【これまでの話の一覧】

【これまでの話の一覧】

 

【話の探し方】 下記の特定の話を探すには、話のタイトル (例えば「 第32話:吾が愛しのF104 」など) をコピーし、Googleなどの検索欄にペーストして検索にかければ出てきます。

第101話:マイ・ウォッチ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2020.10.22

第100話:バッカス礼賛 ー酒が人を創るときー  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2020.10.3

第99話:スピットファイヤに会えた!  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2020.10.3.

第98話:「方丈雑記」 心筋梗塞入院記  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2020.2.20

第97話:我が家の最初のクルマ v.1 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2020.1.3

第96話:「小田原宿」の前に「をたわら宿」があったのか v.1 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2019.6.2.

第95話:白内障の話 その2 モネと白内障 v3.0・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2017.6.28
第94話:白内障の話 その1 私と白内障 v.3.0 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2017.6.27

第93話:私のチェルノブイリ、そしてフクシマ  その2・・・・・・・・・・・・・2016.9.2
第92話:私のチェルノブイリ、そしてフクシマ  その1・・・・・・・・・・・・・2016.9.1

第91話:「黒い雨」の話・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2016.8.6
第90話:生きていた!・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2016.3.14
第89話:本庄季郎さんの「とんぼの実験」の話・・・・・・・・・・・2016.03.08
第88話:右利きの光・左利きの光・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2014.11.28

第87話:久所のむかし話・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2014.10.15
第86話:久所の始まり・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2014.09.20

第85話:「感性」との言葉・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2014.09.18
第84話:商品の「感性」とは・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2014.09.17

第83話:ナマコは海中資源か 海底資源か ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2014.04.05

第82話:超未来の話 その4 超未来までの「対数人類史図」を描く・・・・・・・・・2014.01.03
第81話:超未来の話 その3 近未来までの「対数人類史図」を描く・・・・・・・・・2014.01.02
第80話:超未来の話 その2 超過去からの「対数人類史図」を描く・・・・・・・・・2013.12.29
第79話:超未来の話 その1 今、我々はどこにいるのか・・・・・・・・・・・・・・2013.12.24

第78話:右撚りと左よりの話 その2・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2013.08.11
第77話:右撚りと左よりの話 その1・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2013.08.06

第76話:右舷と左舷の話・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2013.07.28
第75話:“スピットファイア”を見つけた!・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 2013.0.7.03
第74話:ジェット旅客機はなぜ背面飛行したのか?・・・・・・・・・・・・・・・・ 2013.03.15

<絵画が科学と出会った頃>
第73話:絵画が科学と出会った頃 その2・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 2013.03.07
第72話:絵画が科学と出会った頃 その1・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 2013.03.06

第71話:特許の係争は“事件”なのか・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 2013.01.23

<ひらめきの瞬間>
第70話:ひらめきの瞬間 その3.道が開けた!・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 2012.12.19
第69話:ひらめきの瞬間 その2.RPSスクリーンとは・・・・・・・・・・・・・・  2012.11.26
第68話:ひらめきの瞬間 その1.宮之浦川の体験・・・・・・・・・・・・・・・・  2012.11.11

第67話:電車の中で風はどう吹くか・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2012.08.17
第66話:隔世遺伝・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2012.08.17
第65話:投票立会人のお仕事・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・・2012.07.18
第64話:自治会長になったわけ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2012.06.05

<アッという間の1年とは>
第63話:アッという間の1年とは (10)R子さんからの手紙・・・・・・・・・・・2012.05.29
第62話:アッと言う間の1年とは (9)新たな仮説・・・・・・・・・・・・・・・・2012.05.28
第61話:アッと言う間の1年とは (8)仮説は正しいのか・・・・・・・・・・・・・2012.05.17
第60話:アッと言う間の1年とは (7)初心に戻る・・・・・・・・・・・・・・・・2012.05.14
第59話:アッと言う間の1年とは (6)何が言えるのか・・・・・・・・・・・・・・2012.05.10
第58話:アッと言う間の1年とは (5)答を求める・・・・・・・・・・・・・・・・2012.05.70
第57話:アッと言う間の1年とは (4)仮説を創る・・・・・・・・・・・・・・・・2012.05.01
第56話:アッと言う間の1年とは (3)ヒトは対数で感じ取る・・・・・・・・・・・2012.04.25
第55話:アッと言う間の1年とは (2)思い込み・・・・・・・・・・・・・・・・・2012.04.18
第54話:アッと言う間の1年とは (1)知りたい! ・・・・・・・・・・・・・・・2012.04.15

<何が変わったのか?>
第53話:何が変わったのか?(5)知識のモード ・・・・・・・・・・・・・・・・・2012.03.31
第52話:何が変わったのか?(4)自然科学のモード その2・・・・・・・・・・・・2012.03.26
第51話:何が変わったのか?(4)自然科学のモード その1・・・・・・ ・・・・・2012.03.19
第50話:何が変わったのか?(3)願望のモード ・・・・・・・・・・・・・・・・・2012.03.07
第49話:何が変わったのか?(2)モノ作りのモード ・・・・・・・・・・・・・・・2012.03.40
第48話:何が変わったのか?(1)変化のモード ・・・・・・・・・・・・・・・・・2012.03.01

<光と色と絵の話>
第47話:光と色と絵の話 (15)新たな明かりを求めて ・・・・・・・・・・・・・2012.01.26(改訂2012.7.23)
第46話:光と色と絵の話 (14)「白い光」を定義する ・・・・・・・・・・・・・2012.01.15
第45話:光と色と絵の話 (13)点描画法という革新 ・・・・・・・・・・・・・・2012.2.3(改訂 2012.7.22)
第44話:光と色と絵の話 (12)絵画が科学に出会った ・・・・・・・・・・・・・2012.01.27(改訂 2012.7.20)
第43話:光と色と絵の話 (11)モネの絵が変わった ・・・・・・・・・・・・・・2012.01.25(改訂 2012.7.19)
第42話:光と色と絵の話 (10)色はいろいろある ・・・・・・・・・・・・・・・2012.01.23
第41話:光と色と絵の話 (09)ニュートンは間違っている ・・・・・・・・・・・2012.01.22(改訂 2012.7.20)
第40話:光と色と絵の話 (08)最先端の国オランダ・・・・・・・・・・・・・・・2011.12.14
第39話:光と色と絵の話 (07)フェルメールの「白い光」・・・・・・・・・・・・2011.11.29
第38話 光と色と絵の話 (06)太陽の色々な光・・・・・・・・・・・・・・・・・2011.11.24
第37話:光と色と絵の話 (05)「白い光」が見つかった ・・・・・・・・・・・・2011.11.17
第36話:光と色と絵の話 (04)光と影の画家たち ・・・・・・・・・・・・・・・2011.11.11
第35話:光と色と絵の話 (03)「白い光」の復活 ・・・・・・・・・・・・・・・2011.10.31(改訂2012.7.19)
第34話:光と色と絵の話 (02)“あるがまま”から“神のこころ”へ・・・・・・・2011.10.26
第33話:光と色と絵の話 (01)「白い光」は特別だ・・・・・・・・・・・・・・・2011.10.21

第32話:吾が愛しのF104 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2011.10.06
第31話:創造における人の論理と人の癖・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2011.10.05
第30話:「結び」のすすめ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2011.09.23
第29話:地球温暖化の「二酸化炭素説」はどうも変だ・・・・・・・・・・・・・・・・2011.09.19
第28話:センチメンタル・ジャーニー・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2011.09.16
第27話:放射能災難の中で暮らすには・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2011.08.30
第26話:ものごとの決め方の話・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2011.08.21
第25話:「五箇条の御誓文」は生きている・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2011.08.09
第24話:“ひらめき”へのステップ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2011.08.04

<ネガとポジの話>
第23話:「ネガ」と「ポジ」の話 後編・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2011.07.29
第22話:「ネガ」と「ポジ」の話 前編・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2011.07.29

第21話:異聞「朝三暮四」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2011.07.25
第20話:”アベリン・パラドックス”の話・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・20110.7.17
第19話:バーバリーだけが知っている・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2011.07.16
第18話:反主流派として生きると言うことは・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2011.07.16
第17話:けしからぬハイジャック・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2011.07.12
第16話:ホタルの光は何色かという話・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2011.07.12

<急性肝炎 入院記>
第15話:急性肝炎 入院記(後編)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2011.07.08
第14話:急性肝炎 入院記(前編)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2011.07.08

第13話:「災難」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2011.07.06
第12話:温泉で宇宙を味わう話・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2011.07.05
第11話:組織の中のシンドローム・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2011.07.04
第10話:光はとても大切だという話・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2011.07.03
第09話:笑いの本質・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2011.07.02
第08話:娘に語ったあの夜の話・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2011.07.01

<ビールの泡の話>
第07話:ビールの泡は新幹線の中でどうなるかという話 v.2.0・・・・・・・・・・・2011.06.29
第06話:ビールの泡で宇宙からのメッセージがわかるだろうかという話 v.・・・・・・2011.06.30

第05話:女王陛下の船(HMS)と企業組織の話・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2011.06.29
第04話:アブダクション 創造の発端 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2011.06.28
第03話:電話を待ちながら・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2011.06.28
第02話:平和が一番・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2011.06.28
第01話:誰がイノベーションを殺したの(マザーグースの唄)・・・・・・・・・・・・2011.06.28

第00話:なぜ書く気になったのか・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2011.06.27(2012.9.18)

 

 

 

 

 

第101話 マイ・ウォッチ

第101話 マイ・ウォッチ

 

時計の誕生日を知っているか

自分の腕時計が初めて動き始めた瞬間、つまり誕生日を知っている人も珍しいのではないかと思う。私の場合は10月18日だ。

 過日、実に細かな部品を6時間かけて組み上げ、機械式自動巻時計を作ってきた。これまで愛用してきたソーラー電波腕時計とくらべると、正確さからいえば段違いに悪いし、見目麗しさもそれほどでもないし、しかも重くなった。しかし長い年月にわたって先人たちが築き上げてきたあの「小宇宙」ともいうべき精密なからくり・メカニズムを直接に見て、さらに組み立てている最中に「テンプ」を取り付けて、「アンクル」と「がんぎ車」がうまくはまった途端に鼓動を始めたその感激は他に代えがたい体験となった。我が子と思う “マイ・ウォッチ”が誕生した瞬間だった。

これまで、高級機械式時計マニアたちを端から見ていて、何てばかばかしいこと、時計の本質は正確さだと冷ややかに見ていたのであるが、彼らの気持ちがわかるようになった。「トゥールヴィヨン」構造の意味や意義もわかり、それを装着した超高級時計の価値もわかるようになった。ほしいなとは思うけれども、自分の手で作り上げた我が子とは比べようがない。1_20201022172601

ブランド名は“GISHODO”(儀象堂)である。「儀象堂」というのは下諏訪町にある時計ミュージアムの名前であり、そこには北宋時代に作られた水時計「水運儀象台」が当時の設計図を元に再現されていて、実際に毎日動いている。世界で唯一のものだという。「儀象堂」とはその水時計にちなんで名づけられていて、作った時計は儀象堂とセイコーエプソンがコラボレートした作品ということになっている。ちなみにムーブメント自体はセイコーエプソン社の子会社となったオリエント時計製である。

「東洋のスイス」:時計の名産地

 なぜこんなことになったかというと、2ヶ月ほど前に間に気まぐれに富士川の河口にある静岡県埋蔵文化センターに寄ったときに、「星ヶ塔遺跡発見100周年記念シンポジウム」開催を予告するポスターをたまたま見つけたことに始まる。旧石器時代から弥生時代にかけてヒトが生きていく上では必須の刃物の原料であった黒曜石遺跡の発見話だ。長野県の下諏訪から和田峠にかけての地域は北海道の白滝、伊豆の神津島とならぶ黒曜石の日本の三大産地の一つである。黒曜石に関しては関心が深い方なので、さっそく主催者である下諏訪町教育委員会に電話したのだが、新コロナウィルス騒ぎの最中であったために、担当者は予定通り開催しますとは、はっきりは言わない。その代わりに「しもすわ今昔館 おいでや」には黒曜石に関するミュージアムがあると言う。調べたら、たしかに「星ヶ塔ミュージアム 矢の根や」との黒曜石ミュージアムがあった。

またそこには「儀象堂」という時計ミュージアムもあって、時計の組み立て実習もしていることも初めて知った。そう言えば諏訪湖周辺の地域は、昔は「東洋のスイス」などと自称していたほど地場産業として時計製造は有名であった。さっそくもっとも難度の高い6時間コースを申し込んだ。そして、2ヶ月後の10月に組み立て体験をすることになった。組み立て実習の前日は、GoToキャンペーンに便乗してふだんなら決して泊まらないような上諏訪温泉の和風旅館に泊まり、集合時間の朝九時に間に合わせることができた。組み立て終了も夕方になってしまうので、当日もまた奮発して蓼科のリゾートホテルに泊まることになった。

 

組み立て開始:細かくて参った

朝9時、スリッパに履き替え、白衣を着て組立室にはいる。マンツーマンの組み立て指導は2年前まで機械式時計の製造組立をやっていたというベテラン先生である。実際の時計の組立は無塵室状態で組み立てていると先生は言うのだが、今回はコロナ騒ぎのために、窓を開け外の風を入れている。大丈夫かな?と思うけれど、仕方がない。まずは工具の説明やら機構の説明やらをしてくれる。そうだったのかと気付かされる話も多々あった。4つの箱に入ったパーツは驚くほど小さい。部品とその組み立て手順は下記の通りだが、あらかじめ調整して検定する必要のある「香箱車」(こうばこくるま)や「テンプ・アンクル」などは組み立てられた1個のユニットになっている。それでも、とても小さい。

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組立のために、目にはめ込んで使う拡大鏡や実体顕微鏡も用意されているのだが、初心者には拡大鏡の下で作業するのは要領を得なくて、自由にピンセットや時計ドライバーを操ることができず、とてもぎこちない。直接に目で見てやった方がやりやすい。しかし細かすぎる。

 歯車などの心棒は見たところ太さ0.2mm以下だろうなと思うほどの極細である。上から見るとピンセットの先が心棒を入れる細い穴をふさいでしまい、肝心なところが見えない。と言って真横から差し込もうとしても、遠近がとてもわかりにくくなってしまい穴に差し込めない。やっと穴に心棒を差し込んだあと小さな歯車をピンセットで上から押し込む。うまくいったかと、先生に診てもらったら心棒が折れているという。代わりの部品を使ってもらって助かった。長さが0.5mmほどしかないネジもある。細いピンセットでつかんでもピンセットに隠れてネジがどこにあるのか見えないのだ。つかみ方が悪くて勢いよく外れて机の上から飛び出し、床の上に落ちてしまった。先生も一緒に這いつくばって目を皿のようにして探す。ふだんならとっくにあきらめるのだが、先生は見つけ出した。さすがであった。

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何といっても腕時計の心臓部は「テンプ・アンクル・がんぎ車」のシステムである。この部分で時計の精度が決まる。これまでに至るには長い歴史がある。「テンプ」はあのオランダの科学者「クリスチャン・ホイヘンス」が1675年に発明したという。彼は光の粒子説と波動説でニュートンと争った光の科学者である(参考:第37話 光と色と絵の話(5)白い光が見つかった)。「がんぎ車」と「アンクル」との画期的な組み合わせはイギリスのジョージ・グラハムが1715年に発明したそうだが、時計の歴史はなかなか複雑で実に多くの人たちが関わりあっている。その凝縮した心臓部が目の前にあった。

ここまでに香箱車・2番車・3番車・4番車、それにがんぎ車も取り付けられている。竜頭も取り付けてあって、香箱車の中のゼンマイは巻き上げられている。あとはアンクルが付けられているテンプのモジュールをセットするだけだ。そのテンプの太い部分をピンセットでつかむのだが、アンクルがブラブラと動き、止まらない。「まあ、ままよ」と見当を付けてテンプ軸受けにセットする。と、その瞬間にテンプが往復運動をし始めたのではないか。「あ、あッ」声を出したと思う。まさに心臓の動きにそっくり。生を受けた瞬間に思えた。感激である。

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組み立て途中で、測定器にかけて時計の向きをいろいろと変えた状態で精度のチェックをする。一日15秒程度狂うのは許容範囲である。最後はサファイアガラスが付いたケースに入れ、クリスタルガラスの裏蓋を特殊な工具で締め付ける。本来は防水検査をするらしいのだが、その道具がないので検査なし。竜頭の軸にも裏蓋にもちゃんとゴムのOリングが入っていたから、まあいいか。防水は心配なので、手を洗うときは外そうと思う。手がかかるヤツだが仕方がない。最後の最後になって金属ベルトを取り付けて、お終い。先生からは第R2-18号と書かれた修了証書をありがたく頂いた。令和二年の18人目の修了者らしい。時計が動かなくなったら、連絡して下さいという。自分で組み立てたので、あやしいところはたくさん自覚している。動かなくなってしまうことも大ありだ。安心した。

 

出来の悪い子供はカワユイ

「出来の悪い子供ほどかわいい」とはよく言ったものだ。一日15秒ほどの狂いは覚悟するようになった。これまでのところ、1分狂うには2週間ほどかかりそうだ。季節の暑さ寒さによっても変わってくるだろうし、持ち方によっても変わってくるのだろう。面倒を見てあげる必要がある。遅れるのではなく進むようにしているらしいので、待ち合わせ時間に間に合わなかったという言い訳には使えない。

 それにしても狂うことを承知で使う時計とは、なんと人間的であろうか。一月経ったら何分進んでいるのだろう。楽しみである。 まったく手間がかからないソーラー電波腕時計はかわゆくない「モノ」になってしまった。

2020年10月 3日 (土)

第100話 バッカス礼賛 ー酒が人を創るときー

第100話 バッカス礼賛 ー酒が人を創るときー

 

その頃は柳原良平さんが描く「トリスを飲んでHawaiiに行こう!」の時代だった。

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あるとき大学の中を久しぶりに歩いていたら、「カクテル教室 授業料100円 飲み放題」と書かれたポスターを電信柱で見つけた。教育学部や法学部の昼間の空き教室を使って開催するとの大学生協の案内であった。「100円で飲み放題」に惹かれて、さっそく申し込んだ。注意していると2回目のポスターがまた貼ってあった。また申し込んだ。結局3回行われた。3回目の「カクテル教室」の終わり頃になってバーテンダー先生が「私の店に来ないか」と言い出した。ただ一人の皆勤賞だったのである。

その店は名古屋の繁華街にある大きなビルの地下にあり、「サントリーバー本店」と言った。寿屋(現サントリー)直営のサントリーバーは名古屋のこの店と東京の新橋にある店だけと、あとで聞いた。変わった店だった。表通りから階段を降りて重い木のドアを開けると、分厚い木の長いカウンターがあり、多くの客が止まり木に並んで飲んでいた。大きな店ではなかったのだが、カウンターの向こうにはいつもバーテンダーが少なくとも3人はいた。

開店は夕方の5時。夜9時になったらもう閉める。原則として女性は店に入れない。気に入らない客は追い出す。「お前は学生だから金は要らない。稼ぐようになったら払えばいい」などと言われ、ヨット部合宿の帰りとか、座って本を読むだけでもせっせと通った。お酒の飲み方、お酒のウンチクも教えてもらった。となりのお客はすべて人生のベテランに見える紳士たちばかりであった。若いお客はおらず、セイルバッグを担いだ乞食スタイルの学生でこの店に入り浸っていたのは、なぜか気が合った同じヨット部仲間の篠田和俊君の二人だけだった。

ハイボールなどを勝手に飲ませてもらっていると、カウンターの向こうのチーフバーテンダーの森由泰造さんも話に加わり、隣に座ったお客と議論し、笑い、そしていろいろなことを知った。年に一度は馴染みのお客が集まり、寿屋の山崎工場などへの飲んだくれのバス旅行や、おいしい料理とお酒が出てくる海辺のキャンプなどをして楽しんだ。顔は覚えていても、しかしその人の名前や年齢、職業などは知らなくてもいい世界だった。あとから思うと地元のそうそうたる人たちがいたことは確かである。

 チーフバーテンダーの森由泰造さんとの出会いから始まって30年近くの間に生まれた飲み仲間の人たちとのつながりは、思いがけないやり方であちらこちらで芽を出した。たとえば世界初の放射線画像解析システム「バイオイメージ・アナライザー」を開発し、おそるおそる国際展示会「バイオフェア」に出展したときのことである。基礎生物学研究所の江口教授が我々のブースに来て下さったとの連絡が入った。バイオサイエンス分野で世界的に著名なあの大先生がこのシステムに注目して下さったかといたく感激した。しかしよくよく話を聞いてみると、その先生は「ゴローちゃん」と呼んでいた止まり木仲間の江口吾郎先生であって、私の消息を森由さんから聞いて、わざわざ訪ねてきて下さったのであった。

