市の「府川」および「北ノ窪」自治会、そして南足柄市「沼田」自治会の三つの区域に囲まれています。国土地理院地図には「久所」と表記されていますが、住居表示は「小田原市府川○○○」です。「久所」と「府川」は諏訪ノ原丘陵にある諏訪神社を共通の鎮守としていますから、昔から親戚のような間柄であったのでしょう。

諏訪ノ原丘陵は一万五千年前の縄文時代早期からの遺跡が残っていて、小田原地方では最も古くから大規模に人が住んでいた場所です。『小田原市史』によれば、「府川」には縄文末期から弥生文化中期の諏訪の前遺跡があり、また「北ノ窪」には弥生文化後期の北窪小原遺跡があります。『南足柄市史』によれば、「沼田」には縄文文化中期から後期にかけての沼田上ノ原遺跡や沼田城山下横穴墓群があります。このように「久所」の周辺の地域では縄文時代からすでに人々が居住し始めていたようですが、「久所」にはそのような痕跡はありません。

また周囲の三つの地区名はいずれもその地形に由来しています。「府川」は湿地や泥深い低地を意味する古語「フケ」から来ているとの説が一般的のようです。「北ノ窪」もまた同じような湿地帯でしたが、むしろ「府川」の北にある窪地であることを強調して名付けられたとされています。南足柄市側の「沼田」は東側を狩川、南側を分沢川とする沼地・湿田であったことに由来しています。これらの地区は古代から人が居住し、地名も長い時代を経て人々の間で熟成し定着してきたのであろうと思います。

『南足柄市史』によると、鎌倉幕府の歴史書である『吾妻鏡』の中に源頼朝が建長三年(一一九二)に足柄峠越えの要人警備を命じた一隊の中に「沼田太郎」との名前が現れると記されていますから、「沼田」との地名は平安時代の末期にはすでに存在していたことがわかります。

『小田原市史』によれば、「府川」は、小田原北条時代の永禄二年(一五五九)の『小田原衆所領役帳』に北条家の御馬廻衆であった狩野泰光の知行地として出てきます。しかし実際にはそれよりもはるか昔から存在していたのでしょう。調べていくと、周囲の地区の中で「久所」だけが特異的でした。なぜ「久所」なのか、いつ頃から「久所」なのか、また日本の他の地域にもあるのだろうかと気になってきました。


「久所」は他にあるのだろうか

そもそも「久所」という地名はめずらしいようです。約三十一万語の地名を載せているという『現代日本地名よみかた大辞典』では一カ所(神奈川県中井町の久所)のみでした。しかし対象となっている地名は現在の行政地名に限られています。そこで図書館で「地名」と名がつく三十種類近くの辞書・辞典・資料の類を探しだし、調べることにしました。また「久所(ぐぞ)」は平安時代末期に荘園管理のためにおかれた役所である「公所(ぐぞ)」に由来するとの説もあるので、これらの文字が出てくる言葉をインターネット上で検索することにしました。加えて国土地理院地図の全国地名調査も行いました。その結果、「久所」との地名は全国で以下に示す六カ所、「公所」は三カ所が見つかりました。


小田原市「久所(ぐぞ)」

小田原市の「久所」は『郷土の地名』(立木望隆著)によれば、「木所(きどころ)」が訛ったとの説と平安時代に公文所が置かれていた場所である「公所(ぐぞ)」に由来するとの説のようです。この地域の歴史を調べても「久所」は公文所が置かれるほどの荘園は存在していなかったので、由来が「公所」にあるとする説は疑問です。

「久所」の地名が初めて出てくるのは江戸時代後期に編纂された『新編相模国風土記稿』でした。平安時代に書かれた『和名類聚抄』も調べたのですが、近くの「飯田岡」の地名のルーツといわれている「飯田(郷)」は出てきますが、「久所」に関連しそうな地名は出てきません。

ともあれ『新編相模国風土記稿』によれば、足柄下郡早川庄の「府川村」の項に、小名として久所・萬石・楠木・西ノ久保が出ています。また隣接する「北ノ久保村」の項には小名として山崎・久所前がありました。小田原市内から南足柄市関本に抜ける昔の甲州道(旧道)から「久所」への分かれ道は今でも「久所入口」と呼ばれています。つまり「北ノ窪村」の「久所入口」から「久所前」を通って「久所」に行くことになります。


神奈川県中井町「久所(ぐぞ)」

中井町在住の郷土史家石黒弘さんに中井町の「久所」のルーツについてお聞きしたところ、次のようでした。

『この地域は古くから「公所(ぐぞ)」と呼ばれていたと思われるが、後に同じ呼び名の「久所(ぐぞ)」に変わったようだ。なぜ変わったのか、いつ変わったのかはわからない。昭和三十三年に書かれた村史にも何も書かれていない。江戸時代の古文書にはすでに「久所村」との記述がある。中井町の「久所」と小田原の「久所」との関連についてはわからない。小田原の「久所」の地域は平安時代末期に沼田城のある沼田氏の領地であって、「公所」が置かれていたのではないかとの説を立木望隆さんから聞いたことがある。その「公所」が「久所」に代わったのではないか。』