 

その森由さんの店は場所も移り、また名前も「酒肆 蘭燈」(しゅし らんたん)と変わった。しかし雰囲気は昔のままだ。それを味わいたくて出張の帰りに立ち寄り、あわただしく飲んで最終の新幹線に飛び乗って帰る。時には最終便に乗り遅れ、また戻って再会を祝し、乾杯をしたりする。そんなこともたびたびだった。

今や日本バーテンダー協会の重鎮となり、若いバーテンダーを育て、ある大学の何とか講座の講師をもしている森由さんは「名古屋の夜の帝王」と呼ばれているらしい。彼は私に、ヒトの現実の世界には、論理が支配しがちな「昼間の世界」の他に、情緒だとか信頼感とか人間くさい非論理的なコトが支配している「夜の世界」が別にあるよと教えてくれた人生の恩人であると心ひそかに感謝している。

 

酒肆「蘭燈」店主 森由泰造さんの言葉

筆無精な私などにまたしても厄介なことを言う人である。一口に彼は夢多い人で中途半端ではない。それでいてロマンチックで美食家でもある。人の退職金を当て込んでヨットで世界一周も考えているとか。飲めば世界も小さくなってくる。きっと会社での仕事も遊び心から楽しんでやっているのではなかろうか。そんな彼が来るとなれば、小さい飲み屋も活気づくから面白い。

 

愛知県庁役人 篠田和俊君のことば

彼のイメージとしては、「取り憑く」というという言葉が浮かびますね。名古屋時代飲み屋通いの頃、バーテンダーの森由に彼が取り憑き、以来20数年彼は森由に迷惑を掛けっぱなし。たとえば「常滑のヨットハーバーで泊まる。送ってくれ」との一言で往復60kmを深夜に送る羽目になり、代金はもちろん森由持ち。私たちにとってはそう言う人物ですが、彼が来るとなると迷惑のようなうれしいような気持ちでその夜を待っています。

 

本人のことば

これほどまでに周囲に迷惑を掛けていたのかと恐縮しています。また年月はごらんのように店主と役人に期待ほどの髪を残してくれず、これが新たな対立を生むのではないかと心を痛めております。

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以上の話は今から30年ほど前に依頼されて書いた社内報の「社外交遊録」コラムの記事である。話に出てくる3人はすでに鬼籍に入ってしまった。そうではあるのだが、ご無沙汰しているだけであって行けばいつでも会えると思っている自分がいる。江戸時代の平田篤胤(あつたね)は「死者は黄泉の国へ行ってしまうではなく、目に見える生者の世界のすぐとなりに目に見えない死者霊魂の世界があり、この世界は生者だけのものではなく、死者の世界でもある」と言っているそうだ。たしかに、うつつの世界では会えないと頭ではわかっていても、しかし亡くなった方は消え去ったのではなく、すぐとなりにいるような感じがするのだ。年齢を重ねて生きると言うことは、そういうことを身体で感じることなのかもしれない。

 

その後の話を書いておこう。

バーテンダーの森由泰造さんは、

越前にある古いお寺の息子と聞いたことがある。互いに家族同士の付き合いをしたり、日本バーテンダー協会の総会パーティに連れて行ってもらったり、出張先の知らない町で泊まるときなどは長距離電話を掛けてその町のバーを紹介してもらったりした仲なのだが、生まれた年も知らないし、なぜバーテンダーになったのかなどとの余計なことも聞かなかった。2015年6月に病気で亡くなったのだが、今なお彼の名前がネットに登場している。会いに行こうかなと思えるので不思議である。酒肆「蘭燈」の店主は幼かった息子の元(つかさ)君が立派に成長して、継いでくれた。

 

愛知県庁役人の篠田和俊君は、

800年続く神社の神主の息子であった。話を聞くと、奥州平泉で源頼朝軍と戦っていた義経を助けようと紀州から馳せ参じていたご先祖が、挙母の地に至って義経の死を知り、そこに居ついて神社を建てたという。だが彼は神主にならずに県の役人になった。そして広大な敷地の中の立派な愛知県立陶磁美術館館長を最後に引退した。陶磁器に造詣が深かった彼も本望だったに違いない。その後、難病にかかり長い闘病生活のあと2020年5月に亡くなった。頭は最後まで冴えていたのに、身体が言うことを聞かなくなっていた。

 

発生生物学の世界的権威だった江口吾郎先生は、

基礎生物学研究所から熊本大学学長に招聘されて、その地で奥様と一緒に実に楽しくお暮らしになったようだ。熊本を訪問した時に酒席を持って、“あの頃”を話題に久しぶりに酒を酌み交わしたことを懐かしく思い出す。奥様は2007年に熊本で、「ゴローちゃん」は2019年4月に名古屋の自宅で亡くなられた。

第99話 スピットファイヤに会えた!

 
第99話 スピットファイヤに会えた!

イギリスの空には今でもイギリス人が誇りにしている第2次大戦中の戦闘機スピットファイアの実物が何機も飛んでいる。スピットファイアの操縦を習う航空学校もあるほどだ。その中の “シルバー・スピットファイア”と愛称される一機が、2019年に世界一周する計画があり、秋に日本にもやってくると友人から連絡が入った。茨城県の龍ケ崎飛行場に何日間か駐機するらしいこともわかった。会えるチャンスはその時だ。龍ケ崎飛行場に行って面会できる場所にアクセスするにはどうするか、計画を妄想するようになった。

実は2018年の年末にフランスのツールーズ近くの南仏の村の教会で行われた親戚の娘の結婚式に出席した時に、フランス航空産業の中心都市でもあるツールーズの航空博物館に寄ってきた。フランス自慢のコンコルドの展示は当然だとしても、イギリス空軍を代表する戦闘機スピットファイアも必ずあるはずと思い込んでいた。市内電車を乗り継いで苦労してたどり着いた航空博物館には、敵国ドイツ空軍の戦闘機メッサーシュミットBf109の実物は展示されていたのだが、イギリス空軍のスピットファイアの実物展示は無く、小さな模型がガラス箱の中に置いてあっただけだった。仕方なくミュージアムショップでスピットファイヤが描かれているTシャツを見つけ出し買ってきた。その、あこがれのスピットファイアの本物の方から日本にやって来るのだ。

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スピットファイアは基本的には第2次大戦中のBattle of Britainに特化された局地戦闘機である。英仏海峡の上空でドイツ空軍機を迎え討てばいい。だから同世代ではあるけれども、支援戦闘機である日本のゼロ戦よりも航続距離が極端に短い。余裕を見れば600km程度だろう。従って世界一周飛行でもあちこち短い距離を飛んで着陸してまた飛ぶという行程を繰り返し、天候が悪化すると天候待ちをする。日本に来る日は9月になるのだろうが、いつになるのかは、その時になってみないとわからない。

 2019年8月5日にイギリスのChichesterのGoodwood空港を出発してからは、世界一周プロジェクトのホームページを開いて、今日はどこに行っているのか追い掛ける日々が続いた。日本の9月は台風シーズンである。案の定、台風が次から次へとやって来る。9月7日にアラスカからベーリング海峡を越えてシベリアに渡ったスピットファイアは、そのあと動けなくなった。

 関東地方に上陸した中では史上最強という台風15号が9月9日にやって来た。そのあともすぐに16号、17号と続いた。“シルバー・スピットファイア”はずっと極東ロシアに止まったままであったが、台風18号が沖縄に近づいた9月21日になってやっとユジノサハリンスクから新千歳空港経由で予定になかった花巻空港に飛んできた。が、そこでまた動かなくなった。「まだ花巻にいる」というネット情報が流れる日が続いた。支援機のピラタス12はすぐに仙台空港に移動したのだが、スピットファイアだけは花巻空港に結局20日間も駐機していた。日本のオタクたちやモノ好きは待ちきれずに花巻空港の垣根越しに遠くから写真を撮りに行ったらしい。ネットにその写真がアップロードされるようになった。

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上の写真は晴れた日の花巻空港のエプロンに駐機していたところに夕立が降ったようで、撮影者は気がつかなかったと思うが、コンクリートの上にスピットファイヤの独特の楕円の主翼の形が濡れないまま白く(つまりネガ像として)残っている瞬間を撮っためずらしい写真である。この場合は雨粒が画像形成を担っていたことになる。もしもエプロンが雨で全面濡れたところにスピットファイアが駐機していて、そのあと晴れて太陽の光が強烈に当たると、今度は逆に太陽光が当たったところは乾いて白くなり、主翼の影になったところはエプロンの上に濡れた状態で残って黒く(つまりポジ像として)見える瞬間があるはずだ。この場合は太陽光が画像形成を担っていということになる。このような自然の中にある画像形成のおもしろい現象は注意していると観察されるものだが(参考:第22、23話「ネガとポジの話」)、興味を持つのは私だけなのかもしれない。

 

 花巻空港に20日間も駐機している間に予定が急遽変更され、龍ケ崎飛行場には寄らず名古屋空港に飛び、「あいち航空ミュージアム」で “シルバー・スピットファイア”が一般公開されることになった。しかし花巻空港から名古屋空港に移った直後の10月12日には巨大台風19号が伊豆半島に上陸して東日本に大雨・洪水の大被害を及ぼした。新聞・テレビは台風被害の番組ばかりを報道していた。翌日の13日は台風一過の快晴になり、名古屋に行こうとJRの駅に行ったのだが、新幹線は動いていない。しかし翌日14日の朝一番の新幹線指定券は買えた。

 スピットファイアーに会える日は、大人げないとは思ったのだが、歓迎の意を表そうとツールーズの航空博物館で手に入れたスピットファイヤTシャツをこっそりと中に着て出かけることにした。名古屋駅前のバス停から乗って「あいち航空ミュージアム」バス停で降りたところ、人の行列が道路から階段を上ってミュージアム入口まで延々と100m以上は続いている。わざわざスピットファイアを見に来るオタクは少ないと思っていたのだが、これには驚いた。チケット売り場まで30分はたっぷりかかったと思う。入ったところが2階で、スピットファイアと随伴機の“ピラタス12”が見下ろせた。やっと会えた。

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今回の世界一周には2人のパイロットが選ばれている。はっきりとわからなかったのだが、操縦席はタンデムの複座になっていて交代で操縦していたのかもしれない。改造したのか、もともと練習機タイプだったのかわからなかった。スピットファイアは第二次大戦の主要戦闘機にもかかわらず翼の一部はなお羽布張りであったことを知っていたので、機体のまわりを見て回った。たしかに垂直尾翼と水平尾翼の後縁部分にある方向舵とそのタブは羽布張りであった。世界一周の飛行で一緒に飛んできた支援機“ピラタスPC12”の写真も載せておこう。ピラタス社はスイスの小さな航空会社で、アメリカのセスナ社を抑えて世界の単発ターボプロップ機市場をほぼ独占している立派な会社である。

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最終的に、この世界一周飛行は2019年8月5日イギリスのChichesterのGoodwood空港を出発し、西回りで地球を一周し、10月5日に出発地に戻るという飛行になった。寄港地を追ってまとめると次のような表になる。母国英国を含めて、22カ国・70空港・119日もかかっている。アラスカを除いてヒコーキ王国のアメリカにはさすがに16空港も着陸し、滞在日数も17日だ。日本では名古屋空港の“シルバー・スピットファイア”の一般公開のあと、鹿児島空港、那覇空港と飛び、台湾の台中空港に飛ぶ10月23日まで5空港で32日間も滞在したことになる。最も長期間滞在した国となった。

それだけで何となくうれしいのは、スピットファイア・オタクの証なのかもしれない。

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2020年2月20日 (木)

第98話:「方丈雑記」 心筋梗塞入院記 v.2(一部修正)

第98話:「方丈雑記」 心筋梗塞入院記 

 

8年も前の『方丈雑記』と書かれた心筋梗塞で入院した時のメモが出て来た。2回の手術を行った15日間の最初の入院と、10ヶ月後の術後検査のための3日間の入院である。この手術以降は死ぬまで毎日5種類もの薬を飲み続けることになった。ある意味では人生の変曲点の一つであろうと思うので、あらためて記録として残そうと思う。

 

あとから思うと何だか変だった

年齢と共に知らない間に多様な変化が体内で起こっていて、その些細な異常の組み合わせによって正常な健康状態から次第に外れていき、ある「しきい値」で突然に顕在化する。心筋梗塞という病は誰にでもできるコレステロールという垢が何かの拍子にはがれて血管の中を流れていき、たまたま心臓の冠動脈に詰まることが原因である。血管が詰まってしまうと心臓の筋肉が壊死し突然死する。若くして亡くなった父親のように、脳血管が詰まったのではなくてよかった。家族や親戚筋で心臓病で死んだ者はいないし、健康診断の数値はいつも正常だったし、はっきりと自覚するような症状が現れていたわけでもない。それでも思い出すと予兆のような現象があったことは確かである。そう、あとから考えると、だ。

2012年10月のある日、電車に乗って郵便局の本局に行き、お堀端を歩いて久しぶりに海を見に行った。台風のうねりが大きく、砂浜から沖に伸びている突堤には大きな波しぶきがかかり先端まで行けなかったことを覚えている。この時に胸に変な感じがしたことはたしかだ。

2日後の夜、連合自治会の打ち合わせに近所の市役所支所まで自転車で行った時も、その前日と同じような変な感じがした。痛いというのではなく、圧迫されているというのでもなく、詰まったという感じでもなく、引っかかるというのか、とにかく何か変だった。

そして次の日、朝、近所の家に回覧物を届けて戻って来たときに、前日と同じ兆候が現れて、なぜか玄関先で座りたくなった。こんなことは今までに無かった。しばらく座っていて、すぐにふだんとまったく変わらない状態に戻ったのであるが、やはりこれは何かおかしいと思い、かかりつけのO先生に診てもらう気になった。自分から医者に診てもらう気になることはまずないことだ。家内からは一緒に行こうかと言われたのだが、大丈夫だからと一人でクルマに乗って出かけた。

 

いつもの先生に診てもらう

私よりも一歳年上のO先生の医院には一通りの設備が整っている。私も開発に関わりあったことがあるドライケム(FDC)というすぐにその場で結果が出る乾式生化学分析装置もある。その血液検査に加えて、心電図、胸のレントゲン写真、問診と一通りの検査をした。先生が言うにはCPKが500位でちょっと高く、また心電図波形がちょっと気になるとおっしゃった。CPKとは何かの酵素のことであろうとは思ったが、それが何を意味するのかさっぱりわからなかった。

あとで調べて見ると、CPK、つまりクレアチン・フォスフォ・キナーゼとは、心臓をはじめ骨格筋、平滑筋など筋肉の中にある酵素で、これらの細胞に異常があると、CPKが血液中に流れ出すため、高い数値を示す。男性の場合、1リットルの血液のなかに40~250単位、女性の場合30~200単位が基準とのこと。基準値より高い場合、急性心筋梗塞、心筋炎、進行性筋ジストロフィー、萎縮性筋硬直症、多発性筋炎、甲状腺機能低下症、悪性腫瘍などが疑われるのだそうだ。

先生は「特に気にすることはないよ、でも病院でもう少し詳しく検査してもらうように紹介状を書くから行くかい」と聞いてきた。断るわけにはいかない。紹介先は神奈川県西部の拠点病院である近くの県立足柄上病院である。病院の診察カードをとりに家に戻ろうとしたが、先生は「病院に電話しておいたからすぐ行け」という。その日は土曜日であって、循環器系の当直医がいないかもしれないが総合内科医はいるとのこと。家に電話してそのままクルマで病院に向かった。

 

あれよあれよと言う間もなく緊急手術が始まった

先生からは病院の正面玄関ではなく脇の夜間入口から入るようにと言われていた。受付に行って名前を告げて待っていたら、テレビドラマの緊急入院シーンでよく出て来る移動式ベッドと共に何人かの看護士さん達が急いでやって来た。何か事故でもあったのかなと思っていたら私のところで止まり、名前を確認してから「乗って下さい」という。わけがわからないままに医者や看護士がずらりと待機している手術室に連れていかれた。寝たままでいいからと言われ、何人かに抱かれて隣の手術台の上に移され、ベッドの上で衣服をぬがされて丸裸にされ、手術着を着せられ、おちんちんにホースをはめられた。手術が長時間かかることもあるので、オシッコを自動的に排出するためとわかったのはずっと後のことである。

総合内科医という若い医者がいろいろ質問してきた。そのうちに循環器の先生がその日はたまたまいたらしく、若い医者は「安心した。すぐ手術です」という。彼だけだったらどうしたのだろう。手術の担当となった循環器の医者は持ってきた手術同意書と朱肉を見せて、「奥さんに電話して了解を取り付けた。はんこは持って来ていないだろうから拇印を押せ」と言とう。手術が直ちに始まろうとしていた。検査もなく、まったくあれよあれよという間もなかった。「ちょっと待ってくれ、俺だって都合があるんだ」(実際にはもっとていねいに)と医者に言ったのだが、彼はまったく意に介さず、「命とどちらが大切か」などと脅す。「それなら心臓の血管が詰まっている証拠を見せろ」と言いかけたが、ぐっとこらえた。浮き世に未練を残してやって来る患者はたくさんいるのであろう、若い医者の受け答えは慣れたものだった。仕方なしに拇印を押した。

 

目の前のモニターで手術を楽しむ

そのような状況の中で手術が始まった。私の好きな手塚治虫の漫画「ブラックジャック」のように心臓をメスで切り刻まれるのかと身構えたけれど、細くなった血管に“ステント”を入れて膨らませる手術のようだったのでひと安心した。あとでわかったのであるが、ステントとは網目構造をした金属製のパイプであり、編み目構造体そのもののステントと、生体反応を制御するための薬剤処置をした表面層を含む複合構造のステントとの2種類あるようだ。後者の方が新しいのだが、それぞれ利害得失があるらしく、私の場合は、担当医は最初の手術では前者を、二度目の手術の時は後者のタイプを使った。危険を分散させたかったのか、実験したかったのか、なぜ使い分けたのかわからない。

手術は、X線吸収の大きなヨードの入った造影剤を血管に注射し、X線照射しながら心臓と血管に挿入したカテーテルの動きと位置とをモニターテレビで観察しながら行う。血管造影撮影画像、つまりアンギオグラフィ画像については、放射線デジタル医療画像診断システム開発をした時に放射線医たちとの共同研究をしていたことがあるので見慣れた画像である。知識としてはあったのだが体験するのは初めてであり、自分の実物のアンギオグラフィ画像を見ることのできる実に貴重な機会である。興味が湧いてきた。目の前にあるモニターディスプレイをじっくりと観察してやろうと手術が始まるのを待った。

そのうちに右手首に麻酔を注射され、動脈を切ってカテーテルが挿入され、造影剤が注入され、アンギオグラフィによる透視が始まった。そばで何やらごちゃごちゃと医者達はやっていることはわかった。局部麻酔なので頭はさえているし、冠動脈の血管造影で心臓がぴくぴく動いている様子が目の前のディスプレイではっきりと見える。「ナイス!」、「バッチリ!」などとの若い医者同士の話は聞こえるし、「ニトログリセリン4cc!」などと言っている話も聞こえてくる。「なに? あの爆薬のニトログリセリン? まさか」と言い聞かせる。自分の手術ではなく他人事のように思えてきて、なかなかおもしろくなってきた。最初の麻酔用の針を刺した時以外は、痛いとか苦しいとかとの感じはなかった。ニトログリセリンが注入されたときは手首から始まって身体全体が急に冷たくなってぎょっとした。あとから知ったことなのだが、ニトログリセリンは冷蔵庫に入れる冷暗保存なので、冷たいまま体内注入されたから冷たく感じたのであろう。

時々「頭を右にして息を吸って止めて下さい」などといわれる。大きな大角か半切サイズの分解能の高い静止画像を撮っていたのだろう。モニターが見えないので、何を撮影していたのかわからない。この時は『イメージング・プレート』で撮影したはずだ。自分が開発に関わった放射線デジタル画像診断システムを使ってもらえるのはうれしいことだ。あとから知ったのであるが、撮影条件は管電圧70〜81kv・電流値430〜910mA・撮影速度6.3msとあった。つまり心臓の動きを止めるのに撮影時間は1000分の6.3秒だった。

 