また『中井町史』によれば、「久所(ぐぞ)」の由来は、「昔役所があった所=公所」と「木所(きどころ)」が訛ったとの説があること、江戸時代にはすでに「久所村」と呼ばれていたと記されています。近くの平塚市には「公所(ぐぞ)」という地名がありますが、これとの混同を避けるために「公所」から「久所」に変えたのではないかとの推測もまた書かれていました。

中井町は平安末期から鎌倉期にかけて「中村郷」のあった地、日本における武士の発祥の地の一つです。中村氏(中村宗平やその子の土肥実平など)は源頼朝を助け、鎌倉幕府開府に大いに貢献し、有力な御家人となっています。中井町には保元二年創建の「五所八幡宮」があり、源頼朝の信仰が厚く、鎌倉幕府の庇護が深かったようです。

現地に行ってみると、五所八幡宮のすぐそばに久所公民館があり、近くには中村氏館跡もあり、この「久所」が当時は中村郷の重要な場所であり、荘園管理のための「公所」があったであろうことは容易に推測されました。また近くには「久所前」があり、井之口方面から山を越えて「久所」へ行く道の入口には「久所入口」というバス停留所もありました。「久所入口」・「久所前」・「久所」との地名の三点セットは小田原市の「久所」とまったく同じでした。


神奈川県秦野市「久所(ぐぞ)」

『秦野市史』や『秦野史研究』誌を含めた文献調査やインターネットによる検索では「久所」は見つかりませんでした。しかし国土地理院の地図には「久所」と書かれた地域が秦野市立上小学校北側ありました。

現地に行ってみると山裾の道沿いには「ここは久所自治会の避難所です」とか「星屋・久所組のごみ収集場所」と書かれた標識がありました。つまりこの付近の集落はたしかに「久所」と呼ばれていることが確認できました。しかし秦野市ホームページの「自治会名一覧」には久所自治会との名前はありません。最近になって他の自治会と統合されたのかもしれません。

秦野市はもともと平安末期にこの地を支配していた波多野氏の波多野郷でした。この地も日本の武士の発祥の地の一つとして知られています。波多野氏の一族の大友氏は現在の小田原市に東大友と西大友の地名があるように、この大友郷を拠点にして足柄平野の北側一帯を領有していたようです。調べていくと戦国時代のキリシタン大名として名高い豊後国の大友宗麟の本貫がその大友郷であったことも知りました。早川郷を本貫とする中村一族末裔の戦国大名小早川秀秋もそうですが、日本の歴史において小田原の地が日本の武士社会に人材を送り込んだ土地柄であったことをあらためて知った次第です。


神奈川県相模原市「久所(ぐぞ)」

『難読地名辞典』には、中井町とともに相模原市の「久所」が出ています。『日本歴史地名大系』の『神奈川県の地名』には「久所河原」・「久所渡」はありますが、国土地理院の地図にはありません。

現地に行きますと、相模川の高田橋の東端に「久所の渡し」と書かれた石碑が立っていました。ここは小田原北条時代に小田原と関東北部の小田原藩領を結ぶ街道、江戸から駿河国沼津宿に通じる矢倉沢往還、大山参りの道が相模川と交差する要所であり、大正十三年に初代の高田橋ができるまでは対岸への渡しがあった場所です。近くの河岸段丘の集落は現在では水郷田名ですが、昔は「久所」と呼ばれた宿場でした。その由来としてこの地に「公文所」が置かれていたのですが、のちに「文」が省かれて「公所(ぐぞ)」とよばれるようになり、さらに相模川の洪水のたびに人々が久しくこの宿場に逗留することが多かったので、次第に同音の「久所(ぐぞ)」となったと伝わっているようです。


千葉県館山市「久所(ぐじょう)」

インターネットの検索でやっと見つけた文字が館山市にある「久所集会所」でした。現地に行って探し出した館山市の「久所」は、館山市から白浜に抜ける県道八六号線沿いの山あいの盆地、「神余(かなまり)」地区にありました。その地には岩壁を彫ったほこらの中に「久所地蔵」があり、集落の中央をながれる巴川には「久所橋」が架かっていて、近くには「久所集会所」と書かれた小さな建物が本当にありました。畑を耕していた古老に聞くと、その集落は「久所(ぐじょう)」と呼ばれていることがわかりました。

神余とは「神が余る」の意です。律令時代は郷に住む家の数が五十戸をこえると増えた分を別の郷とする決まりがあり、それを余戸(あまりべ)と呼びました。この地は安房国の一宮である安房神社が近くにあります。その安房神社の神に仕える人たちが住んでいた神戸(かんべ)郷の戸数が多くなり、新しく開拓し余戸として移住したので、神が余った「神余」呼ばれるようになったようです。