写真で見るとよくわかる

手術のプロセスは、簡単にいえば、手首の血管からカテーテルを入れて、アンギオグラフィを見ながら目的とする心臓の冠動脈の患部まで、いくつもある血管の分岐を間違えずに細いカテーテルを導き、バルーンを膨らませることによってステントを広げ、そのあとバルーンはしぼませて引き抜いてステントだけを置いておく処置である。若い医者たちの「ナイス!」などと聞こえてくる会話は間違いなくステントが患部にうまく届いた時であろう。気持ちはよくはわかる。大した技術である。

第2回目の手術のあとで、担当医から第1回目の手術の経緯のアンギオグラフィ写真を見せてもらった。心筋梗塞のステント処置は正式な医学用語では「経皮経管的冠動脈形成手術」と言うらしい。この写真は動画のシーンをプリントしたので画像の質はよくないのだが、手術の状況はよく分かる。最初の写真では私の冠動脈の一つがとても細くなっていて血流の流れが弱々しかったことがよくわかる。その狭窄部にステントを設置してバルーンで膨らませた様子もわかる。血流を止めているので血は流れていない。最後の写真ではバルーンを抜いて血流が元の状態に回復したことがよくわかる。

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手術は1時間半ほどで終了した。終了したときに、担当医が言うには冠動脈のもう1本に狭窄部が見つかって、その手術は経過を見ながら実施する日を決めると宣言された。手術が終わってよかったと思っていたのにまだ残っていたのかという思いと、そんなに私の血管はあちこち詰まっているのかとの驚きがあった。そのまま集中治療室(ICU,Intensive Care Unit)に運ばれて1泊した。

 

病室のつれづれ事 

入院2日目。 心筋梗塞という病は早く気がつけばステント処置によって直ちに元の元気な状態に戻ることが出来る。私は至って元気な状態であったけれど、ICUは重症の病人の専用病室であったので、重症患者並みの最大級の丁重な扱いをしてくれる。おとなしくしていて、そのギャップを素直に楽しむことにした。

入院3日目。 4人部屋に移された。隣には87歳のお婆さんがゼイゼイとやっている。とにかくベッドから動くなという日々がはじまった。最初は、胸には心電図のための電極コードが6本、鼻の孔に酸素供給のパイプが一本、右手の指先には酸素量測定のセンサーとそのコードが1本、左手には点滴のチューブが1本取り付けられ、寝返りも打てないほど。もちろんオシッコにも行けない。ベッドサイドに置いてある溲瓶(しびん・シュビン・オランダ語らしい)を使うことになる。

入院中はベッドに静かに寝ているようにと指示されていたので、真上の天井ばかり見て暮らすことになった。4人部屋の病室の天井に設置されていたカーテンレールは部屋を4つに仕切っている。私の真上ではおよそ3m×3mの四角形、つまり昔の単位で言えば1丈(10尺)平方。まさに何もすることなく流れていく時の中で、鴨長明の庵のように方丈の空間(四畳半というところか)が私の居場所となった。そう考え出したら鴨長明の庵の間取りがどうなっているのか知りたくなった。彼も同じ広さの庵で寝起きしている。それで古い『方丈記』を我が家から持ってきてもらった。浮き世と離れて、何事も急がず、のんびりと自然の移ろいと共に過ごしているあの本だ。彼は簡単であるが庵の内部の様子を述べている。

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その記述から想像する庵の間取りをノートに書き上げた。どこが出入口なのかわからないが、屋根の庇(ひさし)が伸びている東側のどこかに出入り口の引き戸があるのだろう。

(追加注:後日、鴨長明は北枕で寝るはずはないとの友人Oさんの指摘は納得するものであった。とすると上図では寝ている頭側が出入り口になってしまう。普通ではあり得ない。従って、そうではなく 1)寝床は南側の壁に接し、頭を南にして寝ており、出入り口は寝床の足元の東壁側にあったのかもしれない、あるいは2)東壁側は基本的に板壁であって明かり取り用の障子のみで出入り口はなく、出入りは南側のぬれ縁から行ったのではないか、とも考えられる。実際はどうなのだろう。いずれにせよ、火を用いる炊事などは東側に長く伸びた庇の下で行ったのだろう。)

南側の「竹のすのこ」、つまり「ぬれ縁」の西端に「竹の吊棚」と書いたが、実際には鴨長明は「閼伽(あか)棚」と言っている。学生時代、ヨットの中に入ってしまった海水を汲み出す大きなヒシャクのことを「アカ汲み」と言っていたことを思いだした。「アカ」は水なのだ。きっとこの棚は汲んできた水を使うための「流し」のような使い方をした場所ではないかと思う。このような間取り図はきっと物好きな研究者が詳しく調べているに違いないから、いずれその研究報告を見てみたいものだ。これも何かの縁だから、入院中に書いたメモは『方丈雑記』と題しておこうと思う。

入院4日目。 やっとベッドから歩いてトイレまで行くことが許された。初めてのウンチ。それだけ病院食は量が少ないというか、安静状態を維持するなら適量なのだろう。ただしオシッコだけは別に取るようにと言う。これはなかなか難しいことだ。そのような訓練はしたことがない。どうしても同時に出てしまう。

入院5日目。 点滴もなくなり、心電図のコードだけが残り、歩きやすくなった。オシッコに行くことも、歩くこともOKとなった。上肢・下肢にセンサーを取り付けて、4つの血圧を測る血液検査があった。どうしてそんなことがわかるのだろうと思うのだが、この4点データから身体全体の血管の硬さ分布がわかるのだそうだ。ディスプレイをチラッと見たら「血管の硬さは80才」などと表示が出ていた。本当なのかしら。午後から「200m歩行負荷テスト」を行った。病棟内の廊下をグルグルと4周巡って200mを歩き、その直後に心電図・血圧・血液検査を行って、前後の数値の比較を行う。これで問題なかったので、次はヒートショックの「シャワー負荷テスト」になるのだそうだ。

入院6日目。 暗いうちは雲が多かったが、太陽が昇り始めたら晴天になった。富士山も良く見える。御殿場線の電車もローカル線なのによく通っていく。小田急線の青銀色のロマンスカー「あさぎり号」が屋根越しに目の前を通った。結構たくさんの人が乗っている。普通の電車は屋根だけしか見えないのに、「あさぎり号」は背が高いのだと初めて気がついた。

入院7日目。 病棟内の同じフロアーをグルグル歩き回って「500m歩行負荷テスト」を行う。検査の結果、これもOKとなった。テストに合格することは何でもうれしくなるのでおかしくなる。

入院8日目。 ただただ寝ているのは実に暇である。持ってきてもらったDVDの「ニュルンベルグ裁判」を見た。最初の孫つまり長女の子供が生まれたときに、急に年寄り気分にはなりたくなかったので「おじいちゃん」やら「おばあちゃん」ではなく、ドイツ語の「オ〜パ」と「オ〜マ」と呼ばせるようにした。これなら許せる。実際にこの言葉をドイツ語として聞いたことはなかったのだが、このDVDの中で街角のソーセージ屋の若い売り子の女性が裁判長役のスペンサー・トレイシーに “Aufviedersehn, Opa!” と声を掛けていた。それがわかって、何だか妙にうれしくなったから不思議だ。

入院9日目。 初めて病棟の1階まで降りる。隣の患者の訪問客はていねいな言葉を使うおばさんなのだが、患者に何をしたいのか、何をしたのかと質問ばかりしている。この手の見舞客は最も性質(たち)が悪い。患者さんは黙ってしまった。疲れたのだ。9日目と10日目に大便の中に潜血があるのかどうかの検便検査が行われた。これは今後に何らかの出血(不慮のけがや大腸ガン手術など)が生じた時に、ステント処置のあとで服用する血管拡張剤や血液凝固防止剤によって大量出血が起きないようにあらかじめ行う検査なのだそうだ。

入院10日目。 富士山の頂上付近に雪が積もっている。きのう降ったのだという。このころにもなると世間のことや外界のことを考えなくなる。以前の急性肝炎の入院の時もそうだった。世間でのこれまでの煩悩はここまで。これから「無」の境地の入口になる。そんなこともあって家から兼好法師の『徒然草』を持ってきてもらった。その123段に、人にとって大事なことは「第一に食ふ物、第二に着る物、第三に居る所」にすぎないし、これに加えて病になった時の「第四に薬」とある。「衣・食・住・薬」だ。これらをもとめることが出来ない状態を「貧しい」といい、それ以上求めることは「奢り(おごり)」であるという。まあ、そうなんだろうな。

午後、歩くと言ったのだが無理やり車イスに乗せられ、別棟の検査室に連れて行かれ、「階段負荷テスト」を行った。表彰台のような三段ほどの階段を登り下りして、向き直ってまた登り降りるという動作を10回くり返す。このテストでもOKとなった。このあと「温水シャワー負荷テスト」をやる予定であったのだが、これまでの負荷テストの成績がよかったためか、10日ぶりにシャワーを使うことが許された。垢がたくさん出た。病室の患者仲間は「痛み」を持っている人ばかり。共通テーマは「痛み」にからむ話なので、「痛み」がない私とはなかなか会話が成立しない。「痛み」や「「苦しみ」のない患者は病院では当然ながら希少動物である。病室仲間との距離感はずいぶんあったと思う。

入院11日目。 身体を動かすために病棟1階に降りた時に、長年パーキンソン病を患って身体が思うようにならなくなっている豊田の親友に電話した。鳴った途端にすぐ出て来た。いつもはベッドに寝ているので、こんなことはこれまでまず無かった。食事中だったらしい。「先に行って席を取っておいてやるからな」と抜かす。「オレが先になるかもしれないから、そんなことを言うな」と返したら、「フグの干物を銚子の店から送ったから、一杯やってくれ」と言ってきた。短い会話だったが、暖かかった。

この日だったか、家にあったフランス映画「恐怖の報酬」のDVDを持って来てもらった。シャンソン歌手として有名なあのイブモンタン主演の古い映画(1953)で、中学生の頃に名古屋の映画館で見たことがある。油田の火災を爆破によって消すために液体ニトログリセリンをトラックに載せて運んでいく、なかなか見応えのある名画である。このニトログリセリンはショックを与えるとすぐに爆発してしまう危険な爆発物であるが、ノーベルがこれを珪藻土にしみ込ませて安全なダイナマイトを発明したことは誰でも知っている話だ。手術で使ったのも、心臓病患者が常時携帯しているのも同じニトログリセリン。何が違うのかわからなかったのだが、添加剤などを加えて爆発しないようにしているらしいことを初めて知った。考えてみれば当然のことだった。

入院12日目。 朝、赤富士がきれいに見えた。すぐに雲が出て来て見えなくなってしまった。

入院13日目。 第2回目の手術の日。 朝5時半頃に採血に来た。担当医が8時半にやって来て、血液検査結果はいいので、今日ステント手術をするという。12時頃になって手術が始まる。手術室はこの前と同じだというのだが、感じが違う。病室ですでに手術着に着替えさせられていたから、自分で手術台に上がる。パジャマのズボンはそのままだ。「最初の時は直ちにすっぽんぽんにさせられたのだけれど」と担当医に言ったら、この前は「緊急入院」だったからとのこと。そうだったのか。病院に連絡しておいてくれたO先生は心筋梗塞であぶない状況だと電話で伝えていたのだろう。

手術が始まった。医者同士の会話が聞こえてくる。造影剤の注入量は115mlらしい。入れた途端に全身が急に冷たくなった。手術中も点滴をやっていることに気がついた。造影剤やニトログリセリンを早く体外に排出させるためらしい。手術中は胸が詰まった感じが前回よりも強く、胸がちょっと痛い。手術中では医者達の「ナイス!」とか「ピッタリ!」などとの会話がまた聞こえてくる。目標位置にステントがピッタリはまったのだろう。聞いていて愉快になってくる。

終わったのは午後1時頃。やはり初日の第一回目と同じ一時間半ぐらいかかっているのだが、2回目の方が長く感じられたし、違和感も強い。これは1回目の手術では興味津々で次ぎに何が起こるかを楽しみにしていた『知らぬが仏』効果が有効に機能していたのだろう。知ってしまうと2回目の手術では『煩悩』が生じてしまう。午後1時半頃に担当医がやって来て前回と今回の血管造影写真を持ってきてくれた。前回の写真はすでに示したので、2回目の写真を下に示す。冠動脈の狭窄部をステントで広げて、血流状態が元に戻ったことがよくわかる。

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入院14日目。 心筋梗塞は病気の中でも“高貴な病気”であると思う。重症のときは予兆も無くほとんど苦しまずに突然死ができる。軽症のときは物理的な簡単なステント手術で完治する。親友の1人が見舞いに来た。彼が私の入院でショックを受けた理由は、私が入院したことではなく、常に綿密な健康チェックや人間ドックを受けていると自負しているのに、それに何も引っかからない病気が身近で起こったことらしい。笑ってしまった。異変に気づくセンシティビティを高めておき、すばやく専門医の意見を聞くことが最善なのに。

入院15日目。 退院の日。看護婦さんが「どこかおかしいところはないですか」と聞いてくれた。さっそく「かゆみ」を訴えた。「先生は専門に特化されすぎていて、かゆみのことは興味がないらしい」と言ったら「そうなんです」と彼女はすなおに答える。科をまたがる診療は専門の隙間に落ち込んでしまい、いやがられるらしい。そんな話をしたら「別の先生に話してみます」と言ってくれた。

 

退院後のつれづれ事

かゆみ

退院後は、半月も寝たきりでいたために宇宙飛行士のように筋肉がなえて歩けなくなるように足が弱った。それに、たぶん血管造影剤(ヨード剤)の薬疹と思うのだが、全身の猛烈な「かゆみ」で困った。「かゆみ」はかきむしると全身があざだらけになるので、前回の急性肝炎の入院時に知った私の特効薬は「米酢」を塗ることである。これはなかなかいい。酸性であることともさることながら、同時に水分が体温ですぐに蒸発して皮膚温度を冷やすこと、米を発酵することで得られた保水成分が皮膚の乾燥を防ぐことが効いている。しかし塗った直後はお酢がぷんぷんとにおい、にぎり寿司の舎利になった気分になってしまう。周囲にもお酢の匂いがしていたに違いない。またよく使う「キンカン」は即効的に「かゆみ」によく効く。寿司シャリ気分にはならないメリットはあるのだが、保水成分がないので長くは保たない。

薬のこと

死ぬまで毎日飲み続けることになってしまった薬は5種類である。まずは 1.血栓の原因物質のコレステロールが肝臓で合成されることを防ぐ高脂血症薬(スタチン剤)、2.血管を拡張させ血圧を下げる薬、3.血圧を上げる物質の働きを抑えて血圧を下げる薬、4.血栓を出来にくくする薬(バイアスピリン)、しかし副作用で胃炎をおこすこともあるので、5.胃酸の分泌を抑える薬の5種類である。この組み合わせに落ち着くのも、試行錯誤の長い試みがあっただろうな、と思う。

困ったのは、これらの薬を飲むことによって怪我をしたり鼻血が出た時に、血が止まりにくくなったことである。歯医者で歯を抜くときに前もって飲むのをやめたこともある。実際には日常生活でそれほど問題にはならなかったが、事故や病気で大量出血したときなどは大ごとになるのだろう。気にしていなければならない。

いつまで保つのだろうか

バルーンによって閉塞した血管を拡張させる臨床応用は1977年にすでに行われていたようなのだが、バルーンとステントによって血管を拡張して心筋梗塞を治療する臨床応用はずっと遅れて1992年に始まったらしい。異物である金属の金網によって生じる血栓の対処方法にずいぶんと手こずったようだ。服用の薬を何にすべきか、やステント表面処理などだ。実際に実用になってきたのは2000年代の直前らしい。つい最近に普及した方法と言っていいだろう。この治療方法は、物理的手段によりほとんど直ちに完治するすばらしい治療方法であると思う。医者と技術者の長い間の共同作業、実にさまざまな技術分野(材料・メカ・エレキ・画像・医薬などなど)の積み重ねがある。個人が受賞するノーベル賞とは違って数多くの人たちによる総合化・システム化によって実現できた人類のすばらしい智恵の結晶である。分岐がたくさんある狭い血管の中を延々と目的の患部までステントを導いていく職人技とも思えるテクニックもすばらしい。ただしこの方法のアイディアから実用化まで日本人の寄与はなさそうである。日本は個々の技術や技能に関しては誇れるものを持ってはいても、多様な分野にまたがる総合システム化は不得意な事例が多い。このステントによる治療方法もその一つであろう。

退院後にある友人に聞いたのだが、彼は12年前にステントを3個も入れる手術をしたのだそうだ。血管造影撮影のための造影剤は手首の動脈から注射し、ステントは股の付け根の動脈から入れた。私の場合は、造影剤の注入もステント処理のカテーテルの挿入も、いずれも手首の動脈から行われた。彼の時は何泊かの入院が必須の出血を伴う危険のある大手術であったが、今は日帰りで手術が可能なほどに進歩した。ステントがいつまで保つかについて、その当時は10年間の実績はあるが、その後はわからないといわれたそうだ。たしかにこの処置が実用化されたのばかりであったから実績はなかったのだろう。ともあれ、彼のステントは12年間は大丈夫だったということになる。私の場合は何年保つのだろうか。

 

10ヶ月後の検査入院でもOK。よかった。

前回のステント処置手術の約10ヶ月後に、術後の経過を確認するための検査入院をした。

入院1日目。 9時過ぎに病院に行き、入院。まずは血液検査、心電図検査を行う。終わって担当医からどのような検査を行うのか説明があった。すぐに昼食。病院食は久しぶりである。1階の売店でうろうろしていたら、館内呼び出しで名前を呼ばれて驚いた。病室に戻ってみると点滴の“ルート”を付けるとのこと。聞いてみたら、ルートとは腕に取り付ける点滴の差し込み口のことらしい。

以前の入院の体験から、近くの図書館にある落語CDのすべてをiPodに入れてある。寝ながら暇をつぶせるので入院の時にはとても役に立つ。ベッドの中で桂枝雀の「くしゃみ講釈」を聞く。『講釈場 いらぬ親父の 捨て所』などと言っている。ご同輩の老人たちが集まる医者の待合室などもそうなんだろうな。桂枝雀は好きな落語家だった。自殺などしないで長生きしてくれたらよかったのに。必死に芸の道を究めようとして、行き着くところまで行ってしまったのだろう。

入院2日目。 血管造影検査の日。朝9時頃にX線室へ行く。去年の1回目の時よりも手首から冠動脈にカテーテルが到達するまでに手間取った感じがした。担当医は「この前よりもかかっていますかね〜」などと素直に聞く。顔なじみになったこともあろう。終わり頃になって、全身が急に熱くなった。造影剤を心臓に入れたらしい。心臓から造影剤が全身に送り出された瞬間だったようだ。冠動脈とのサブトラクション(差分画像)をするためなのだろうか。10時頃に血管造影撮影は終了。簡単に終わった。

午後4時半頃に結果の説明があった。心臓の張と縮の比率も問題なし、心臓壁の損傷(壊死)もなし、とにかく検査はOKとなった。午後5時頃に点滴を外す。夕食の時に食事と一緒に栄養士もやって来て、「食事はどうですか」という。おいしくなったし、箸やスプーンも付いてきた。いろいろ聞いてみると、やはり去年の時とは栄養士が代わったのだそうだ。食事のシステム全体を変えたことがよくわかった。一人暮らし用やダイエット用食事も含めて、病院レストランをやったらよいと思うのだが。私ならさっそく食事に行く。実際にある私立病院ではレストランをやっているらしい。県立のこの病院では無理だろうな。

入院3日目。 11時頃に退院した。迎えに来てもらって、家に寄らず、そのまま箱根の芦ノ湖畔のホテルでお祝いのランチを食べ、ついでに湖の湖面を目の前にした温泉にゆっくりと浸かった。 

これで心筋梗塞の病の一連の顛末は終わった。

2020年1月 3日 (金)

第97話 我が家の最初のクルマ

第97話 我が家の最初のクルマ                  v.1

 

父親との短い思い出の中にある我が家に来た最初のクルマが何だったのか、知りたくなった。

 

終戦直後にクルマを買った

父親は太平洋戦争中は軍医として中支に行っていたと母から聞いていた。“中支”との言葉は今では誰も使っていないのだが、現在の中国の中部地方で「華中」と言うらしい。母にも聞かなかったので、中支のどの町に行っていたのかは知らない。昭和18年3月に招集され、昭和21年3月に空襲と艦砲射撃で焼けて何もなくなった我が家に復員したらしい。“復員”との言葉ももう死語なんだろうな。その頃はまだ防空壕に住んでいたのかもしれない。つまり記憶の上では、生まれて4年後、幼稚園に行っていた頃に初めて父親に出会ったことになる。その時の記憶はないのだが、母が言うには“おじさん”と呼んで、なかなかなつかなかったのだそうだ。

父親は“復員”してからまったくゼロから診察室と病室、家族が住むバラックを緊急に作ったそうだ。“バラック”との言葉ももう死語になった。あり合わせの板やトタンで応急に作った粗末な建物のことだ。そんなバラックにも入院患者は来たし、病気で亡くなる入院患者さんもいた。夜中には往診の電話はかかってくるし、大やけどで担ぎ込まれる患者もいた。我が家は代々「やけどの薬」で有名であったようで、ずいぶんと遠くから患者がやって来た。伊豆の方からはるばる漁船に乗って来た患者もいたようである。だから病室まで作ってあったのだろう。知らないおじさんが毎日我が家の庭を掃除していたこともあった。あのおじさんは“精神衰弱”になった人で、何でも手仕事をしていると直るのだと聞いたことを覚えている。“精神衰弱”との言葉も今では使われなくなった。

診察や往診に加え、若くして県の医師会の理事や市の医師会長やらをやっていて忙しくて、そのためバラックの家を本格的に建て直すよりも前に、往診に出かけるためのクルマを先に買ったと母から聞いていた。まだ焼け野原が残っている終戦直後である。クルマを買う人などほとんどいなかったであろう。隣の町にある国道沿いの日産の販売店から買ったことは覚えている。当時はトヨタの名前は聞いた記憶がなく、現在と違って日産のはるか後を追い掛ける弱小企業だったのだろう。父親は診察と外出で忙しく、周囲にいる友達のように父親と一緒によく遊んだと言う記憶はない。しかしクルマに乗っていく往診にはたびたび助手席に乗せてもらった。末の息子と接する貴重な機会と思っていたのかもしれない。

 

古い写真が出て来た

古い写真が出て来てきた。たぶん1950年頃、70年ほども前の写真だ。やっと見つけたクルマは2ドア、後部ドアはハッチバックの丸っこい形をしていた。そう言えばそうだったな。やっと形を思いだした。今で言えば4人乗りのバンタイプだった。クルマの色は濃紺色で、跳ね上げ式の後部ドアには我が家の名前が白く書いてあった。これが書いてあると往診の時に駐車禁止の場所でも警察が駐車を認めてくれると聞いた。クルマに関して記憶に残っている話はその程度なのだ。このクルマが日産のどのようなクルマだったか知りたくなった。 

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クルマのことで具体的に覚えているのは方向指示器のことである。今のクルマは次ぎに曲がる方向を、ハンドル脇のレバーで操作して点滅するランプつまりウィンカーで指示する。我が家の最初のクルマはクルマの右側と左側に飛び出す赤い腕木を、運転席にあるケーブルで引っ張って跳ね上げる方式の方向指示器だった。そのケーブルを引っ張る二本の注射器のような形をした装置が運転席のパネルの下側に取り付けてあった。往診で助手席に乗せられている時、次ぎに曲がるかどうかを見極めて、方向指示器を父親よりも早くだすことに夢中になった時期があったことを覚えている。「やった!」という感じが楽しかったのだろう。だから詳しく覚えている。また覚えていることは、クルマは現在のようにセル一発で簡単にエンジンが掛かることもなかった。あの当時のクルマは、時々、エンジンの前に回って、細い穴から長い鉄棒を差し込んで、くるくる回してエンジンを掛けていた。反発力が強くて子供には回せなかった。外にいる人がクルマを押して勢いをつけてから、運転席にいる人がローギアを入れてエンジンを掛けることもよくやったように思う。

 

日産ヘリテージコレクションへいっても見つからない

日産が自社の古いクルマを宣伝していて目につくのは“ブルーバード”からだ。調べると初代は1959年(昭和34年)に発売とある。我が家のクルマはそれ以前である。当時は型式だけで表されていて、 “ブルーバード”のようなニックネームをつける時代ではなかったのだろう。そのような次第で日産の古いクルマを集めているという「日産ヘリテージコレクション」なる博物館を見つけ出し、日産座間工場内にあるその博物館を訪ねることにした。電話を掛けて予約していったのだが、電車に乗って、バスに乗り換えて、降りてからも工場の塀に沿って長く歩いてやっとたどり着いた。遠かった。クルマで行かない人は少ないと思うほどのなかなか不便なところだ。

「日産ヘリテージコレクション」は以前はクルマを生産していたであろうと思われる工場風の建物だった。何人かでグループを作らされ、ガイドのお姉さんに引率されて説明を聞くシステムになっている。日産の歴史を聞きにきたわけではないので、しばらく付いていったがすぐに離れて1人でそれとおぼしき年代のコーナーにあるクルマを探しに行った。記憶に残る2ドアの丸っこくて、跳ね上げ式の方向指示器のクルマはない。それでも何となく形が似ているクルマはあったので、ガイドのお姉さんにそれよりも古いクルマはなかったのかと聞いたのだが、わからない。彼女の説明マニュアルには書いてないようだ。古いカタログを見せるパソコンコーナーなら手掛かりがあるかもしれないというので、別の部屋に行って検索したら何となく似ているクルマが出て来た。よかった。型式名を書き留めて、家でゆっくり検索してみることにした。

 

最初のクルマは日産DB2型(に違いない)

型式がわかったので、インターネットで古いカタログの写真が出てくるサイトを見つけ調べて見ると、終戦直後の日産の乗用車の歴史は次のようになっていた。最初のクルマは昭和22年8月発売のDA型(1947/8発売・排気量722cc・15馬力)だが、これではなさそう。排気量722ccとは今の軽自動車の660ccとほとんど変わらない。馬力はとても小さい。半年後の昭和23年3月には次のDB型(1948/3発売・排気量722cc・15馬力)に改良され、また半年も経たずに改良型の“DB型デラックス・セダン”(1948/8発売)が出ている。そう言えば「デラックス」という言葉を当時はよく聞いたな。何でも“デラックス”と付いた商品があふれていた。

そのあと昭和25年に馬力をあげたDB2型(1950/8発売・860cc・20馬力)、145mmに延長したロングボディ化のDB4型(1951年発売)とボディを4ドア化にした昭和28年にはDB5型(1953年発売 25馬力)と立て続けに短期間の間に次々と改良されている。DB型以降は日産のヒットになる1954年発売のあの“ブルーバード”になる。

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 カタログには運転席の写真も出てくる。その内部の写真を詳細に見ていくと、運転席でワイヤーをレバーで引っ張って方向指示器を跳ね上げるタイプはDB2型までであって、DB5型からは回転レバーを左右に回して方向指示器を跳ね上げる方式に変わっていた。それと、1952年に家を建てる前に買ったと言うからには購入時期からみると、我が家のクルマは発売時期から見てDB型“デラックス・セダン”あるいはDB2型であろうと思われた。どちらも形は同じなのだが、たぶん我が家のクルマはDB2型であろう。

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カタログの詳細を見ると、当時のクルマの様子がよくわかる

【車体】:木骨鋼板表流線型 乗員四人・ドアレギュレーター・通風開閉装置

車体が木骨鋼板とは知らなかった。木で枠を作って、その上に鋼板を張ったということだ。“流線型“という言葉も当時のかっこいい形のほめ言葉だったな。ドアレギュレーターって何だろう。ドアに付いている窓を開け閉めするハンドル装置のことなのだろうか。通風開閉装置というのもよくわからないが、側面付いている外気を取り入れるフタのようなものだったかもしれない。

【計器盤】:速度計・油圧計・電流計・点火スイッチ・チョーク釦・スロットル釦・ワードロック釦・小物戸棚

今のクルマではチョーク釦(ぼたん)・スロットル釦(ぼたん)などついていない。エンジンを掛けるときにちょこちょこと調節していたことを思い出す。今は電流計もない。

【付属品】:方向指示器・後面鏡・ワイパー・スペアホイール・ツール1組

わざわざ付属品として方向指示器が書いてある。右腕を窓から水平に差し出して右折を表し、その腕を直角に上向にすれば左折を表していた時代の名残なのだろう。バックミラーもワイパーも付属品扱いである。時代を感じさせる。スペアホイールであってスペアタイヤではないのも不思議なことだ。そう言えば点火プラグも時々外して掃除をしていたからツールは必需品だったのだろう。

あっちこっちに連れて行ってもらった

このクルマ(DB2型)は1950年頃、つまり小学校1年生の頃に我が家に来て、父親が1954年に亡くなるまでのたった4年間ほどしか存在しなかったのだが、とにかくよく助手席に乗せられて、あっちこっちの往診に連れて行ってもらった。

大きなお屋敷が集まっている住宅地の立派なある家に往診した時のことである。。暑い夏だったと思うのだが、クルマの助手席でいつものように父の戻ってくるのを待っていた。そうしたら奥さんが門から出て来て、コップに入った冷たい甘い紅茶を持ってきて、窓越しに渡してくれた。当時はまだ電気冷蔵庫はなかったから、木製の氷冷蔵庫の氷を砕いた小さな氷がコップの中に浮かんでいたのだろう。砂糖も、紅茶も貴重な時代だったし、今でもその時の状景をはっきりと覚えている。甘くて冷たい紅茶が大好きになったことも、その時に大感激したためと思う。

本港から離れた漁港の外れの“どや街”の往診に連れていってもらったこともあった。“どや街”との言葉ももう死語なのだろうな。往診先は中華そば屋だった。お客はいなった。クルマを止めてあった店の裏の方から何かグツグツと大釜で煮ている様子が見えた。何だろうと思って薄暗い部屋に入り、大釜をのぞいてみたけれど何だかわからない。そのうちに目の焦点が次第に合ってきて、骨が一杯浮いていると気づき仰天した。今なら豚骨ラーメンで当たり前の光景なのだろうけれど。

小唄の稽古にも連れて行かれた。戦争で焼け野原になる前は市内電車が港の方まで走っていたようなのだが、戦後はその線路を撤去して細い通りが出来ていて、両側には細々とした店が並んでいた。その通りの一軒の家の二階に小唄のお師匠さん、小唄のおばさんがいた。父親は宴会の席での余芸として小唄をうなるために、その“おっしょさん”に小唄を習っていたようなのだ。とにかく父親が小唄を練習している間、脇に座らされて終わるのを待っていた。たぶんその“おっしょさん”に可愛がってもらったのだろうが、覚えていない。

 

ついでに

 父親が早くなくなったためか、“父親”のような人を片想いで求めた時期があった。実の親ではないから自分の尊敬できそうな人を自由に選ぶことができた。これは父無し子のメリットである。コバンザメのようにくっついた。1人は友達のお祖父さんで、人生の粋も辛いも超越した瀟洒(しょうしゃ)なお年寄りだった。会話もセンスに満ちていた。しばらくして彼が亡くなったあとは、北海道の山の中を開拓していた遠縁のおじさんになった。もともとは小笠原の父島生まれで、農林省の役人だったのだが、無一文の状態で十勝の山に入って開拓を始めた人だった。北大寮歌の一つ「生命の争闘」の作詞者でもあり、一晩中話をしていても飽きないとても深みのある人だった。最後に会ってから数ヶ月後に、残念にも急に亡くなってしまった。会ったのは二回ほどしかない。それ以降は“父親”のような人を求めることもなくなった。自立したのかもしれない。

 

自分で買った最初のクルマ ホンダライフ

家庭を持って最初に買った我が家のクルマにも書いておこう。そもそも運転免許証を取ったのは高校2年の時である。もちろん「普通免許」ではない。家の隣のおじさんに借りたスクーター“ラビット”(旧中島航空機の後継である富士重工業製。今のスバル)に乗ってずいぶんと遠出をして、山の中の田舎の駐在所のおまわりさんに無免許で捕まったのだ。高校の学生証を見せても信用されず、盗んだと思われたらしい。隣のおじさんの会社に電話して迎えに来てもらった。一緒についてきた若い人が代わってスクーターに乗ってくれたのだが、隣のおじさんは「乗って帰りたいだろう」と途中から交代させてくれて、我が家まで“無免許”で乗って帰った。今でも隣のおじさんのこの太っ腹には感謝している。

その日から1週間、学科科目を猛勉強して県の運転免許試験場で「軽自動車免許」を取った。実地試験はスクーターだったから慣れたものだった。もちろんしばらくして家庭裁判所に呼び出されてお小言をもらった。父兄同伴とのことだったが、父もいないし兄も家にはいなかったので、知り合いの花屋の兄さんに付いてきてもらった。今でもこの兄さんには感謝している。まだご健在だろうか。御礼を言いたいものだ。無免許運転で捕まったことも高校には知られなかったのだろう。この時代は世間の目もおおらかだった。

この「軽自動車免許」は不思議な免許で「二輪車なら排気量制限無し・四輪車は360cc制限付き」だった。普通車は運転できないのだ。結婚して子供が生まれる事がわかってから、360ccの軽自動車をあれこれ探した。ちょうどホンダが軽自動車初の四ドア車であるホンダ“ライフ”を発売(1971年)した直後であった。家族が増えるので4ドアは決め手だった。50万円はしなかったと思う。

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会社の近くのオートバイ屋で売っていることがわかり、申し込んでおいてから、ある日仕事が終わって取りに行った。一緒に乗って我が家まで来てくれるのかと思ったのだが、店の親父は「乗って行け」という。クルマを買いに来た者は運転できるに決まっていると当然思われたであろう。それまで、とにかく四輪車は一度も運転したことがない。と言って「運転できない」とは言えない雰囲気だった。当時の借家の我が家までおよそ3kmはあった。アクセルとブレーキ、それにクラッチの位置もよくわからない。もちろんクラッチ操作・ギヤチェンジの仕方もわからない。ハンドル操作もしたことがない。店の親父が見守る中を運転席にとにかく乗って、ローギアに入れて走り出そうとして、すぐにエンストした。何回かエンストしてからやっとローギアで走り始めた。ギアチェンジはしないでそのまま冷や汗を掻きながらゆっくりと我が家までたどり着いた。その日から仕事が終わって我が家に帰るとクルマの少ない国道を通って人のいない山の中の道に行き、毎晩100km目標で一ヶ月は続けたと思う。結構な距離になったはずだ。

このホンダライフにはよく乗った。屋根にキャリアーを取り付け、ヨットとマストを積み、家族4人、それにテントや炊事道具など一式を積み込み、山を越え、野を越え、湖・海によく行った。ヨットを積み込むと、ヨットのバウ(艇首)がクルマの先に突き出てしまい、交差点で止まると前の信号機が見えない。そんな時は対面するクルマが走り出した頃を見計らって走り始める術も覚えた。箱根や信州の峠道を360ccでよく登れたなと思う。登りには弱いが、下りには強い。心得て乗れば、何の問題もなかった良いクルマだった。パワーアップした今の660ccはすごいだろうなと思う。

 軽自動車免許はその後廃止になった。今はもう無い。1975年に普通免許の試験を受けて切り替えたが、おかげで免許証には大型二輪免許がちゃんと残っている。排気量無制限だから、いつか超大型のオートバイに乗ってみたいものだ。

 

 

2019年6月 2日 (日)

第96話 「小田原宿」の前に「をたわら宿」はあったのか

第96話 「小田原宿」の前に「をたわら宿」はあったのか

 

はじめに

もう何年か前のことである。地元の自治会長が急死し、長年逃げまくっていた自治会長を代わりに頼まれてしまった(第64話「自治会長になったわけ」)。自治会長になってにると、地元についてあまりにも知らなかったことに気がついた。それで住んでいる「久所(ぐぞ)」について、近所の長老などに話を聴いたり図書館で調べて資料を作ったのであるが(第86話「久所の始まり」、第88話「久所のむかし話」)、ところがこの資料を知人が見つけ、地元の歴史愛好家の方々の集まり(小田原史談会)の会報に載ることになってしまった。つまり会員になったのだが、この会の集まりに出席すると時々発表せよとの宿題が課せられる。テーマは何でもいい。だが、どうせなら地元の誰もが興味を持っているけれども、誰もまだわかっていないらしい話がいいと思い、「なぜ小田原との地名になったのか」に決めた。つまり、「小田原のルーツを知りたい」との大それたテーマである。というのも、会合に何回か参加しているうちに地元の歴史に興味を持つ方々の楽しみ方は二つのカテゴリーがあるように思えてきたのだ。

一つは書籍を読んだり講演を聴いたりして、さらに興味がわき出すと専門書や古書を解読しながら新たな知識を増やし関心のある分野の理解を深めていく楽しみ方である。ほとんどの会員はこのタイプであろうと目星を付けた。新参者の私としては、極めて特殊なテーマに限定し、重箱の隅を突くように詳細に調べ尽くして、新たな情報を提供して会員に貢献する方法論もあったろうが、地元の歴史をほとんど知らないで過ごしてきた私にはこのような方法論は無理であると最初からわかっていた。

もう一つは、誰でも知っているような一般的な情報を出来るだけ広範囲に集め、関心のある自分のテーマにそれらを関係づけながら「あり得ない話でもなさそうだ」との筋書きを推理していく楽しみ方だ。ひらめいた思いつきをもとに自分だけの仮説を創っていく方法論である。私のようにまだ深遠な深みを知らない新参者だからできると言ってもいい。しかしこの推論プロセス(アブダクション)で創られた仮説は論理の飛躍が大きいために、相手にホラ話・あり得ない話との気持ちをしばしば引き起こさせる。しかし、万が一にも本当にあった話かもしれないと少数の人たちが感じてくれたら、うれしいことだ。あらゆる地元の歴史の詳細をおどろくほどご存じの長老たちがどのような反応をするのか知りたいと思ったこともある。

 

史料を年代順に並べて俯瞰する

そのような次第で、半年ほど前突然に「なぜ小田原なのか・いつから小田原なのか」と、急に「小田原のルーツ」を知りたくなった。それまで気にもしなかった事柄が、急に気になるようになる瞬間が人生の中では時々起こるものだ。とにかく半世紀近くも住んでいるのに何も知らないので、まずは網羅的に、というか何か手掛かりが得られないかと、「小田原」との言葉が出てくる史料を、『小田原市史』や近隣の市町村編纂の史料、図書館の文献・事典・辞書類を片っ端から拾い集め、読み、調べて、史料をリストアップした。

最初にわかってきたことは、「小田原」との言葉については、江戸時代末期に出版された『新編相模風土記稿』(江戸幕府 昌平黌編1841)では次のように言っていたことである。すなわち、『門川村(現湯河原町)の蔵から出て来た古文書によると、古くからの地名「小餘綾(こよろぎ)」が小余綾(こよるぎ)となり、それが「小由留木」と書き表されるようになって、その草書体を「小田原」と読み間違えたことに由来する』との「小由留木説」を紹介している。この説は現在でも「小田原」との言葉のルーツとしてしばしばあちこちの一般的な資料で紹介されているは知っていた。しかし語り言葉としての「こゆるぎ」が発音のまったく違う「をたわら」に変化することはあり得ないことだ。この説は江戸時代にいた頓智の利いた誰かが言い出した歴史に残る名ジョークと思った方がよさそうだ。

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次ぎに、「小田原」との言葉が出てくる史料を作られた年代順に並べて上から眺めることにした。すると興味深いパターンが見つかった。史料に「小田原」との言葉が出て来なくなる時期があったことだ(表の中で『市史』とは『小田原市史』の略)。

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最も古い史料は、『新編相模風土記稿』の中で記述されている奈良時代の『相模国風土記』なのだが、この古『相模国風土記』は現存していないので「小田原」との地名が本当にあったのか今となっては確認できない。当の昌平黌の編集担当者も信用できないと書いている。

加えて、この奈良時代に編纂された古『風土記』は、それ以前に出された『風土記撰進の勑』(713)に定められた地名の「好字二文字化」、つまり中国の伝統に従ってすべての地名を好ましい意味を持つ漢字の二文字にせよとの指示に従って書かれている。たとえば、泉は和泉に、三野は美濃に、遠淡海は遠江などのように、強制的に変更された。そのため、平安中期の『和名類聚抄』によれば、それまでの地名は好字二文字に徹底され、全国3330の「郷」の一・三・四字の地名は全体の約1%にすぎなくなったという。現在でも日本の地名は圧倒的に二文字が多いのはこの奈良時代の布告によると思っていいのだろう。そのような次第で、もしも三文字の「小田原」が当時すでに存在していたとしたら、たとえ「郷」のレベルよりも狭い地域の地名であったにせよ、「好字二文字化」の影響を受けて別の表現になっていた可能性が高いと思われる。従って奈良時代の古い『相模国風土記』に「小田原」との言葉があったとの説は信用しない方がよさそだ。