この地には神余城跡や神余氏館跡があります。神余氏は平安末期から鎌倉期にいた豪族であって、源頼朝が石橋山合戦で敗れ、土肥実平とともに真鶴半島の岩海岸から舟に乗って房総半島の安房国に逃れた際に頼朝一行を出迎えた一人であり、頼朝を助けて鎌倉幕府開府に貢献したという家柄です。神余氏と土肥氏とがこのような近い関係にあったとは知りませんでした。

ついでながら、神余氏の館跡には明治七年創立という歴史ある神余小学校が建っていました。小学校のホームページを見ますと昨年の修学旅行は小田原に来て箱根に一泊し鎌倉に寄って戻るコースのようでした。源頼朝を通じての小田原・湯河原と神余、これもまた歴史の因縁を感じました。


大分県大分市「久所(くじょ)」

『日本地名大辞典』の大分県の部に、現在の大分市にはかって「久所村(くじょむら)」があったと記されています。大分県のホームページの詳細な資料を見ると、明治九年に合併して丹川(あかがわ)村と名前を変えるまでは確かに「久所村」が存在していました。地図で確認すると現在は「上久所」と「下久所」との地名が存在し、それらは隣接した場所にあるので、この地に「久所村」のあったことが推測できます。(下図をクリックすると大きくなります)


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「公所」について

「公所」は全国で三カ所見つかりました。いずれも神奈川県内のみで、平塚市の「公所(ぐぞ)」、厚木市の「公所(ぐじょ)」、大和市の「公所(ぐぞ)」です。地名の由来はこの地に平安時代あるいは鎌倉時代の「公文所」が設けられていて、「公文所」の「文」が取れて「公所(くじょ)」となり、さらに「公所(ぐぞ)」となったとされています。

ところで、「公所(こうしょ)」との言葉は、現在でも役所や公共施設、会館などを表す言葉として使われています。古くからの地名としての「公所」が少ないのは一般名称として今もなお使われているためでしょうか。


なぜ「久所」なのだろうか

地名は、特にその地域の古い小名の類は、そこに住む後代の人たちの記憶から消え去ってしまうことが多々あります。「久所」という地名も昔は全国に数多くあったと考えた方がいいのでしょう。しかしそれにしても現在残っている「久所」や「公所」との地名が神奈川県西部の旧「相模国」に多いのはなぜなのでしょうか。残るメカニズムがあったのでしょうか。『新編相模国風土記稿』もその一因なのでしょうか。

ともあれ私の住む小田原市の「久所」についてだけ言えば、古くからからこの地に住んでいた人々の間で熟成され伝承されてきた地名というよりはむしろ歴史のある時期に突然に登場したように感じられるのです。つまり、昔、誰かがこの未開拓の地に入り、その人たちにとって特別な地名をつけたとする地名転移説が最もあり得る説明ではないかと思うようになりました。

この例は『地名の由来を知る事典』(武光誠著)によれば、古くは奈良時代初期に書かれた『播磨国風土記』の中に、「中国からの渡来人の集団が最初に紀伊国名草郡大田(おおたた)の村に住みつき、次第に勢力を伸ばして新たな土地を得るたびにその地を次々と大田と名付けた」とあるそうです。近年でも北海道に入植し土地を開拓した奈良県十津川村の人たちがその地を「新十津川」と命名した例はよく知られています。イギリスのロンドンと同じ名前をつけた地名はカナダを始め世界各地にあります。地名の原初の由来は別にして地名転移説で説明できる地名の例は日本ばかりでなく世界の各地で普遍的に見られます。


仮説:久所の始まり

「久所」の始まり関してどのような話が伝わっているのか、最長老の高橋清さん(大正十四年生れ)にお話を伺うことにしました。驚いたことにお話は次のようでした。

『伝え聞いた話では、昔、七人の武者がこの地に住み着いたそうだ。そのきっかけは小田原北條氏が豊臣秀吉に敗れ、北條氏に仕えていた多くの武者たちが職を失ったことにあるのではないかと思う。』

これはまさに地名転移説の可能性を裏付けています。多くの昔話や神話がそうであるように、伝承されている話が真実であるとは限りません。しかし真実の痕跡は残されているのであろうと思います。もしもこの伝承が正しいとしたならば、それはいつ頃、誰だったのでしょうか。武士の集団が未開拓だったこの地に同時に入り、武士から農民へと生き方を変えるには何かの特別な事件があったはずです。その歴史上の事件とは、仕えていた主君の改易・断絶などによって知行・俸禄を失って同時に失業したことによるものなのでしょう。またその複数の武士は互いに地縁や血縁があり、同じ主君で結ばれていた仲間であった可能性が高いでしょう。

『小田原市史』によれば、小田原北条氏の滅亡の際には、秀吉が北條氏の家臣の仕官先を直接に世話した例もあったようですが、身分の低い武士たちはそのまま放逐されました。江戸時代になっても『おだわらの歴史』によれば、「家臣たちは小田原城明け渡しの際に召し放たれて離散した」ようです。その中でもっとも大量に放逐された事件はやはり小田原北条氏の滅亡時であったかと思われます。

また武士たちは新しい地を自分たちにとって特別な名前にしたのですから、当人ではなくてもその父・祖父さらには先祖の本貫は武士の出身地としては名乗るにふさわしい由緒のある土地であるはずです。中井町の「久所」はそのような地の一つです。さらには地名として「久所」・「久所前」・「久所入口」が残っていました。小田原と中井町の二つの地域で、三つの地名のセットがこれほど一致していることは実にめずらしいと思います。

以上のような調査と伝承されているお話から、私の住む「久所の始まり」は、今から四百年ほど前に小田原北条氏が滅んだときに、現在の中井町の「久所」に縁の深い武士たちがこの地に入り、開拓して「久所」と名付けた可能性が高いのではないかと考えるようになった次第です。

2014年9月17日 (水)

第85話 「感性」との言葉

第85話 「感性」との言葉


「感性」の地位は大きく変わりつつあるように思う。「感性」と「理性」をそれぞれ両天秤の皿に載せると、「理性」の方がずっと重かった時代が長く続いてきた。しかし近代工業社会の終焉が見えだしてきた近年では「感性」が次第に重要度を増してきた。だが、まだまだ対等までは至ってはいない。辞書・辞典類を調べて見ると、その混乱期に今あることがよくわかる。

以下に、各種の辞書・事典に記述された「感性」の内容を示す。<コメント>は私自身の感じたことの補足である。


【日本語大辞典】感性

1. 心に深く感じること
2. 哲学の用語。知性や意志と区別された感覚、欲求、感情、情緒などにかかわる心の能力

<コメント>

最も概括的にはそうであろうと思う。


【広辞苑】感性 sensibility

1. 外界の刺激に応じて感覚・知覚を生ずる感覚器官の感受性
2. 感覚によってよび起こされ、それに支配される体験内容。従って、感覚に伴う感情や衝動・欲望をも含む。
3. 理性・意志によって制御されるべき感覚的欲求
4. 思惟(悟性的認識)の素材となる感覚的認識

<コメント>

3の意味は、「感性」は「理性」の下に存在すべき、と言っている。このようなヒエラルキーが存在しているとは私は思わない。「神の下に人は存在する」という聖書の教えのごとく、世間では「理性」を神、人を「感性」に対応させている人が多いのかもしれない。「理性」は到達できないはるか上の天上界にあって、「感性」は身近な人間界にあると言う理解か。明らかに西洋キリスト教社会の価値観である。


【明鏡国語辞典】感性

・ 外界からの刺激を直感的に印象として感じ取る能力。感受性。

<コメント>

「感性」の特性の一つがソトとウチを結びつけるセンサー的役割であること確かだが、それだけではない。


【ブリタニカ国際百科事典】感性 sensibility

『感性とは』 時間と空間に本質的に制約されている物質的対象からの刺激を、感官を媒介として受け入れる精神の認識能力で、これと対置される知的認識能力に素材を提供する。またはこのような作用の総体をもいう。能力としての感性の現実化は、主体に快または苦痛をもたらすため、人間行動の原動力となるが、それらは個別的な善(または悪)として、人間の全体的善(または悪)にしばしば対立する。したがって実践上、理性と意志によって洗練され、統制されなければならない。なお、刺激に対する身体の敏感度を感性ということもある。

<コメント>

まず「感官」とは感覚器官とその知覚作用であって、生理作用と心理作用を統一的に考える場合に用いる言葉(広辞苑)。説明文では感覚器官を省略して「感官」と使っただけである。文中の“これ”がわかりにくいのだが、広くは「感性」のことだろう。この説明では、「感性」は明らかに「理性」の完全なコントロール下になければならない、つまりの「理性」の“奴隷でなければならないと言っている。ブリタニカ国際百科事典のこの文を誰が書いたのかわからないが、西欧キリスト教社会に属する誰かが聖書を無意識に考慮しながら書いたことは間違いないだろう。とすると“西洋”では、「感性」の地位は極めて低い。我々の感覚からするとsenseの能力(sensibility)だけが「感性」ではない。つまり、「感性」に該当する適切な単語が“西洋”にはないのだろう。


【マイペディア】感性 sensibility

知性、理性、悟性などの知的認識能力に対する、感覚的認識能力一般、ときに感情をも含めての総称。その受動性のゆえに、伝統的に知性や理性より低いものとされてきたが、直観を重視する哲学や、経験論・感覚論に基礎を置く思潮では高い位置が与えられる。