その次に「小田原」の地名が出てくる史料は五百年後の十二世紀末、鎌倉時代を舞台とする『曽我物語』であった。『曽我物語』では、建久二年(1191)に曽我祐成(すけなり)が 「小田原の宿より始めて佐河(酒匂)・古宇津(国府津)・・・・等の宿に出入りした」との記述がある。また『佛牙舎利記』では 「建暦二年(1212)、将軍実朝が円覚寺舎利殿への宋から送られてくる仏牙舎利(お釈迦様の歯)を小田原で待った」との記述が見られるようになる。

 

「小田原」が現れなくなる

その後、明らかに小田原を通った旅の記録なのに「小田原」の記述がない史料が数十年間続く。まず飛鳥井雅有の『春の深山路』(1280)では「箱根越えして、酒匂宿に泊まる」とあり、「小田原宿」ではなく「酒匂宿」に泊まっている。ほぼ同じ頃、『十六夜日記』(1283年頃)で、阿仏尼はけわしい箱根を越えたのち次のように語っている。「・・・麓に早川といふ川あり。・・・・、湯坂より浦に出でて日暮れかゝるに、猶とどまるべき所遠し。伊豆の大島まで見渡さるゝ海づらを、いづこかといふと問へば、知りたる人もなし、海人の家のみぞある。鞠子川という川を、いと暗くたどり渡る。今宵は酒匂といふ處にとどまる。明日は鎌倉に入るべしとなり。・・・」と書いた。つまり、箱鎌倉時代の東海道である箱根の湯坂道を下ってきて、早川から酒匂川に向かう伊豆の大島が見える浜辺(今の御幸の浜あたりで、まさに小田原の地)で出会った漁師に、ここはどこかと聞いても地名を知らなかったと書いている。この時、都の上流階級の才女が洗練された京言葉で質問しても、当時の相模国の片田舎の粗野な漁師には言葉が通じなかった可能性は大いにある。しかしこの六十才を越えている老女はまだ暗い早朝に三島宿を出発し、日が暮れて酒匂宿で泊まるまでに四十キロ近くを歩き通して来たのであるから、もしも宿泊可能な「小田原宿」がすぐそばにあったならば、さらに遠い酒匂宿に行くことはなかったであろう。

 

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次の『宴曲集・巻第四・海道下』(1296年以前に成立)では 「足柄峠を越え、箱根湯本にまわり、早川を渡り、磯伝いに駒で鎌倉へ行く」とあり、明らかに小田原を通っているのに記述がない。そのあとの『遺塵和歌集』(1300)では、「弘安のころあづまへまかりて・・・・・・竹のした 関もと さかう はやすぎて こいそ 大いそ さがみがは・・・・・」とあり、箱根峠ではなく足柄峠を越えて関本に下り、酒匂川を渡り、大磯に向かっている。小田原の記述はない。

 

「小田原」が再び現れる

ところが、嘉元三年(1305)頃に書かれたと思われる金沢文庫所蔵の『称名寺文書の某書状』では「二所への御まいりの人ハ、をたわらと申候にとゝまりし候」とある。定説ではこの史料が「小田原」との言葉の初見と言われている。この史料は源頼朝が1188年に始めた「二所詣」が民衆にまで広がり、三嶋大社・箱根権現・伊豆権現への東海道や箱根道が整備され、「小田原宿」がこの頃には成立していたことを示唆している。さらに「十六夜日記」を書いた阿仏尼の子である冷泉為相(ためすけ)の『藤谷和歌集』(1310年頃)には、『小田原 同(さがみ) つくりあへぬ 春のあら小田はらひかね よもぎながらに今かへすらむ 』と詠んでいて、母阿仏尼が通った約三十年前とは違って「小田原」が登場している。そのあとの『足利尊氏関東下向・宿次注文』(1335)や『箱根権現参詣・遷宮目録写』(1346)にも同様に「小田原」が登場し、以降「小田原」との地名頻繁に登場するようになる。

 

中断期があるのはなぜなのか

以上のように「小田原」との言葉が出てくる史料を年代順に並べると、1200年代初めには「小田原」との地名が現れているのに、その後現れなくなる数十年間の中断期があり、1300年以降の史料にはまた頻繁に出てくるとのパターンが見られる。なぜなのだろうか。現在の定説では『曽我物語』や『仏牙舎利記』が実際に書かれたのは鎌倉時代よりもあとの南北朝(1336-1392)の頃なので、これらの史料に書かれた年代はそもそも信頼できないとされている。つまり「小田原」との地名が現れなくなるとの中断期のパターンはあり得ないと言うことになる。

しかしながらよく知られているように、「古代ギリシャのホメロスの物語は歴史上の真実のことを記述していない」との定説の中にあって、ハインリッヒ・シュリーマンは実際にトロイの地を発掘することにより、トロイの話は真実であると明らかにした。もしも『曽我物語』や『仏牙舎利記』の中の年代の記述が正しいとしたら、1200年頃にはすでに“をたわら”と呼ばれていた地に宿場があったことになる。現在の「小田原宿」が成立する前に存在したかもしれないその宿場を、のちの「小田原」宿と区別するために、仮に「をたわら」宿と名づけることにしようと思う。その「をたわら宿」は後に衰退あるいは消滅するとの変遷を経て、1300年頃に「小田原宿」として再登場し、発展していったことになる。

これは本当にあり得る話なのだろうか。「小田原のルーツを知りたい」とのテーマで調べていったら、現在の「小田原宿」とは別の「をたわら宿」がその前にあったかもしれないとの話になってしまった。それなら、それでおもしろい。さらに調べて見ることにした。

 

松原神社は小田原宿の総鎮守

いろいろな史料を見ていくと、十四世紀頃の小田原宿は現在の松原神社付近にあったと比定されている。鎌倉時代の終わり頃から「小田原宿」の場所は変わっていないことになる。松原神社は、明治以前には松原大明神と呼ばれていて、小田原宿の総鎮守として知られている。小田原宿と松原大明神は古くから固い縁で結ばれてきたことがわかる。松原神社の由緒によれば、松原大明神は鎌倉時代が始まる前、平安時代末期の久安年間(1145-1150)に勧請されたこと、最初は相模国足柄下郡山王原村松原にあったとの説が示されている。つまり松原神社は山王原村の“松原”から現在の小田原宿の地に移転したとされている。

山王原村とは現在の小田原市東町一帯を言い、町名改正以前は小田原市山王原と呼ばれていた。『新編相模風土記稿』によれば、その山王原村はさらに古くは原方村と呼ばれていたようなのだが、のちに村の鎮守の山王社にちなんで山王原村としたとある。調べて見ると、その時期は江戸時代初期の正保年間(1644-1648)だったらしい。平安末期に松原大明神が建立された頃は山王社もなければ山王原との地名も無かったであろう。山王社は松原大明神が移転したあとに建立されたのであろう。現在でも山王神社は松原神社と深い縁で結ばれているらしい。もしも「をたわら宿」が存在していたとしたら、鎮守としての松原大明神の近く、つまり後に山王原村と呼ばれる地域の街道筋、すなわち鎌倉時代の古東海道沿いにあった可能性が高くなる。

 

江戸時代に山王原村に小字「上宿」・「中宿」があった!

何か手掛かりがつかめるかもしれないと思い、山王原村の小名(小字)を調べて見ると、江戸時代末期には「新屋」・「上宿」・「中宿」の三つがあった。なぜ「宿」のつく小字が二つも存在するのだろうか。この事実は、もしかしたら、はるか昔に山王原の地に「宿」があったことを裏付けているかもしれないとの妄想が湧いてきた。地名は長年にわたって変化せず、化石のようにそのまま残っていることが多いのだ。

現在も小字として残っているかもしれないと思い、隣の二宮町にある神奈川県西部地方の土地台帳を管理する法務局の出先まで行って、明治時代からの小田原市山王原地区の小字を調査した。しかし小字としての「上宿・中宿」はすでに歴史の中に消え去っていて見つからなかった。それは明治22年の町村合併を皮切りとして、今日までの幾度かの大規模な市町村合併によって、小字のような地名は残念ながら消滅してしまったようだ。古い地名がどんどんと消失していることは、歴史を消し去っていることに他ならない。実にもったいないことだ。

 

宿場があった土地には「宿」のつく小字が残っている!

何か別の手掛かりがつかめるかもしれないと思い、さらに『新編相模風土記稿』に記載されている江戸時代末期の小田原宿を含む足柄上郡・足柄下郡のすべての村々の小字の地名調査をすることにした。すると、江戸末期には二つの郡に199もの村々に639もの小字があり、その小字名リストをじっと眺めているうちに特徴的なパターンがあることに気がついた。古くから街道筋に宿場の存在が広く知られている地には必ず「宿」の字が付く小字があるのだ。これはとてもうれしい発見だった。

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すなわち「小田原宿」のあった小田原には現在も残っている「新宿町・中宿町・古新宿町・臺宿町」が、平安時代から知られている「酒匂宿」のあった酒匂村には小字「中宿」が、また古代からの箱根を越える足柄道の重要な宿場であった「坂本宿」の関本村には小字「上宿・中宿・下宿」があった。さらには箱根の温泉宿として発展してきた湯本村にも小字「下宿・中宿」があった。前川村にも小字「中宿」があったが、これは古代の「国府津宿」に関連しているのかもしれないし、あるいは朝鮮通信使の休憩所が置かれていたとの史実があるので、「宿」があったのかもしれない。「宿」とは地元民ではないヒトがその地を訪れた際に宿泊できる機能を持つ公共的な施設であって、必ずしも“宿場”であることを意味してはいない。

一方、久野村のように小字「中宿・下宿」があるのに、主要な街道筋でもなく、宿場の存在は知られていない例もあった。しかし「久野」については古くから箱根からの山道が続いていたし、久野街道との田舎の街道もあった。「坊所」との地名も残っているし、宿坊のような宗教に関連した「宿」機能を持つ施設があったかもしれない。これは調査をしてみる必要がある。

ともあれ、作業仮説として、過去に宿場があったと知られている地には時代が経た後にまで「宿」の付く小字が残ることが多いと言えそうである。しかし、逆に「宿」の付く小字があったからと言って過去に宿場があったとは、現時点では必ずしも言えないことにも留意しておいた方がいいだろう。

 

「をたわら宿」の誕生

江戸時代後期の山王原村に小字として「中宿・下宿」があったとの事実から、過去にこの地に「をたわら宿」があったかもしれないとの可能性を信じることにしよう。もしも「をたわら宿」が存在していたとしたら、その「をたわら宿」は1200年代の後半に西におよそ三キロメートル移動し、宿場の鎮守であった松原大明神とともに現在の小田原宿の地に移ったことになる。のちの「小田原宿」が成立した頃の最初の規模は宿の数で7〜8軒と推定されているので、それ以前の「をたわら宿」は数軒程度の小さな規模の宿場であったであろう。

古来より酒匂川河口の左岸には「酒匂宿」があった。川を渡った右岸には箱根山に向かう海辺の東海道がつづいていた。この古東海道は鎌倉幕府主導の「二所参詣」が盛んになるにつれて往来する人たちが増えてきて、街道筋も次第に整備されてきた。酒匂川は暴れ川である。東海道の大井川の両岸に島田宿と金谷宿が出来たように、雨が降ったら渡れなくなる酒匂川の右岸にも、左岸の酒匂宿のような宿場、「をたわら宿」ができるようになるのは自然の成り行きであったであろう。

酒匂宿から対岸に渡った先の風景を描いた江戸時代の歌川広重の絵がある。同じように鎌倉時代初期の旅人も酒匂川を歩いて対岸(のちの網一色村)に渡ってから、いったん川沿いに歩き、すぐに古来より小余綾の浜と呼ばれた海辺に沿って右に曲がり、古東海道を箱根に向かって歩いたであろう。「をたわら宿」ももうすぐである。「をたわら宿」の鎮守である松原大明神もこの松原の中にあったはずだ。のちに山王原村と呼ばれるようになるその一帯も、古来から広く「をたわら」と呼ばれている地域の中に含まれていたのかもしれない。「をたわら」とは西にある早川の左岸から東にある酒匂川の右岸までの地域を言っていたのではないか。

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なぜ移転したのか 大地震? 地政学的理由?

「をたわら宿」が存在したとすれば、この「をたわら宿」は1200年代の後半に現在の「小田原宿」の地に移転したことになる。なぜ移転する必然性があったのだろうか。『新編相模風土記稿』によれば、山王原村の鎮守であった山王社は慶長年間の巨波で壊れ、移されたとある。現在の山王神社は山王川の河口から300mほど上流の左岸、つまり小田原側に位置しているが、明治時代に川筋を改修する以前は右岸、つまり山王原村側にあった。この江戸時代の大津波は調べて見ると1605年の慶長地震と思われる。松原神社の由来にあるように、松原大明神が現在の「松原神社」の場所に移動した理由も、鎌倉時代にこの地を襲った大地震・大津波かもしれない。 

古代から戦国時代にかけて相模国を襲った大地震を調べると、実際に鎌倉時代にこの地を大地震が頻繁に襲っていたことがわかる。つまり浜辺の松原にあった松原明神社、そして「をたわら宿」は、時期的にみて、十三世紀の1220年、1227年、1240年、1241年、1257年のいずれかの大地震と大津波で壊滅し、より安全な現在の小田原宿の地に移転した可能性がある。

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移転した理由は大地震・大津波だけでは無いかもしれない。時代と共に現在の「小田原宿」の地の方が宿場として地理的に有利な条件に変わってきたことは大いに考えられることだ。「小田原宿」のある場所は、鎌倉時代に入り足柄道に代わり主要道となってきた箱根越えの箱根道を通る東海道と、古来からある足柄峠に向かう甲州道、そして伊豆山権現に向かう熱海道という鎌倉時代の三つの主要街道の分岐にあたる。軍事的にも抑えの場所として戦略的に有利な場所だったと言える。この条件は、当時、この地域の覇権を握っていた中村党の小早川一族にとっても、また地元民や旅人にとっても、単なる通過点の酒匂川脇の「をたわら宿」の地よりも好ましい要因が多々あったはずである。三つの街道が集まる場所に市庭ができ、商いをする仮屋が立ち、人が集まり、集落が大きくなっていき、宿泊する旅人も増えていくという好ましい条件である。そのために「をたわら宿」よりも新たな「小田原宿」の方が繁栄し、「をたわら宿」は自然に衰退していったとの筋書きも、またあり得る話である。

 

おわりに

以上のように、現在残されている様々な情報や史実を関連づけると、「小田原宿」が出来る前に山王原の地に「をたわら宿」の存在した可能性がある。そうであるとしたら、『曽我物語』や『仏牙舎利記』に出てくる“小田原宿”は 初期の「をたわら宿」のことであり、『春の深山路』、『十六夜日記』、『宴曲集』、『遺塵和歌集』などに「小田原」との言葉が現れない理由は、1200年代後半に宿場としての「をたわら宿」が消滅あるいは衰退したからであり、そして1300年以降の史料に「小田原」との言葉が頻繁に現れるようになるのは新たな場所に「小田原宿」が誕生し、発展してきたことによるとの説明が可能になる。果たして歴史の事実はどうなのだろうか。

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それにしても、我が家のすぐそばの諏訪の原丘陵地帯に、縄文時代の初め頃の一万五千年も前から住み始めたご先祖様たちとその末裔たちは、弥生時代になって山から平野に移って暮らし始めたのであるが、いつ頃からこの地を「をたわら」と呼ぶようになったのだろうか。漢字がこの地に伝わって、自然地形から「小田原」と表現するようになってからなのだろうか。すると奈良時代以降になってしまう。しかしそれ以前からヒトは住んでいて土地の名前を口にしていたはずだ。それは何であったのだろうか。「小田原のルーツ」を知りたいとの疑問は残ったままになった。別のアプローチが必要だ。

 

 

 

2017年6月28日 (水)

第95話:白内障の話 その2 モネと白内障

第95話:白内障の話 その2 モネと白内障 v.3.0

 

前話(第94話)では白内障の手術によって私の色彩世界が大きく変わる体験を述べました。調べてみると、あの印象派の画家モネも当時としては異常なほど長生きをしたために白内障にかかり、84歳の時に手術をしていました。彼の体験した色彩世界の変化がどのようであったのか知りたくなりました。

白内障にかかった経緯は、年代記風に書くと次のようになります。

・1840( 0歳) モネ、パリで誕生
・1865(25歳) 初めてサロンに入選する
 (注:その後、普仏戦争を避け英国に滞在する1870年前後からモネの絵は急に大きく変わる。
    ターナーの画風や科学的色彩論の影響を受けて、“印象”的な絵になっていく。)
・1874(34歳) 第1回印象派展。「印象、日の出」を出展。
   ・・・・・・・・・・・・・
・1908(68歳) 春,眼に異常を感じ始める 
・1912(72歳) 夏頃、白内障と診断される。特に右目の容態が悪い。
・1923(84歳) 1月と7月に右目の手術を受ける。矯正用のメガネを掛け始める。
・1926(86歳) 12月5日死去。

資料はネットオークションで手術後にさっそく手に入れたカタログ「マルモッタン・モネ美術館蔵 モネ展 図録」(2015)より引用しています。このマルモッタン・モネ美術館はモネの晩年の作品、つまり白内障にかかる前の絵の他に、かかってから手術をするまで、そして手術後の作品(と思われる絵)が特に多く所蔵されているので、今回の私の関心事に関しては最もふさわしい美術館であり、美術展だったということになります。

 

白内障になってどうなったか

モネは50歳になった1890年に、終の住みかとなるノルマンジーの村ジヴェルニーに土地と邸宅を買い、買い増ししながら広げ、例の「蓮の池」を作り、日本風の太鼓橋を架け、バラを植え、庭にもアトリエを作るなどしていきました。眼に異常を感じるようになったのは1908年(68歳)の頃と言うから、引っ越してから18年も経っています。白内障の手術は1923年(84歳)ですから、1908年から1923年の間に描かれた絵は明らかに白内障にかかった影響が現れているに違いありません。そのような絵が実際に存在しています。

<絵画:日本風の橋の光景>

次の図は睡蓮の池にかかる日本風の太鼓橋の風景をほとんど同じ位置から異なる時期に描いたものです。左の絵は1900年だから正常な眼の時であり、右の絵は1918-24年となっていて描いた時期の幅が広いので特定できません。白内障にかかっていた1918年に書いた絵を手術後の目で見てあまりにも変わっていたので、手術後の1924年に少々手入れした可能性があることを暗示させます。とは言え、1918年の絵は、視力が衰えていたために全体がボケていて暗く、黄色がかっていて、私の体験との違和感はありません。

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<絵画:画家のアトリエの光景>

次の絵は「バラ園から見た画家のアトリエ」と題した同じ位置から描いた1922年の白内障の時の絵と、手術の年(1923年)をまたいだ1922-24年の絵です。

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左の絵はボケていてすべてが黄色から赤味を帯びた色彩になっています。右の絵は正反対にすべてが青白く描かれています。この色彩変化は私の手術後に見た光景にそっくりです。最初の手術をしたのは1923年の1月だから、左側の絵は1922年と言っても手術直前に描いていた絵の一つで、ひょっとしたら未完成のまま放置され、手術後にみた色の世界があまりにも変わっていたので、1924年に大幅に手入れをしたのではないかとも考えられます。とにかく美術館側もモネが描いた年を特定できないと説明しているので、本当のところはわかりません。

 

モネの色彩世界の変化

モネが白内障にかかった年齢では、目の前の色彩の世界は物理的に言えば下図に示した高齢者(Older)ようになっていたはずです。しかし若者(Young)から高齢者(Older)への色彩世界の変化は極めて徐々に起こっているので、私の経験からいえば、それに気がつくことはまずありません。モネは68歳の時に眼の異常を感じたのですが、その時は右と左の眼のバランスがおかしくなったとか、視力が衰えたとの気づきであったでしょう。眼医者に行く気になって白内障と診断されたのはその4年後のことであり、手術を受けたのは更にその12年後と言うことになります。つまり、眼がおかしいと気がついてから16年たって84歳で手術をした時は、特に右眼の白内障がかなり進行していたことは疑いありません。その時には図の高齢者(Older)のように、全体的に網膜までの光の透過率が落ち、特に青色から緑色にかけての寒色系の色が見えにくくなっていたはずです。赤色の側の暖色系の色の見え方の低下が少ないことは明らかです。これらのデータはモネの描く同じ場面の色彩世界の違いを説明しています。

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手術後のモネの黄色いメガネ

モネは手術後、黄色に着色したメガネを掛けるようになりました。手術した右眼用はぶ厚い黄色の凸レンズ、手術をしなかった左眼用は曇りガラス状の黄色のただのガラスフィルターのようにみえます。ベッドの上でそのメガネを掛けて、意気消沈したように横たわっているモネの写真(左)が残っています。

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「モネ展 図録」の説明によると、説明によると、このメガネは 『白内障の術後の色覚異常矯正するための仕組みになっている。左目のレンズは、左右の眼の見え方の違いから生じる二重像を防ぐため、不透明になっている。右のレンズは手術を行った眼のために少し黄色に着色してあり、分厚い凸レンズとなっている。黄色は青が強く見える状況を改善し、さらに以前より光をまぶしいと感じる問題を解消してくれるものとなった』 とありました。黄色は青色の補色であり、見えすぎる青色を白色に変えています。

 

見えない眼で絵の具の色をどのようにして選んだのだろうか

モネが手術をした右眼は、その直前ではほとんど失明に近い状態ではあったかと思われます。また手術をしなかった左目でも視力は著しく落ち、色彩認識は白内障にかかる前とはかけ離れていたはずです。またそのことを画家であるモネはよくわかっていた、と思うのです。たとえば、目の前の春の若葉を見て、表現したい色をパレット上の絵の具から見て、選んで、キャンバスの上に移す時に、描いた色が「春の若葉の色はこんな色だ」という過去の経験からの記憶色と違ってしまうことが多々あったと思います。

下の写真に示すようなモネのパレットが残っています。残っているということは、最晩年の最後の絵を描いた時に使った状態で残っているはずです。白内障に掛かる前、白内障にかかったあと、そして手術後にも使ったパレットであろうと思いたいのです。印象派の画家はパレット上に基本となる少数の色相の絵の具を置いていることのが特徴です。印象派で点描画家のスーラもそうでした。それら少数の色をキャンバスの上に移し、並置して視覚混合させ、色彩を表現するというシュヴルールの言う「色彩調和論」を実践していました。だから、パレット上のどの位置にどの基本色があるのかは決まっているので、あらためて探さなくてもわかっていたと思います。だから、色の識別が白内障で困難になっても何とか絵が描けたのでしょう。もう一つ言えることは、目で見て選択する色の識別はむずかしくても、絵の具のチューブには色番号が書いてあるから、その番号を何とか読めば、長年の経験から望みの色を描くことができたでしょう。絵の具チューブは米国人画家ジョン・ゴフ・ランド(1801-1873)によってすでに1841年に発明されていました。

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白内障はなぜ起こるか

日本人に多い病気は厚生労働省の調査(2008)によると、1位:高血圧、2位:歯の疾患、3位:糖尿病、4位:がん、5位:脳血管疾患、そして6位:白内障のようです。白内障は年齢と共に誰もが必ず罹る病気です。しかし「眼内レンズ」手術が進歩したおかげで誰もが直る疾患となったと実感しています。

間違っているかもしれませんが、私は白内障の症状の発生メカニズムは次のように理解しました。先ずは眼の構造を下記に示します。

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「白内障」は他人から見ると相手の眼が白くなって見える病気です。緑色に見える場合は「緑内障」です。白内障にくらべたらかなり重篤な眼の疾患です。白くなって見えると言うことは、光学的には透明なはずの水晶体の中に光の散乱体、すなわち周囲の体液と屈折率の違う蛋白質の変質した粒子のようなものが多数発生し、散乱して光が網膜に到達しにくくなったことを意味しています。蛋白質が変質して少々硬くなるだけでも、屈折率はわずかに高くなりますから、光路は乱れ、光はまっすぐには通らなくなります。水晶体細胞は皮膚と同じように新陳代謝で新しい細胞が生まれて老廃物が発生する(らしい)のですが、しかし体表面の皮膚と違って垢のように体外に効率的に廃棄されるメカニズムがありません。つまり眼球の中に老廃物が堆積されていくことになります。私を含めて高齢者の眼球がぶよぶよと大きく張り出すようになってくる原因だそうです。

同時に、加齢や紫外線、過剰な強い光などにより、タンパク質が変性して黄色く着色したり、色素が沈着したり、硬化していく現象も起こります。その結果、周囲が暗くなると急に見えにくくなったり、視力が低下したり、さらには網膜までの透過率の波長依存性が前述の図ように変化して、色の見え方が変わってくると私は理解しています。ただし色の変化はほとんど自覚がありません。手術をして初めてわかることになります。

 

古代から白内障手術は行われていた

モネの白内障の手術は1923年に行われ、治療後はメガネを掛けていました。私の白内障手術の場合のように「眼内レンズ」を入れてはいません。90年以上も前のモネの手術はどのように行われていたのか、白内障手術の歴史を調べることにしました。参考にしたのは、主として 「白内障手術の歴史」(三島済一、「臨眼」誌 連載 全4回、1994年〜1995年)他です。

それによると古代の人は寿命が短かったとは言え、白内障にかかる人もいたようです。お釈迦様が生まれる頃の紀元前800年頃、つまり今から3000年も前に、インドのベンガル地方にいた“ススルタ”という名高い医者が医学書をしたためていて、その中に白内障の手術をしたという記述があるそうです。この手術の方法は変質して硬くなった水晶体を針で突いて、眼の内側に落とすという荒っぽい方法でした。この方法は、"Couching"(クーチング、硝子体転位法)と呼ばれているようです。

水晶体がないと強度の遠視の状態になります。レンズがないカメラのようなものですが、それでも明暗はわかるようになるし、ひょっとしたらピンホールのメガネで目の前の光景が見えたのかもしれません。この手術の方法は1800年頃まで、日本を含めて世界の各地で行われていたようです。

日本ではこの白内障を意味する言葉が、平安時代に書かれた現存最古の医学書「医心方」(いしんぽう、984)に出ているのだそうです。白内障の手術は、水晶体を眼の中に突き落とすという上記の"Couching"法が室町時代の初期(1350〜1360)には行われていたとのことですが、おそらく中国から伝わったのではないかとされているようです。ずいぶんと昔から白内障の手術は行われていたことになります。

18世紀になると、変質した水晶体を手術で眼の外に取り出すという方法がフランスで考案されました。"Extraction"(エクストラクション、水晶体摘出法)と言うようです。この方法の方が危険は少ないということで、"Couching"法に代わって20世紀半ばまで行われていきます。1923年のモネの右眼の白内障手術は、水晶体を摘出するというこの"Extraction"法で行われたことになります。何とか見えていた左目はあえて危険な手術を行わなかったのでしょう。

年をとれば誰でも遠視になります。年齢とともに水晶体はかたくなり、水晶体の厚さを調整する機能が困難になり、近くのものにピントを合わせることができなくなります。凸レンズを遠視用のメガネに使うというアイディアはすでに13〜14世紀にイタリアで考案されていたというから、白内障手術をして水晶体を取ってしまっても、強い度数の凸レンズ・メガネで視力は何とか補正できたのでしょう。見えないよりはましですし、何も文字を読めないよりは少しでも読めて方が良いに決まっています。手術後のモネのメガネはそれだったと思います。

 

「眼内レンズ」という眼科手術の革新が起こった

では、今日のように水晶体を取りだした跡に眼内レンズを入れるというアイディアに成功したのはいつからであったのだろうかと調べてみると、眼科手術に革命を起こしたこの「眼内レンズ」法は、1949年にイギリスの眼科医Nicholas Harold Lloyd Ridley(1906-2001)が行った手術が最初のようです。そのイノベーションの発端となった発見のプロセスが興味深かったので以下に書いておこうと思います。

1940年8月15日、英国空軍戦闘機ホーカー・ハリケーンに乗っていた第601飛行中隊リーダーのパイロットGordon Cleaverがイギリス本土のウィンチェスターの上空で撃墜されました。ドイツ空軍との“Battle of Britain”が始まって1ヶ月ほど経った頃です。彼は2日前には双発のメッサーシュミットBf.110を撃墜しているのですが、この日は、記録にはないのですが、ハリケーンよりも航空性能に優れていたドイツ空軍の戦闘機メッサーシュミットBf.109に撃墜されたのではないかと私は思っています。彼はパラシュートで脱出して命は助かったものの、撃墜された際に風防(キャノピー)の破片が両眼に突き刺さったのです。18回もの眼の手術を行うことになりましたが、しかし破片を残したまま左目の視力は著しく低下し、右目は失明しました。

 

その後、英軍の眼科医Ridleyが眼の治療処置でCleaverの診察を担当することになりました。その際に、彼はCleaverの眼の中に入っていた風防材料のアクリル樹脂(ポリメチルメタアクリレートPMMA、ICI製)の破片が、ガラス製風防材料の破片の場合は炎症を起こすのに対して、何の炎症をも起こしていないことを発見したのです。アクリル樹脂レンズなら炎症を起こさずに「眼内レンズ」に使えるとのRidleyのひらめきを実際に眼科治療に試みるには、しかし長い平和な時間が必要でした。

 

Ridleyは第2次大戦後になって、そのことを思い出し、アクリル樹脂で眼内レンズを作ることにし、1949年にそのレンズを用いてインプラント手術を試みたのです。Cleaverが撃墜されてから10年もの歳月が経っていたことになります。このRidleyの方式は今日までも踏襲されている眼科手術におけるイノベーションとなりました。私も彼の恩恵を受けていることになります。

後日談として、「眼内レンズ」のイノベーションのきっかけとなった戦闘機ホーカー・ハリケーンのパイロットCleaverは70歳になった時に、白内障手術を行って「眼内レンズ」を入れ、40年ぶりに視力が回復したと言うことです。

最後に付録として、白内障とは直接には関係ないのですが、「眼内レンズ」発明のきっかけとなったホーカー・ハリケーンの勇姿を載せておきたいと思います。写真とともに示したハリケーンの三面図は「第2次大戦 イギリス軍用機の全貌」(酣燈社 昭和36.11.25)から引用しています。この図は、当時、ヒコーキを描かせたら右に出る人がいないと言われていた橋本喜久男さんの作品です。ホーカー・ハリケーンは名機スーパーマリーン・スピットファイア(「第75話スピットファイアを見つけた!」を参照)にくらべても性能が劣る平凡機だったのですが、スピットファイアに次いで大量に生産されために、幸運にも第2次大戦中のイギリス空軍を代表する戦闘機になりました。

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2017年6月27日 (火)

第94話:白内障の話 その1 私と白内障

第94話 白内障の話 その1 私と白内障 v.3.0

 

発端:星が二重に見えた

2年前か3年前のある時、秋の夜道を駅から我が家に向かって歩いていました。我が家は箱根山のふもとに位置しているので夜空は街の中よりも暗く、星がよく見えます。西の空を見上げると箱根山の上の方に明るい星が二つ並んで光っていました。今日は金星と火星が並んで見える運のいい日だったのかなと、何だか得をしたような気分で合点して歩いていました。しばらくすると、道のずっと遠くで光っている街灯が黒い山影を背景に見えだしました。しかし、明かりは1つのはずなのに、2つの光の点に見えるのです。二つに見えた金星と火星は実は一つの星であって、眼の方がおかしくなっていると気がついた最初でありました。

翌日の昼間に、明るい光の中でモノの見え方を注意して観察すると、近くにあるモノはそれほどでもないのですが、遠くにある電柱などがはっきりと二重に分かれて見えています。これまで気がつかなかっただけなのだと初めてわかりました。最近になって視力が衰えてきたなと感じて来ていたのですが、この“乱視”が原因だったと実感しました。それで、近所の眼科医に行くことにしたのです。

頼りなさそうな医者が言うには「軽い白内障です」との診断。自分がまさか白内障にかかっていたとはにわかに信じがたい出来事でした。聞いた最初の思いは「もうそんな歳になったのか!」でした。それでも日常の生活にはそれほど困らなかったので、あてがわれた目薬を気分休めに時々さす程度で毎日を過ごしていました。それから1年以上は経ったと思うのですが、自動車運転免許証の更新の時期が半年後に近づいた時に、気になって街の眼鏡屋で視力を検査してもらったら、免許証更新の眼の検査に合格しないほど視力が衰えていることがわかりました。白内障とは眼の水晶体が白濁する疾患であると理解していましたから、モノが二重に見えることと白内障との関係がよく分かりません。しかし調べてみると、白内障の症例でモノが二重に見えるとの報告もあります。そのような次第で、自動車運転免許証を更新するには白内障の手術が必要であろうと観念しました。

 

最初の検査:幻想的な光の世界に出会った

これまで眼の病気にかかったことがなく、眼科とは縁がありませんでした。実を言えば、我が家の父方の家系は江戸時代末期からの眼医者であるし、眼科医のおじさんの家には子どもの頃はいつも遊びに行っていたし、従兄弟は大学の眼科の教授だったし、その息子も眼医者になったのだから、東京の親戚の眼科医に行けばいいのですが、何時間も掛けて行く気にもなりません。そのような次第で、この地域で最も白内障手術を多くやっているとの評判の眼科医を人づてに聞いて、確率的にも私が失敗例に当たる事は滅多に無いだろうとそこに行くことに決めました。調べてみると新しく建てた本院の他に分院や手術専門の分院など3つも新しい施設を保有しているほどに繁盛していて、リストされている最新の検査機器や治療機器も素人目にも充実しているようでした。まあまあ安心してもよさそうな眼科医でした。

それで覚悟して先ずは検査に行きました。当然ながら白内障との診断であり、「手術をしますか」と直ちに聞かれました。クルマが運転できないと田舎の生活もままなりません。「お願いします」と言ったのですが、手術はすぐにではなく、3ヶ月後とのこと。数十人、ひょっとしたら百人を越える手術待ちのご同輩がいるということです。高齢化と共に白内障患者はうなぎ登りに増えていくでしょう。しかも命に関わる話でもありません。高齢化時代の眼科医は少子化時代の小児科医よりもはるかに商売繁盛することは確実でありましょう。

飛び込みで午後遅く検査にいったので、帰りは夜になっていました。医院の入口を出て道路に出てみたら、おどろくほど光の環に満ちあふれた光景に出くわしました。本当に、びっくりしました。イルミネーションで光り輝いている大小さまざまな夜の観覧車が目の前に現れたと言えばわかって貰えるのでしょうか。街灯やクルマのライトなどあらゆる点光源がその周囲に10個かそれ以上の点状の明るいリングになった多くの光源に変化して見えるのです。二重に見えるどころではありません。あちこちの街の光源がすべてそのようなリング状の光源に変化し、互いに重なり合って実に美しい。それがまた動いています。マリファナなどの幻覚剤によってもこのような光景がみえるのかしら、そうなら体験してみたいと思うような初めて見える美しさでした。

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この美しい光景は眼の検査の時に用いた瞳孔拡張剤が直接の原因なのですが、しかし白内障にかかっていなければ見えなかったのではないかと思います。今回は瞳孔が拡大されたために白内障によって生じた水晶体周辺の光学特性の異常が現れるようになったこと、加えて周囲が太陽の拡散光で満ちた昼間ではなく、クルマや街灯などの点光源が支配していた夜の光景であったことが原因であろうと推測しています。このような私の体験した光景をファンタスティックな画像として他の人も見せてあげたいのですが、夜の光景を撮ったデジカメ写真をどのようにデジタル画像処理をすればよいのだろう。知りたいものです。

 

手術:自分で見たかったな

それから3ヶ月後、最初に左目の手術をやり、1週間をおいて右目を手術しました。これまで心筋梗塞のステント埋め込み手術はしたけれど、メスを身体の中に差し込まれ切られるという外科手術はこの歳になるまで経験がなく、今回の白内障手術が生まれた初めてでした。手術は眼に麻酔剤を点滴した後、角膜の脇の方を2mmほどナイフで切開し、硬くなった水晶体を超音波振動子で細かくしながら細いパイプで吸いだすという手術(らしいの)のですが、これらの手術はすべて顕微鏡下で行われます。手術台の上に寝ている時間は1時間くらいですが、手術の本番は8分もあれば終わってしまいます。簡単だと言われても、やはり緊張しました。

「明るいところを見つめて下さい」と前もって言い渡されているので、意識して眼を開け、真上の手術灯を見つめていました。周囲の明暗はぼんやりとわかります。洗浄液というのか、何かの液体をあふれ流れるように眼に注いでいることもわかりました。麻酔をしているとはいえ、グッグっと眼にメスが刺さり、切り開らかれていくといういやな感触は伝わってきました。ときどき痛くなってウッと身構えると、「痛いですか」と担当医がいうので、「はあ!」と声を出したら麻酔剤を追加してくれました。

隣の控え室にいた配偶者はモニターテレビでこの手術を見ていました。あとから聞くと、担当医が手こずりながら硬くなったようなものを吸い出していたというのですが、その時のことだったのでしょう。水晶体は加齢により変質して硬化していたようです。そのあと人工の水晶体、つまり直径6mmの眼内レンズを丸めておいて、たった2mmほどの長さの切れ目から、特殊なインジェクション(注入器)で空になった水晶体の跡に挿入して広げて終了。すごい技術です。

自分でも手術の一部始終をずっと見たかったな、と思います。以前、心筋梗塞でステントを挿入する手術をした時は、目の前に手術用モニターがあって、担当医と同じように手首から心臓までカテーテルが伸びていく血管造影撮影(アンギオグラフィ)の動画を見ることができてうれしかったのですが、眼の手術では目の前にモニターがあっても見るわけにもいきません。

 

眼内レンズ:水晶体の代わり

下図は私の眼の中に挿入されたHOYA製の「眼内レンズ」です。手術指示書を盗み見して製品番号をメモしておいたので調べることができました。レンズ部分は直径6mm、安定させるための腕を入れると13mmもあります。この眼内レンズは紫外線吸収特性を持たせ、黄色に着色された軟質アクリル樹脂のようです。シリコン樹脂製もあるようですが、PMMA樹脂、つまりアクリル樹脂の方が屈折率は高いのでレンズ部分を薄くできます。紫外線吸収性は紫外線による術後の新たな白内障の発生を抑えるためであり、黄色の着色は術後の青色感度の急激な増加を緩和するためです。自分では気がつかなかったのですが、白内障にかかっていた年配者はもともと黄色のサングラスを掛けて世の中を見ていたのです。

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手術当日はしばらくベッドで休んだあと、配偶者運転のクルマに乗って自宅に戻りました。泊まらなくても「一日入院」になると初めて知りました。本当に大丈夫かなと思ったのですが、手術をした翌日の検査に行った時に早くも眼帯を取って、まぶしいほどの新しい色彩世界を見ることができました。挿入した眼内レンズはそれまでの肉眼の可変焦点レンズ特性と違って、明視距離に焦点が合うような固定焦点レンズにしてもらいました。これからの人生で眼の焦点の具合がどう変化するかわかりませんので、多焦点レンズはやめました。だから対象物に合わせて焦点を合わせるという肉眼のような芸当はできません。本や新聞を読む程度なら中学生の頃から掛けていたメガネを掛けずに生活が送れるのですが、自動車運転のように遠くを見る場合には新たにメガネが必要になります。人の眼はすばらしいなとつくづく思います。1週間後には右目の手術も無事終わりました。1ヶ月後には術後の両方の眼も落ち着き、視力を1.2に調整したメガネも新しく作り直し、その週のうちに警察に行き、運転免許証をも更新することができました。

 

知らない間に色の世界が変わっていた

以上で白内障手術の顛末は終わるのですが、実は手術に期待していたことは視力を回復することもさることながら、色彩世界がどうなるのかを知りたいことにありました。なぜそのようなことを期待していたかというと、手術の1週間ほど前に偶然にも手に入れた1つのデータ、すなわち眼の網膜に到達するまでの光のスペクトルが加齢と共にどう変わるかという図が載っていた論文を手に入れたからです。まさに手術前の私が知りたい情報でありました。

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図には、1歳から100歳までの人の網膜に至る眼の中の光の波長毎の透過率が載っています。一見してわかることは波長0.4μm(400nm)の青紫色から波長0.7μm(700nm)の赤色までの可視光範囲の中で、加齢と共にカーブが下に下がっている、つまり吸収が起こっていること、そして特に短波長側の光が網膜に届かなくなってくることがわかります。年齢から推定すると、私の場合は子供にくらべて青色(〜480nm)の透過率が1/3ほどに減っていたことになります。この図を見た瞬間に、子供の頃に見た色の世界と、歳を取った今の色の世界はまるっきり違っていたのだと知ってびっくりし、言葉も出ませんでした。