<コメント>
 
歴史的に見て「感性」の地位が向上してきたことを言っている。16世紀に自然科学が誕生し、それに支援された近代工業技術によって成立した科学技術文明は、大いに人類に恩恵をもたらした。自然科学はモノとココロを分離することで急激な進化を遂げたのであるが、その結果「感性」よりも「理性」を重要視する風潮を生んだ。ニュートンを徹底的に批判したゲーテばかりでなく、警告を発した科学者や哲学者達はすでに19世紀から存在していた。これまで成功してきた自然科学パラダイムが内外の環境に適合しない事例を生み出すに及んで、ようやく「感性」が「理性」と対等に考えられるような地位向上がなされていったと思う。

上記の“自然科学”は「外なる自然」に関する自然科学(タイプ1。物質科学:物理学・化学)であって、人や社会に直接に関連しなくても進化することができた。しかし近年認識されてきた(と思うのは私だけか?)「内なる自然」に関する自然科学(タイプ2。情報科学・生命科学)は人や社会に密接に関連せざるを得ない。「感性」を抜きにしては語れなくなってきたと思う。近年の一神教の世界から多神教の世界への認識の広がりと対応している。


【ジーニアス英和大辞典】感性
・ passion ( cf. reason)
・ sensibility

<コメント> 

「感性」はpassion でもなければ、sensibility でもないと思うのだが。


【新和英大辞典】感性

・ 〔感覚力〕sensitivity;sensibility;sensitiveness
・ 〔感受性〕susceptibility


【プログレッシブ和英中辞典】感性
・ sensitivity

<コメント>

sensibilityではなくsensitivity と言っている。


【オックスフォード現代英英辞典】sensitivity

1. the ability to understand other people’s feelings
2. the ability to understand art, music and literature and to express yourself through them
3. a tendency to be easily offend or upset by sth
4. the fact of needing to be treated very carefully because it may offend or upset people
5. the quality of reacting quickly or more than usual to sth
6. the ability to measure very small changes

<コメント> 

違和感があるのは、たとえば3.や4.のようにsensitivityは明らかに好ましくない行動・反応のニュアンスを持っていることだ。ここでもヒトは“理性的”に振る舞うことが期待されている。全体的にはセンサーの意味合いが強い。


【オックスフォード現代英英辞典】sensibility

1. the ability to express and understand deep feelings, especially in art and literature
2. 〔pl.〕a person’s feelings, especially when the person is easily offend or influenced by sth

<コメント> 

これも、sensibilityは明らかに好ましくない行動・反応のニュアンスを持っている。


【専門用語100万語和英】感性

・ sensibility<化学・工業化学><医学・薬学>
・ sensitivity<生命科学><医学・薬学>

<コメント> 

このように分野で区別して使っているのかどうなのか私は知らなかった。本当か。


【日本語大シソーラス】感性

感性 フィーリング;感受 感受性 受容生 情操;センス 感度 感応 感覚→五感;センシビリティー センシブル センシティビティー センシティブ


【類語例解辞典】感受性/感性

・共通する意味;外からの刺激を直観的に感じ取り、受けとめる能力。Sensibility

・使い分け:1.「感受性」は、刺激を心に深く受けとめ、深い反応をよび起こす力。繊細な能力で、プラスにもマイナスにも働く、受動的な能力。

2.「感性」は、感覚的に印象をつかみ、感じ取る能力。そのセンスが外に発揮されることもあり、必ずしも受動的なだけの能力ではない。

・反対語:悟性・理性

<コメント> 

2.の「感性」はそうであろうと思う


【岩波 哲学・思想事典】感性・sensibility

一般に知性と対立して、感官・感覚さらには情念のはたらきを概括的にとらえる語。(略)。Sensibilityという言葉は、個々のsense=感官・感覚の総体いう集合名詞的な意味と、senseのはたらきあるいはありようを概括的にとらえる抽象名詞的な意味をあわせもっている。

①感性は、知性の能動性に対比して、古来しばしば受動性と(さまざまな意味での)有限性をその特徴として捉えられてきた。

②反面、それはいわば人間が現実と接する第一の界面として、したがって人間と現実とのかかわりにおいて決定的な重要性をもち、人間の現実感覚やまた認識・認知一般の形成においてしばしば不可欠なもの(ときには唯一の源泉としての)役割を演ずるものとされる。

③近世において、総じて感性の地位が知性的なモメントとの相対的位置関係において上昇し、さまざまな形で重要な役割を演ずるについては、上記②の味方の徹底にとどまらず、それと並んで、人間の<現実>とのかかわりにおける感性・知性の付置の根本的な転換・再編成の力動がその背後に存したと考えられる。

・以降の記述 〔カントの感性論〕:(略)、〔歴史的展望〕:(略)。

<コメント> 

知性・悟性・理性・感性の定義や相互関係はそれを取り上げる人(哲学者など)によって実にさまざまである。プロではない私たちは、ぐらつかない程度に自分なりに定義や相互関係を規定しておけばよろしいと思う。

①の「知性は能動性であり、感性は受動性であって有限的」との意味がわからない。古来とは古代や中世からの時代を言うのか。その時代のパラダイムに浸かったことのない現代に私たちには現代のパラダイムからの視点からしか理解し得ないのは当然ではある。例えば、科学哲学史のT.クーンはその時代の人になりきってその時代のパラダイムを体感しなければ、その時代の人物の行動を理解できないと言っている。