(注)手術後の調査で、この論文の図は国際照明委員会(CIE)から発行されている技術報告書 『ヒトの眼の透過特性と吸収特性に対するコンピュータアプローチ(修正1を含む)CIE 203 incl. Erratum 1』 報告書から引用されていることがわかりました。原本は日本照明委員会(JCIE)から入手できますが、まだ手に入れていません。

 

白内障は身体のあちこちに影響を及ぼしている

下図は、光によってヒトの睡眠を支配するメラトニン量の加齢によるスペクトル依存性を論じた別の論文から手に入れました。この論文は、直接は白内障とは関係ないのですが、加齢にともなう眼の透過率の変化の図がでていたのです。この方がわかりやすいかもしれません。
 (原題は“Aging of Non-Visual Spectral Sensitivity to Light in Humans: Compensatory Mechanisms ?” 。つまり「加齢にともなって生じるヒトの補償メカニズムの非可視光波長依存性」とでもいう研究論文)

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上の図Aは加齢にともなって、つまりYoungからOlderになると青色領域(480nm)の透過率が43.2%も減少すること、図Bは図Aか得られるデータをもとに、ホルモンの一種であるメラトニン分泌の光による抑制効果が特に青色領域の光で軽減されることを示しています。メラトニンは夜になると分泌が高まり、睡眠機能、身体の日周期リズム調整機能など、身体にさまざまな影響を及ぼしているのですが、高齢化によって生じる白内障は視力や色彩の見え方ばかりでなく、眼からの光を通じて身体全体の健康状態にまで影響しているとは知りませんでした。

 

目の前の光景は「真実」ではないのだ

このような変化は徐々にゆっくりと起こっているので、自分では気づきません。これまで目の前で見えている「現実」を「真実」と信じてきたし、それを最後のよりどころとしてさまざまなものごとを理解し考えてこれまで生きて来たのですが、その目の前の光景が若い頃とはかなり違っていたのだと知りました。本当の「真実」が年齢と共に違ってきていていても、異なる「真実」を本当の「真実」と信じていたことになります。哲学問答のように、本当の「真実」とはいったい何なのかと考えてしまいます。生まれた時から盲目の人が成人になって眼が見えるようになった時に、色とその名前が理解できず混乱してしまい、再び盲目の世界に戻りたいと言った実際の事例も理解できます。

ともあれ、そのような次第で、手術前後の色の世界の変化がどうなるのか大いに興味と期待を持って手術の日を迎えました。特に、手術をして新しい色彩の世界を見ることになった左目の光景と、まだ手術前の白内障にかかった右目の光景が同時に体験できる1週間の色彩の世界は貴重でした。まるっきり違う光景が体験できるのです。どちらかの色彩世界を見たかったら、どちらかの片方の眼をつぶればいい。高齢者の色の世界と子供の色の世界の両方を味わえます。ふつうは色の微妙な違いは同時に並べて一対比較しないと認識できないものですが、今回は眼の方が変わってくれています。このような体験は人生に二度とあるまいと思います。実際に手術後の時間が経つにつれて、手術前の見え方がどうであったのか、まったく分からなくなりました。

 

クリアで青白く明るい世界になった

手術の翌日、眼帯が取れた最初の夕方の居間の光景におどろきました。居間の蛍光灯のいつも見慣れている光景を手術前の右目で見た場合と、手術後の開いたばかりの左目の光景をくらべると、右目は色温度2800kほどの暖かみのあるいつもの電球色で、左目はカメラの絞り値値を3段上げたほどのまぶしい白っぽいと言うか青っぽい色温度6800kほど、あるいはそれ以上の高い色温度の光景に見えました。まるっきり違う光景だったのです。

翌日になって見た昼間の居間の白いレースのカーテンは、白内障の右目で見るといつものように白く見えるのですが、手術後の左目で見ると実に青っぽくてまぶしいほどの光景になっていました。数日経って慣れてきた状態で、手術後の左目をつぶり、あらためて白内障の右目で見直す動作を繰り返し、最後に白内障の右目で見つめると白いカーテンが実に黄色っぽく、と言うか褐色に見えるのです。これまで白内障の目で見てもそのカーテンは常に白かったのに。ヒトは常に“学習色”や“記憶色”で対象物を見ていることを実感しました。徐々に白内障が進んできたので、カーテンの色を“本当”は黄色に見えていたはずなのに、手術後の右眼は子供の眼に戻って白色として認識していました。しかし白色が正しいのか、黄色が間違っていたとどうして言えるのか。「真実」とは何か。「認識」とは何かとの哲学の根本問題に触れた感じです。

 

さまざまなモノの見え方の変化

我が家には赤色・黄色・薄青色・白色の単色の大倉陶園のモーニングカップがあります。それらを食卓の上に並べて、右目で見たり、左目で見たりしました。赤色の変化はほとんどなく、黄色は若干、青色に至っては大きくずれていました。青はくすんだ青色から鮮やかな青になっていました。白色のモーニングカップは手術前の右眼で見ると手術後の左眼よりも黄色っぽく見えるし、庭の木々の緑はキラキラした明るい新鮮な緑に変化していました。今まで一体何を見ていたのだろうという感じです。

これまで色について、配偶者と大いに意見が異なったことがたびたびありました。たとえばセーターを買った際に配偶者は緑っぽい色だと言うのに、私の方はどう見たってグレイだとしか見えなかったことがたびたびありました。互いに相手の色彩センスがおかしいと果てしない論争になったものです。私自身は色盲になったのかなあとこっそりと気に病んだこともありました。それも白内障が原因だったのかとやっと納得しました。眼という画像センサーの特性や計測条件が同じでないと、同じ現象でも異なる結果が得られることは当然でした。配偶者との色についての果てしない論争は終わりました。次は配偶者の方が白内障にかかる順番です。今度は私は色の違いを理解できるようになったはずです。

何年も前の話ですが、ある時オシッコの色が次第に濃くなっていくことに気づきました。とうとう身体が動くこともままならなくなって病院に検査に行ったら黄疸と診断され、急性肝炎で緊急入院したことがありました。それ以来トイレで見るオシッコの色は肝臓に異変があるかどうかとのバロメータになっていました。そして今回の白内障手術後に、オシッコの色が異常なくらい黄色になっていることを発見し、また肝臓が悪くなったのかと心配になりました。しかし、ときおり検査している肝機能検査値ではまったく異常がありません。結局、白内障の手術によって眼の色彩特性が変わり、オシッコがより黄色く見えるようになっただけでした。

最近の懐中電灯はすべて白色LEDになっています。これで照らされた白地の背景は、手術前の眼にはきれいな白色であって特別な違和感はなかったのですが、手術後の眼には青色のムラのあることが明瞭にわかりました。白色LEDはInGaN組成の半導体LEDから発光されてくる470nmほどの青色光と、その光でYAG:Ce 系蛍光体を励起して発光した黄色の光とを混合させて疑似白色を作っています。青と黄色の補色の関係を利用して白色にしているのですが、その青色光がはっきりと見えるようになったのです。世間ではこの青い漏れ光のことを問題にしている、まだまだ白色LEDは改良の余地があるとやっと身体で理解することができました。

 

デジタル写真で再現したかったな

この私の見た色彩世界の変化をデジタル画像で残したいと思いました。まずとりあえずは、変化が大きかったさまざまな光景をデジカメで撮り溜めておきました。しかし単純に色温度を変えただけでは再現できないことは直ぐにわかりました。手術後の目で見た画像に相当する通常のデジカメ画像を、加齢にともなう眼の透過スペクトルで画像処理してやればいいのですが、私にはその高度な画像処理ソフトもなければ、その技術も持ち合わせてはいません。いつかはやりたいと思うのですが、今は無理とわかりました。

そうこうしているうちに、あの印象派の画家モネは当時としては珍しいほどの高齢者であり、当然ながら白内障にかかり、最晩年に手術をしていたことを知りました。彼は画家として手術の前と後で同じ光景の絵を描いていたのです。この出来事は絵画マニアの世界ではよく知られている話のようなのですが、門外漢の私は知りませんでした。モネが私の体験とどのように違うのか、同じなのかを知りたくなりました。彼は私の体験を絵画として見せてくれるかもしれません。それに、彼の白内障前後の絵の変化を理解するにも白内障はなぜ起こるのかについてもう少し詳しく知っておきたいし、今から1世紀近くも昔のことだから白内障の手術も今と違っているはずです。 もう少し調べることにしました。

(第95話に続く)

 

 

 

2016年9月 2日 (金)

第93話 私のチェルノブイリ、そしてフクシマ  その2

第93話 私のチェルノブイリ、そしてフクシマ  その2

 

3.フクシマ原発事故

チェルノブイリ原発事故から35年たった2011年3月11日に、大地震と大津波によってフクシマ原発事故が発生した。放射性降下物は原発周辺ばかりでなく、遠く離れた東京にもやって来ていた。

3月15日に東京の病院で撮影された医療用レントゲン写真画像に黒い点の出ていることが発見されたのだ。東京まで運ばれた放射性降下物が病院の中に入り、放射線室の中の私たちが開発した放射線画像センサー「イメージング・プレート」に付着し、放射された放射能を検出していた。放射性降下物による写真フィルムの品質故障であるGPS(Giant Black Spot)と同じ現象である。イメージング・プレートは自然環境放射能レベル以下をも検出するので、いち早く異常を検出したというわけだ。この事実はふつうの家の中まで放射性物質が入り込んでいるとの証拠となり、多くの人をパニックに陥れた。

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すでに放射線とは無縁の日常生活を送っていたのだが、フクシマ原発事故には大いに関心を持って見ていた。しばらくして、昔のことを知っている知人から、地域の教育委員会協議会の研修会で校長先生はじめ、学校の先生達に放射能の話をするように頼まれた。フクシマ原発事故からまだ日が浅く、放射性降下物もこの地方に飛ばされてきていたこともあって、地域の人たちも放射能汚染パニックになっていたのである。先生達もどのように対処して良いのかわからなかったのかもしれない。

日本では、特に放射線や放射能の話は原爆などからの怖い話だけが伝わり、放射線の科学的な解説そのものについてはほとんど知らされていないのが現実である。「幽霊の正体見たり枯れ尾花」ではないが、放射線について少しでも理解してもらえれば、落ち着いて対処することもできると思い、、多数のスライドを作り、題して「身近な放射線の話」として講演した。以下はその時の要旨である。

 

 

<身近な放射線の話>

 

はじめに

「災難に逢う時節には災難に逢うがよく候。死ぬる時節には死ぬがよく候。これはこれ災難を逃がるる妙法にて候」。これは江戸時代の良寛さんが地震に遭った越後の友人にあてた手紙に書いた言葉です。

私たちの住む日本は変化のある四季がきっちりと巡り、時々起こる大雨・地震・台風・火事などの災難はすべて一過性のものでした。災難の起こった時がどん底であり、それ以降は頑張っていけば自分の世代の時間の中で何とかなってきたものです。しかし今回の3.11震災は一過性の従来の災難に加え、子孫代々までにおよぶ災難が加わっています。まだ収拾がつく見込みが立っていないフクシマ原発事故です。何とかしたくても何ともできない半減期の長い放射能による災難であり、このことが私たちの心の中に、これまでの災難と違って特別に重くのしかかっていると思います。

 

私たちは昔から放射線の中で暮らしてきた

とは言え、太陽の光や空気と同じように、私たちは原始の時代から放射線の中にどっぷり浸かって暮らしてきました。宇宙線や大地、建物の壁や床、身の回りにあるさまざまな品々から放射線はやってきますし、食物や空気中の放射性ガスから取り込んだ放射性同位元素が身体の中に存在していて、私たち自身が放射線源でもあります。それが常なのです。

私たちが暮らしている足柄平野はたまたま日本で最も自然環境放射線レベルの低い地域です。箱根山が太古に大噴火を起こした際に、放射性同位元素カリウム40の少ない火山灰を大量に降り積もらせたおかげです。日本の中には足柄平野よりも約5倍も高いレベルの地域があり、世界ではその数十倍もの高レベルの地域があります。人類はそのような環境で進化して来たのであり、そこで健康に暮らしてきました。だから放射線の中で暮らすこと自体に恐れを抱くことはありません。注意すべきことは、フクシマ原発事故で新たに加わった放射性物質が私たちの健康にこれまでと違った異変をもたらすのかどうかです。

 

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基準はどのようにして決まってきたか

放射線の健康への影響に関する基準とその論理はすべて <しきい値なしの直線(LNT)仮説> が前提になっています。これは、大量の放射線を短時間に浴びても、微量な放射線を長時間浴びても、放射線を何度も間欠的に浴びても、その積算量が同じならば同じ影響を与えるという仮説です。放射線作業者や事故などで大量に一時的に浴びた場合は過去にデータがあり、この仮説は成り立つのですが、ふつうの市民のように何年もの長期間に微量に浴び続ける場合のデータはありません。だから大量被曝のデータをゼロに内挿して微量の場合を推定してきました。

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これらの基準を作った当事者たちは、「この仮定は正しくないかもしれないが、危険を過小評価する恐れはないことで満足している」(国際放射線防護委員会ICRP勧告1965)と 告白しています。この仮説は短期間に大量被曝の可能性がある放射線作業従事者に対する世界共通の管理基準として設定するには好都合でした。ある仮定のもとで数値としてきっちりと決めることが出来るからです。

一方、市民に対しては、根拠もなく放射線作業従事者の1/10に安全率を設定し、“市民生活をしていく中で危険を過小評価する恐れはない” としているものの、しかし 「1988年の自らの報告、それに基づいて作られている1990年のICRP勧告のリスク推定値は大きすぎる可能性がある」(国連科学委員会報告1994)と率直に認めています。この結果、低めに設定した基準は微量な環境放射線量の変化に対しても過剰なほどの市民の反応、つまりパニックを市民に起こさせる原因にもなっていることは確かです。その基準よりも少しでも大きいとリスクが大きい、危険だとのメッセージでもあるからです。

 

人には生体防御機構が働いている

長期間にわたる微量の放射線の被曝に関して、以前は「遺伝に影響する」とされていましたが、現在では「遺伝への影響は人では見つかっていない。遺伝的影響よりも“がん”である」(ICRP勧告1977) とされました。加えて「科学界は何年か前から、低線量の放射線を照射された細胞と生物は、放射線の影響に対して適応するような変化を起こすことに気がついていた」とし、さらには「従来の低線量放射線の確率的影響リスク推定値は、適応のような過程に対して何らの考慮も払われていなかったことから、誇張されすぎていたかもしれない」(国連科学委員会報告1994))と これまた率直に認めています。つまり現在の<しきい値なしの直線仮説>は微量の放射線の被曝に対しては間違いかもしれないというのです。

近年のバイオサイエンスの進展により、酸素代謝時に発生する活性酸素や放射線によるDNAの損傷とその修復メカニズムがわかってきました。障害が起こるかどうかはDNAの損傷速度と修復速度のバランスが影響すると考えた方が真実であり、微量の放射線を長期間浴びるような環境では修復機能の方が効果的に寄与していることがあるのでしょう。

 

おわりに

現在の足柄平野における空気中の放射線レベルは原発事故以前の自然放射線レベルとほとんど変わりません。注意するとしたら、原発事故直後にやってきて雨と共に地面にしみ込んだ放射性同位元素(主としてセシウム137)による呼吸や食物を通しておこる内部被曝でしょう。

 

とは言え、放射線の身体に対するリスクに関しては、あるレベルから危険で、あるレベルまでは安全という基準値はありません。多くの仮定から成り立っている リスク論/確率論 であって、不可避的な危険とどのように付き合っていくかとの個人の価値観の問題と思います。とても危険と考える人もいて当然です。リスクがあると思われる食材をまったく食べないことに心がける人もいるでしょう。

しかし私はそうすることによる健康への影響の方が大きいのではないか、食べたものが身体の外に排出される代謝半減期や生体防御機構を考えれば、現状の放射線レベルは重大な影響を及ぼさないのではないかと思っています。それに加え、足柄平野の自然放射線レベルの数十倍の環境で生活していても問題となるような障害は発生していない人たちが世界にはたくさんいるとの事実を信じて生活した方が個人的な精神的ストレスは少ないのではないか、と思って暮らしています。

 

【参考:単位】
・ ベクレルBq(放射線の発生能力):1Bqは毎秒の原子核の崩壊回数(1キュリーCi:3.7×1010Bq)
・ グレイGy(放射線の吸収エネルギー):1Gyは1kgの物質に1ジュールのエネルギーを与えた時
・ シーベルトSv(放射線の生体への影響力):Sv = Gy ×放射線加重係数(発がん性基準)
            (放射線加重係数:γ線・X線・β線:1、中性子線:5〜20、α線:20)

 

 

私が学校の先生たちに講演で言いたかったことは、次のようなメッセージであった。

『 これまでの災害は人為的であれ自然的であれ、一過性であった。原発災害は違う。解決策は今の私たちにもわからない。意図と違った事故が万が一にも起こった時に、その災害の解決策を未来の子孫に委託するようなあらゆる試みを、今生きている私たちはしてはならない』  のであって、

『 まず原発を全廃する時期を決め、それまでに原発に代わるエネルギー源開発に、日本の科学力・技術力・資源力・政治力・経済力を総結集し、実現することと思う。』

しかし、日本政府の現在の政策は、フクシマ原発事故の教訓を忘れ、経済性を最優先にし、原発を続々と再稼働する方針を貫いている。原発問題は“今”の「損か・得か」で判断するのではなく、そのことが人類の将来にとって「善いことなのか・善くないことなのか」で判断すべき事柄であると、思う。 判断すべき、次元が違うのだ。

2016年9月 1日 (木)

第92話 私のチェルノブイリ、そしてフクシマ   その1

第92話  私のチェルノブイリ、そしてフクシマ その1

 

今日は9月1日、防災の日。1923年、今から93年前に関東大震災、正式には「大正関東地震」が起こった日。

地震は人知の及ばない自然の原因で起こる災害なのだが、世界を震撼させた3つの原子力発電所事故(以下原発事故)は、人為的ミスが大きく関わっている。1979年の米国スリーマイル島原発事故、1986年に起こったソ連(当時)のチェルノブイリ原発事故と、その25年後に起こった2011年の日本のフクシマ原発事故の3つである。原子力発電所の安全神話は、ヒトの能力を過信し、かつ自然を制御できると思い込んだ人類の過信の上に築かれていたといえよう。私は、そのうちのチェルノブイリ原発事故とフクシマ原発事故の2つの騒動に、私なりに関わった。記録も残されていないので以下に雑記しておこうと思う。

 

1.中国の核実験

なぜ放射線に敏感になったのか

そのまえに、私がなぜ“放射線”とか“放射能”との言葉に敏感になったのか、記しておきたい。そもそも社会に出た最初の仕事が、原子力発電所に使うウラニウム核燃料被覆管の開発研究であった。しかも研究手段として、その材料(ベリリウムBe ーカルシウムCa合金)のX線回折による結晶構造解析をおこなった。X線回折装置を新たに購入するためにX線作業主任者などという資格も取った。そのために勉強した知識も新たに加わった。研究テーマと研究手段のどちらも放射線に関わっていたので、必然的に放射線に敏感になっていったというわけである。

当時は、将来の日本のエネルギーは原子力が担うのだという希望に満ちていた時代だった。日本の原子力発電もまだ黎明期にあって、商業用原子炉のタイプを、濃縮ウランを核燃料とするアメリカ型にするか、天然ウランを核燃料とするフランス型にするかを決める最終段階にあった。結局日本はアメリカ型を採用したのだが、その結果、フランス型に属する研究をやっていた私の仕事は2年経って中止になった。

若気の至りで、新たな仕事を求めて、畑違いの写真フィルム会社に転職した。入社後、紆余曲折があったのち、まったくの偶然で、基幹研究所で行っていたレントゲン写真フィルム研究室に配属された。この研究室は、医療画像診断用のレントゲン写真システムの基礎研究から商品開発まで行うことをタスクとしていた。ここでも放射線、そして医療との縁ができた。

 

品質故障の発生

写真フィルム会社は核爆発実験による放射性降下物(fallout particle)に対しては、ことのほか敏感であった。特に,中国やソ連など日本の西側で行われる核実験の場合、偏西風の影響で日本に放射性降下物が運ばれてくる。そのために、工場では常時モニターリングポスト(ガイガーカウンター)で放射線量を計測し、毎月1回空気中のほこりをエアダストサンプラーで捕集し、放射能計測をおこなっていた。新聞報道などにより、核実験などで放射能汚染の恐れがあると判断された場合には、放射能計測を毎日の測定に切り替え、全社あげての厳戒態勢を取った。