②と③の意味は、「外なる自然」のさまざまな事象を取り入れることの重要性が認識されて、感性の地位が向上したと言っている。


【平凡社 世界大百科事典】感性 sensibility

もろもろの感官による感覚的認識能力一般から、ときに感情をも総称する用語として使われる。感覚的認識能力としての感性は、通常、知性、理性、悟性等何らかの意味での知的認識能力に対立するものとして使われ、また感性の語が主として感情の意味に重きをおかれるには、知性と意志とに対立するものとして使われるのが一般的である。

古代ギリシャ以来、感性は受動的なものであり、したがって確実な認識をもたらすことのないものとして、知性や理性に対して低く位置づけられ、感情もまた、とりわけ中世の哲学においては、同じく受動的である故に、理性や善を自由な発現を妨げるものとして低い位置をあたえられるのを常としてきた。しかし、一方で、人間の心の構成を、直感的な感性、間接的推論による認識をこととする理性、高次の直観に関わる知性の三段階で考える行き方がギリシャ以来中世にわたる、とくにプラトン主義の伝統の中にあり、この知性による直観と感性的直観とが直観というかぎりで共通することから、重ね合わされ融合されるとき、ときに感性にたいする高い評価が生じてくる。ルネサンス時代の美的汎神論から、スピノザの能動的感情(action、通常の受動的感情passioに対立)の考え、また近世イギリスの美的道徳的感情の哲学などがその代表例である。

この傾向は、さらに近代科学の登場にともなう認識論の領域での感性の役割を重視する経験論や感覚論の哲学の台頭と合流して、ドイツ、イギリスのロマン派からフランスのスピリチュアリズムに通じる感性の中に知性の根ともなる積極的能動的要素の芽を見る行き方につながっていく。現在では、さらに記号論的構造論的手法を導入して、感性の中に知的なものと同質な論理をさぐる方向が新たな色どりをそえている。

<コメント> 

プロの哲学者はそういうものなのか、わざとわかりにくくしているような文章である。とはいえ、内容的にはとても良く理解できる記述である。

感性を理性の下に位置づける古来からの伝統はヒトの心の中に深くしみ込んでいる。感性は理性と同じくらい重要(さらには理性に先行すると言う意味ではより重要)だとする現在の私たちの感覚とずれだしてきたとの時代の流れを言っているように思う。

その感性の地位が高くなってきた理由は、私たちが自然科学(タイプ1の自然科学、つまり物質科学)によって支援された科学技術文明のパラダイムの中で生きているからである。

第84話 商品の「感性」とは

第84話 商品の「感性」とは


最近になって商品に対して“感性”“感性”と叫ばれる機会が多くなったように思う。これは生活必需品としての商品の時代が終わりに近づき、新たな時代へのシグナルの一つであることは確かである。これまで<商品に感じる感性とは何だろうか>などととじっくり考えることもなかったが、これを機会に「感性」に対するイメージをまとめることにした。


「感性」との言葉

多くの辞書・事典類では(参照:第85話:辞書の感性とは)、感性は理性(さらには知性・悟性)に対する言葉と捉えられている。悟性が知性と何が違うのか調べてもよくわからないので、しばらく悟性は知性と同じと考えておく。そしてさらにデカルトの「方法序説」では理性を知性と同じ意味に使っているのだが、以下では知性は理性と感性を包含した上位の概念であると考えることにする。

つまり知性は理性と感性から構成され、知性=理性+感性 と考えたい。知性を人の知的センスおよびそれによって構築された「知」の世界と理解すれば、理性とは人の論理的センスおよびそれで構築された「知」の世界であり、感性とは感覚的センスおよびそれで構築された「知」の世界と言っても良いのだろう。

調べていくと、感性は過去には理性の下位に存在していた。その背景には自然科学の誕生と発展があるのだが、ここではそれには触れない。現代では、感性は少なくとも理性と対等の立場にあると徐々に理解されるようになってきたようだ。

また現在の一般的認識、つまり常識では、理性は“論理的”に理解できるものであって、感性は“論理的”に理解できないものであり、だから理性よりも下位にあるとの理解があるようだ。論理的というのは、より具体的には演繹的推論と帰納的推論で理解できるという意味であろう。そうすると、CS.パースの言うアブダクションによる推論を理解することは、感性を“論理的”に理解する上で重要となろう。なぜなら創造的営みの最初の暗黙的な仮説はひらめきで生じるのであり、ひらめきはたぶん“感性”という能力の発露であって、それはまさにアブダクションによるものであるからである。

さらに感性とのことばの使われ方には二種類あるようだ。「ソトの世界」をヒト・社会・自然が存在していて五感で感じることのできる現実の世界とし、「ウチの世界」を生命や心で感じる超自然な仮想の世界と考えたときに、「ソトの世界」と「ウチの世界」の二つの世界における「知を理解する手段」に関心の重点を置いた感性と、感性で理解した結果の「知の状態」に関心の重点を置いた感性である。

“感性で理解する”などの表現は前者であり、“感性の世界”などと言う表現は後者であろう。<“感性”を感じる商品とは何だろうか>との命題における“感性”は、「知」を理解する手段に関心の重点を置いた感性であろうから、以下はこれについて考えることにする。なお、理性との言葉の使われ方にも、手段に関心の重点をおく場合と、状態に関心の重点をおく場合の二種類あるように思う。(下図をクリックすると大きくなります)


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感性は“好ましい”のか

「知」を理解する能力に関心の重点を置く立場では、感性は「ソトの世界」と「ウチの世界」の界面に存在している「センサー」のようなものだろう。このようなセンサーによってヒトは関心対象を感じ取り、何らかの価値基準と照らし合わせて対象を評価し、ソトの世界やウチの世界にプラスの“好ましい”とのシグナルや“好ましくない”とのマイナスのシグナルを送ったりするであろう。ときにはプラスでもマイナスでもないシグナルを送ることもあろう。

感性とはそのような双方向で多重的な機能を持っているはずだ。確かに哲学的にはそのようなニュアンスでとらえていいのであろうが、調べてみると「感性」に対応する言葉としての英語の sensibility あるいは sensitivity に対して、英語圏の人々は“急に怒り出す”ような“好ましくない”イメージのみを抱いているようである。

しかし私たち日本人の現実の世間では、「あの人は感性がある」とか、「感性を感じる商品だ」などと使われていて、「感性」と言葉は暗黙的にその人にとって”好ましい”、つまりプラスの価値を表す形容詞のような言葉として使われているように思う。イノベーションとの言葉も同じように、その時代の、大勢の人が、それ以前に比べて、急激に“好ましい”方向に社会が変わったと感じる現象を言っている。「感性」にしろ、イノベーションにしろ、そこには“好ましさ”に関する暗黙の価値基準が存在している。(下図をクリックすると大きくなります)

(このような「感性」に対するプラス・イメージの適切な英語はないようだ。とすると、<“感性”を感じる商品> は英訳するとどうなるのだろう。)


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絶対的な価値基準から見る“好ましい”はあるのか

“好ましい”ということは、対象を感じ取って得たあるシグナルが、ある「価値基準」と比較してプラスの方向にあることを意味している。その「価値基準」には「絶対的な価値基準」と「相対的な価値基準」があるように思う。

「絶対的な価値基準」とは、ヒトが生物種の一つ「人類」として先天的に持っているものであり、2種類ある。一つは生命の遺伝子としての“DNA”に組み込まれた「価値基準」である。 “DNA”に組み込まれた「価値基準」とは、A.H.マズローの第一次的欲求、すなわちヒトが生きるために「闘う」・「逃げる」・「食べる」・「生殖する」のような自己の生理的欲求および自己の安全欲求に関連する「絶対的価値基準」である。

これはヒトがサルと分かれて以来「外なる自然空間」 の中で今日まで700万年にわたって形成されてきた生物として生きるための価値基準であったであろう。「外なる自然」とは五感で感じることのできるリアルな自然であり、「内なる自然」とは心や生命で感じるバーチャルな自然を意味している。心や生命で感じるとは、五感を超えた第六感の超自然の世界である。

もう一つはドーキンスの「利己的な遺伝子」でいう文化の遺伝子としての“ミーム” に組み込まれた「価値基準」でる。 “ミーム”に組み込また「価値基準」とは、人類としての文化や社会倫理、習慣・タブーなどを含んだものである。ヒトの脳が増大し、創造的営みの行為が爆発的に増大した後期旧石器時代以降の約4万年にわたる「内なる自然空間」の中で形成されてきた価値基準であろう。ギリシャの時代から言われている認識上の「真」、倫理上の「善」、審美上の「美」はすべてのヒト に普遍的であるという意味で「絶対的価値基準」に該当しよう。近代社会における教育を受けた現在の普通の自由な市民のほとんどのヒトは絶対的価値としての真・善・美を否定はしないであろう。もちろん、それに該当しないヒトも存在するであろうが。(下図をクリックすると大きくなります)


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このようなDNAやミームに由来する「絶対的な価値基準」はmustであって、「〜すべきである」とか「〜すべきではない」、あるいは「〜であるべきだ」などとしばしば語られるように、演繹的論理で表現される。“好ましい”はあくまでも相対的であって、「絶対的価値基準」から見る“好ましさ”はありえるのだろうか。


相対的な価値基準 

「絶対的価値基準」と違って「相対的な価値基準」とは、個々の「ヒト」が誕生後に後天的に獲得するものである。親や他人、教育や社会からのさまざまな影響や経験によってその人の中で形成されてきた価値基準である。従ってそれは「人」と「時」と「場」の関数となる。「人」とは、個人もあるし、ある単位の集団もあろう。「時」とは時代や時間の要因であり、「場」とはその「人」が存在する環境や社会・集団の要因である。だから「相対的な価値基準」に基づく“好ましい”は、「人」や「時」や「場」が異なれば、“好ましくない”と評価されることは常にある。

その価値基準はDNAやミームに組み込まれた「絶対的価値基準」のようにmust ではなく、基本的にはwant である。だから、個性的であり、多様的である。<“感性”を感じる商品とは何だろうか>における“感性”とは「相対的な価値基準」からくる“好ましさ”ではなかろうか。


「夢・愛・美」

人工情報が飛び交い、空間がそれで満たされるようになった現在の「人工情報空間」においては、ある価値空間を持つ閉鎖的な集団が存在しやすくなる。なぜなら情報が大量に満ちている空間の最大の特徴は、情報の量が多いことではなく情報の選択肢が増えていることであり、特定の価値を持った情報のみを知識として膨大に収集することが極めて容易になるからである。その結果、強固な求心力を持った“個性的”な集団が生まれやすく、かつ成長しやすい。そのような閉鎖的な集団においては、社会全体から見れば普遍性がなく、相対的であるが、しかしその集団の個々のヒトの間では絶対的と見なされている「相対的価値基準」が存在しているようだ。

それが何なのか定かではないが、アウシュビッツ収容所で生き残った人に対する調査結果は大いに参考になると思う。そのような極端な閉鎖的空間にいた人々は「夢」・「愛」・「美」が絶対的価値となっていたとの報告(佐久間章行著「人類の滅亡と文明の崩壊の回避」)である。絶対的価値基準である「真・善・美」の普遍的な「美」と相対的価値基準である「夢・愛・美」の個人的な「美」は言葉では同じ「美」なのであるが、どのように違うのかまだよく理解していない。


“感性”を感じる時とは

あるモノが欲しいと感じた時とは、そのモノに対して心のポテンシャルが高まった状態(活性化状態)にあることは間違いないであろう。“欲しい”との心の状態、つまり願望のモードには「欲求」と「欲望」の二つがあると考えている。「欲求」とは「何をしたいか」が分かっている活性化状態であり、「欲望」とは「何をしたいか」分からないが「何かしたい」との活性化状態である。「欲求」の行為とは仮説検証のプロセスであり、「欲望」の行為とはさらなる仮説形成のプロセスである。

前者の場合、そのモノを手に入れれば、つまりその仮説が検証されれば、心のポテンシャルは基底状態に戻る。つまり満足する。しかし後者の場合は例えそのモノを手に入れても、それが自分の求めていたモノかどうかは自分でもよくわからないのであるから、さらなる“本モノ”を求めようとする。心のポテンシャルは活性化された状態にあり、さらなる旅が始まる。

あるモノに“感性”を感じた時にも同じような二つの場面があるようだ。自分の“感性”に合うモノを探し求めていてそれに出会った場面と、思いがけずにそのモノに出会って、そこから予想もしなかったしなかった新たな“感性”を感じ取った場面の違いである。前者は仮説検証のプロセスであり、後者は仮説形成のプロセスである。いずれも自分にとって何が絶対的なモノであるのかを求める一連のプロセス、つまりパースの『創造のプロセス』(下図)そのものである。(下図をクリックすると大きくなります)


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付け加えるならば、「知識」は下図のように分類されると思っているのだが、仮説検証のプロセスでは「知識」のうち、思い出すことのできる「意識知」が主体となって帰納的推論によりプロセスは展開されるが、仮説形成のプロセスは「無意識知」のうち、心や意識が活性化されることによって思い出される「臨界知」が主体となって、アブダクションによりプロセスが展開される。(下図をクリックすると大きくなります)


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とりあえずのまとめ

「感性のある人だ」とか「感性を感じる商品」と言うのは、煎じ詰めれば最終的に「夢」・「愛」・「美」にたどり着くような“好ましさ”を感じたからに違いない。「地球環境にやさしい」のも、「少子高齢化社会にやさしい」のも、「フィーリングをくすぐる」のも、すべてがその個人の「夢」・「愛」・「美」に還元されるかもしれない。もちろんその他の象徴的な適切なキーワードがあるのかもしれないが、少なくとも「夢」・「愛」・「美」を参考にしてもよいのではないかと思う。

「感性」や「価値」などに関する話題は自然科学ではなく人文社会科学領域の話である。人文社会科学の世界では自然科学の世界と違って頂上に向かって数多くの登り口がある。どの登り口でも基本的には頂上に達する。間違っていたら途中でより“好ましい”道に代えてもかまわない。重要なのは、最適な登り口を探してさまよい歩くよりは、まずは“適当”な登り口から登り始めることだと思う。それによって「感性」の理解に少しは近づいていくと思う。 


次回は、辞書などにおいて一般的に言われている「感性」についてまとめておきたいと思う。


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