もちろん、日常的にエア・フィルターや水シャワーなどで工場の建物内に空気中の微粒子が入り込まないように、半導体工場並みのクリーンルーム体制を取っているのであるが、それでも入り込んできたり、原材料に付着したり、人体に付着したりして、製造工程に放射性物質が入り込む可能性がないとは言えない。そうなると、眼に見えない放射性微粒子が製品としての写真フィルムに混入して、のちになって撮影した貴重な写真に原因不明の黒点が現像されることになる。この故障は社内ではGPS(Giant Black Spot)といっていて、極めて重大な品質故障であった

1977年1月にカラーフィルムでそのGPS品質故障が起こった。過去の故障の状況分析から見て、何らかの放射性物質によるものと思われた。新聞記事の調査を行った結果、前年の1976年の中国の核実験は下記のように行われていた。おどろくほど頻繁に核実験が行われていたかおわかりであろう。

  1976年 1月23日      第18回 核実験    地上
      9月26日       第19回 核実験   地上(地上で最大級のもの)
     10月17日      第20回 核実験  地下
     11月17日      第21回 核実験  地表に近い大気中(最大級のもの)

 

故障原因の解析

当時は私の研究グループは、真性ゲルマニウム半導体検出器をはじめとする社内でも最も充実した最先端の放射線に関連する測定解析機器と設備を所有していた。そのため、中国の核爆発実験の放射性降下物によると思われたこの故障の時にも、製造部門からの依頼を受けて、社内の解析部門と一緒に放射性降下物の同定と解析を担当した。

なぜ、私の研究グループが社内随一の放射線計測設備を保有していたかというと、当時、私はレントゲン写真フィルムシステムに代わる新たな放射線医療画像診断システムの探索研究チームに属し、のちに「イメージング・プレート」と呼ばれるようになる蛍光体物質の輝尽発光現象を利用した放射線画像センサーの可能性を模索していた。しかしそのようなセンサーが本当に実現できるかどうかもわからない時期であり、実現できると確信できたのはそれから3年後であり、システムが商品として世界市場に出て行ったのは6年後のことであった。

実現できるかどうかわからないような研究の初期の段階でやるべきことは、目指すテーマに関連する分析装置や測定装置の整備であると信じている。市販品で買える測定装置は購入し、特殊な測定装置は自分で作る。これらの分析・解析設備によって、目的とするモノや現象を世界で最初に測定したり、世界で最初に発見することができる。それによって研究の方向が大きく変わることすらある。独自の分析・解析評価装置が独自の発見や発明を生むのだ。市販の装置だけでは大したことはできない。そのような次第で、放射線に関しては社内随一の解析チームになっていたのである。

ともあれ、GPS品質故障の解析を担当し、混入していた微粒子の核種解析の結果、質量数95付近の元素群と105付近の元素群が検出された。原爆の主体をなすウラニウム235が核分裂を起こすと、質量数95付近の元素群と105付近の元素群(合計すると質量数235になる)の典型的な二山の分布になる(下図参照)。これで核爆発であることが特定できる。 製品に使用した包材の製造年月日などの状況証拠から、この故障の原因は1976年9月26日の中国核実験の放射性降下物によるものと推定された。

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2.チェルノブイリ原発事故

最初の報道

上記の中国の核実験騒動から10年たった1986年の4月29日の天皇誕生日に、ソ連のチェルノブイリ原発事故のニュースを家で知った。その瞬間に、これはいそがしくなるぞと思ったことを今でも覚えている。事故の詳細は翌日の4月30日の新聞の朝刊でわかった。原発事故は実際には3日前の4月26日に起こっていたのだ。数日後には放射性物質が日本の上空にやってくる恐れがあった。

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そのような次第であったので、チェルノブイリ原発事故の最初の新聞報道があった4月30日に関連部門の担当者の打ち合わせがさっそく開かれた時にも、研究部門として参加した。もっとも写真フィルムへの放射能汚染もさることながら、すでにデジタル放射線医療画像診断システム(FCR)が市販されていて、放射線画像センサー“イメージング・プレート”の製造工程への放射性降下物の放射能汚染への警戒が緊急の課題であった。他人事ではなかったのだ。

 

5月5日に最大強度になった

放射能計測として実際に行ったのは、紙フィルター上に固定された空気中のほこりの放射能分布の画像化と、その相対的強度を測定すること、および放射性降下物の核種の同定であった。具体的には、サンプルは空気中のほこりをエアーダストサンプラーで24時間吸引し、紙フィルターに付着させたものであり、そのフィルターをイメージング・プレートに26時間密着露光し、通常のレントゲン写真の20倍の感度で画像を読み出した。前年に行った広島原爆の「黒い雨」の画像化実験の結果から、ガイガーカウンターやシンチレーションカウンターで計測するよりも、高感度に放射能を検出できることが分かっていたからだ。

最初に測定した5月1日のサンプルでは、異常な放射線像は検出されなかった。しかし次の5月3日のサンプルになると、放射線画像は画像として読み取れないほど全面が黒化していた。つまり、サンプルからは多量の放射線が放出されていたのである。実際にその画像を見た時は、いったいどうなってしまうのだろうと背筋が寒くなったほどであった。

あわてて画像化条件を見直して、フィルターとの露光時間を26時間から30分に、つまり感度を1/52に落とした。この条件変更により、画面上の黒点の数が計測可能になった。黒点の数は平常時の5月1日では3cm平方の面積当たり4個であったものが、5月4日になった途端に1718個、つまり放射線量は430倍に急造し、5月5日には2267個、つまり平常時のおよそ570倍になった。さらに増加するかと心配していたのだが、翌日の5月6日には955個、平常時のおよそ200倍になり低下の傾向が観測された。偏西風に乗った放射性物質は日本を通り過ぎつつあることがわかった。

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最大の放射能を示した5月5日のエアダストサンプルを用いて放射能核種の同定を行ったところ、ヨウ素131の存在が確認できた。しかしセシウム137は確認できなかった。一方、広島原爆の「黒い雨」の画像化実験以来協力関係にあった理化学研究所の放射線研究室でも核種の解析をしてもらったのだが、やはりヨウ素131がほとんど100%であり、わずかにヨウ素132とセシウム137が1%弱含まれている結果になった。私たちの解析と合っていたと言える。ヨウ素131の半減期は8.05日なので減衰が早く、時間経過と共に残存する主要な核種は次第にセシウム137となっていく。

 

自然環境の放射能レベルは高止まり

チェルノブイリ原発事故の発生前、つまり平常時から放射性物質がモニターリングポストの測定値の変化を見ると、チェルノブイリ原発の爆発によって発生した放射性物質は6日間ほどかかって5月2日頃に日本に到達し、5月5日に極大値となり、以降急減し、偏西風に乗ってきた放射性物質は日本上空を過ぎ去って太平洋に流れていったことがわかる。チェルノブイリ事故による放射能汚染に対する警戒態勢が解除されたのは事故発生から約1ヶ月半後の6月11日であった。しかしバックグラウンドのレベル、つまりは環境放射線量は事故が起こる前よりも高くなったままに残ったが、放射性降下物によるに品質故障は起きなかった。

とは言え、第2次大戦後におけるおよそ2000回の核爆発実験(そのうち543回の大気圏内核実験.2011年当時)の放射性降下物によって、日本の自然環境における放射能レベルは戦前にくらべて高いままに維持されたのだが、そこにチェルノブイリの放射能が新たに加わったことになる。

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それから35年後に大地震と大津波によってフクシマ原発事故が引き起こされた。 (第93話に続く)

 

2016年8月 6日 (土)

第91話  「黒い雨」の話  v.2.2

第91話  「黒い雨」の話

 

今日は8月6日。  毎年意識して思い出す日。

以下の話は公式には発表されていないので、忘れ去らないうちに記録として残しておきたいと思うようになった。原爆の「黒い雨」の話である。

 

「黒い雨」は生命がいた証拠

1945年8月6日朝8時15分、広島に原爆が落とされた。その直後に、真夏の青空の下で「黒い雨」が降ったと語り継がれてきた。その「黒い雨」には大量の放射能が含まれていたと、これもまた語り継がれてきた。だが、その「黒い雨」はそのあとの雨に洗い流されてしまい、何も残っていないし、解析されたこともなかった、と聞いている。

そもそも、原爆が爆発した直後には激しい上昇気流が起こり、巨大な入道雲になる。地表付近の水蒸気が上空で水滴となり、激しい雨がふることは容易に想像がつく。だがその前、そしてその後のアメリカやソヴィエト連邦などによる何十回もの原爆や水爆の核実験でも、雨は降っても「黒い雨」は降らなかった。核実験は無人の荒野か、ビキニ環礁のような海で行われたからだ。地下核実験の場合もある。つまり、広島や長崎は爆心地近くに大量の有機物の存在あったから、焼けた煤も激しい上昇気流に巻き込まれ、雨が黒くなったのだ。いわば、「黒い雨」は爆心地に生命体がいた証拠であり、「黒い雨」は赤い血が姿を変えたのだと信じている。            

              声もなく 魂となりて 「黒い雨」

 

解析の依頼

その「黒い雨」の跡の残った白い壁が見つかり、「黒い雨」の跡に放射能があるかどうかを調べてほしいとNHK広島局から理化学研究所の岡野真治先生を通じて、私たちに依頼があったのは1985年5月のことだった。この白壁は爆心地近くの住宅に偶然にも保存されていた。広島市の高須にあるこの家にお伺いしたことがあるのだが、ふつうの和風の住宅である。住まわれていた八島さんの話によると、原爆の爆風で屋根全体がずれてしまい、直後に降った「黒い雨」が家の中に降り込んで、白い壁に「黒い雨」の跡が残った。その後、この白い壁を覆うようにして新たな壁を作り、増築して住まわれていたそうだ。忘れ去られていたその白い壁が40年ぶりに見つかったと言うわけである。送られてきた白壁は約40cm×60cmの長方形で、壁の芯となる木枠に土壁が塗られ、その上に白い漆喰(しっくい)が塗られていた。

当時、私たちは「イメージング・プレート」と名付けた新たな放射線画像センサーと、そのセンサーを用いたデジタル放射線医療画像診断システムを開発して2年ほどたっていた。解析依頼が私のところに来たのは、このシステムが従来の写真フィルムにくらべて桁違いに感度が高いとその道の専門家に知られていたからであろう。日常生活の環境で浴びているごく微量の自然放射能レベルでも容易に画像化できるほどの感度があった。気がつかないだろうが、私たちの周囲は自然放射線で充ち満ちているのだ。

もちろん私たちに来る前に理化学研究所で最新の放射線測定器で壁のサンプルからの放射能を計測していて、核種として人工の放射性同位元素であるごく微量なセシウムCs-137の存在が確認されていた。セシウムCs-137からは30年ほどの半減期で662KeVのガンマ線(光子)が常に放出されている。通常の医療用レントゲン写真撮影におけるX線(光子)のエネルギーは100KeV程度だから、それよりもかなり透過力が強いと言える。しかし「黒い雨」の跡に高性能の放射線検出器(シンチレーションカウンターやガイガーカウンター)を当てても、黒い雨から放射線がでているという直接の証拠は得られてない。一方、私たちの常識では、画像を目で見て判断する検出可能な限界値は放射線検出器のそれよりも10分の1以上も低いことがわかっていた。画像化によってその証拠がはっきりするはずであった。

 

露光実験

放射能サンプルと写真フィルムとを密着して、同じサイズの放射能分布の写真像を得る方法のことをオートラジオグラフィといい、得られた画像をオートラジオグラフという。放射能分布の“自画像”(オートグラフ)と言うわけだ。とにかく放射能が残っていたとしてもごく微量であって、実験室環境の自然放射能のノイズによっても意味のある画像が得られる画像化限界を想定し、サンプルとイメージング・プレート(タイプHR)4枚を「黒い雨」跡のある白壁サンプルと密着して暗箱の中にセットし、1985年5月4日の夕方から三昼夜おいて5月8日の昼頃までのおよそ3日半(84時間)のあいだ露光した。昼頃終われば、直ちにイメージング・プレートから画像を読み出す実験ができるからだ。

イメージング・プレートから画像読出システムで画像を読み出す際の読み出し感度も、医療用レントゲン写真撮影の400倍にした。通常の医療用レントゲン写真システムは、両面に感光層が塗布されたレントゲン写真フィルムを二枚の蛍光増感スクリーンでサンドイッチにして撮影される。放射線をいったん蛍光増感スクリーンで光に変換し、その光でレントゲン写真フィルムは露光される。X線撮影といっても、実際には光露光なのだ。このシステムによって、レントゲン写真フィルムで直接に放射線露光するよりも、約10倍の高感度化を図っている。つまり被曝線量が1/10になったと言うことだ。これは20世紀の初めの頃の今は無きイーストマン・コダック社の画期的な発明であった。

そのような次第で、レントゲンフィルム自体の感度はカメラで使う一般のカラーネガフィルムにくらべてもかなり高感度なのだが、さらにイメージング・プレートによる画像化はそのレントゲンフィルムにくらべて4000倍の感度で行われたことになる。もしもレントゲンフィルムで直接にオートラジオグラフを作るとなるならば、露光時間は3日半の4000倍の時間、つまり約38年かかる計算になる。現実にはこれは実現不可能である。

この画像化の実験の他に、放射線源がどのような核種なのかを推定するために、「黒い雨」の跡の上に40ミクロンの厚さのポリエチレンのフィルムを重ねた40から240ミクロンのステップ・ウェッジを作り、どの厚さから放射線が届かなくなるかとの露光実験を行った。これで放射線のエネルギーがおおよそ推定でき、核種の候補もわかることになる。同じ実験をむき出しになっている下壁でも行った。

下記に、「黒い雨」の跡の残った白壁と密着露光3日半後のイメージング・プレートによって得られた画像を示す。

Photo_20201004122401

黒い雨の跡には放射能が残っていた

写真の左側は壁の通常のカラー写真である。左の上には木の枠が見え、左上と左の下側は茶色の土壁が見えている。黒いはっきりした「黒い雨」の跡が2本、それよりも若干うすい筋が2本、そして薄いかすかな筋が何本も残っていることがわかるだろう。右側の写真はその放射線画像(オートラジオグラフ)である。明らかに「黒い雨」の跡に対応した黒い筋が検出されている。また土壁に対応した画像パターンは「黒い雨」の跡よりも濃度が高く検出されている。つまり土壁からは「黒い雨」の跡よりも強い放射線が出ているのだ。そうであるとしても、「黒い雨」の跡からは40年後になっても放射能が検出されたのである。

茶色の下壁からの放射線の主体は、自然放射性同位元素であるカリウム40からのベータ線(1.31MeV)である。カリウム40は土や岩石、コンクリートなどにふつうに存在している。大理石で囲まれた豪華な銀行のラウンジなどはカリウム40からの放射線で満ち満ちているが、それに気づく人はいないだろう。そして「黒い雨」の跡からはそれよりもエネルギーの低いベータ線が放射されていることがわかった。候補としては、ウラニウムU-235、セシウムCs-137、ストロンチウムSr-90である。いずれも核爆発に由来する。理化学研究所の結果から見て、セシウムCs-137が妥当であろう。

確かに「黒い雨」の跡からは放射能が検出された。検出されたのであるが、その放射能は通常の自然環境における土壌からの放射能レベル(1pCi/g)よりも、更に1桁低いレベルになっていると推定された。「黒い雨」が降ってから40年経って、放射能は減衰していてまったく問題ならないとの証拠の画像であるのだが、しかし「黒い雨」の跡にはまだ放射能が残っている証拠と強調されて、この画像は一人歩きしてしまった。

 

少ないノイズが画像検出を可能にした

画像が検出できたのも、ノイズを少なくするような次のような条件が幸運にも重なったためである。

1.最も大きな幸運は、「黒い雨」の跡がたまたま漆喰の上に残っていたことだ。漆喰の主成分は水酸化カルシウムであり、放射性同位元素を持つカリウムは含まれていない。一方土が塗り込められた下壁には大量のカリウムが含まれ、そこからベータ線が常に放射されている。しかし厚い漆喰の層に阻まれて漆喰の表面にはほとんど出てこない。放射線によるノイズの少ない条件の白壁の上に、「黒い雨」の跡がついたのだ。実に幸運であった。もしも土壁の上に「黒い雨」の跡が残ったとしても、検出されなかったであろう。

2.次に、偶然にも日本でも環境放射能が少ない場所で画像化実験をしたことだ。環境放射線には、土壌に含まれているカリウム、宇宙から来る宇宙線などの影響が大きい。地域差が大きいのは土壌や岩石である。箱根山の東側は箱根火山や富士山の噴火による火山灰が地表を構成しており、その火山灰にはカリウムが少なかったのだ。つまり、自然環境放射線によるバックグラウンド・ノイズが少ないとの条件が整っていた。これも実に幸運であった。ちなみに環境放射能レベルの最も低い県は青森県、次に神奈川県であり、最もレベルが高い県は福井県である。福井県は環境放射能レベルが高く、恐竜の化石がよく発掘されるほどの安定した岩盤で構成されているのであるが、アメリカのコロラド州デンバーも同じように岩盤が安定し、高い環境放射線レベルでかつ多くの恐竜が発掘されているとの共通する特徴を持つ。あわせて、そのような地域は原子力関連の施設が多いとの特徴を有していると指摘しておいてもいいだろう。結果としてそこは岩盤が安定している故に原発などの施設が作られたと言えるだろう。

3.イメージング・プレート自体に放射性物質が極めて少なかった。イメージング・プレートの主成分はBaFX:Eu(X=Cl,Br,I)組成を持つ輝尽性蛍光体なのだが、主要元素であるバリウムBaには、周期律表でBaの一周期あとの隣の元素であるラジウムRaがごく微量に含まれている。微量とはppbのオーダー、つまり10億分の1のオーダーであって、通常の感覚ではまったく純粋に近い純度である。だが、イメージング・プレートはRa中に含まれる更に微量の放射性同位元素ラジウムRa-226から放射されるアルファ線をも検出してしまう。つまりオートラジオグラフィの場合にはRa-226の存在はノイズとなって、画像検出限界を悪化させる。イメージング・プレートを開発する過程で、Baの不純物であるRaを徹底的に少なくした技術を開発したのだが、この技術開発も大いに貢献したと思う。

4.更にイメージング・プレートは実験を始める前にそれまでに蓄積した環境放射線の影響を除去できる特性を持っている。イメージング・プレートはそのまま放置しておくと土壌や周囲のコンクリートなどからの放射線、宇宙からの放射線などの環境からのノイズ、そしてごく微量とはいえ、内部に含まれるRa-226からのアルファ線によるノイズを蓄積する積分型検出器なのだが、検出器として使用する直前に赤色などの光を当てることによって、それまで蓄積した放射線ノイズを消去できるというすぐれた特性を持っている。一方、写真フィルムの場合は、保管中に受ける放射線の影響は蓄積され、黒化(かぶり)して残ってしまう。検出器の高性能化は感度をいかに上げるというよりはノイズをいかに減らすかが本質である。

 

NHK ドキュメンタリー番組 「黒い雨」とその後

この一連の画像化実験の様子とその「黒い雨」の跡の放射線画像はNHKテレビのドキュメンタリー番組の一部として収録され、1986年1月17日夜8時からのNHK特集「黒い雨」として放映された。そしてテレビ番組としての栄誉ある「ギャラクシー賞」を受賞した。この番組はその後何度か繰り返して放映されたので、多くの方がご覧になっているかもしれないし、あるいはこれからも放映される機会がかもしれない。

NHK特集「黒い雨」が放映された10年後の1995年6月になって、大きなパネルにした「黒い雨」の跡が残ったカラー写真とその放射線画像、およびNHK特集「黒い雨」の録画ビデオテープを広島平和記念資料館に寄贈した。この「黒い雨」に関する一連の仕事を経験することによって、原爆や放射能などに関する関心が以前よりも高くなったことはいうまでもない。

その後、この「黒い雨」の画像化実験の反省から、外部放射線の影響をより低減する「シールドボックス」を作ることになった。外側は放射能が特別に少ない戦艦「陸奥」の厚い鉄板を特別に購入して使い、その内側に厚さ5センチの特別に放射能の少ない鉛ブロックを海外から調達して囲み、さらにその内側を放射能が全くない厚いアクリル板で取り囲むという構造である。苦労して「シールドボックス」を開発することによって、環境放射線の影響力を1/10程度まで軽減することができた。このシールドボックスを使えば、「黒い雨」の放射線画像はさらにノイズが少ない状態で画像化でき、鮮鋭度を増すであろうと思う。だが、その実験を行う機会は訪れなかった。

毎年8月6日になると思い出す、私の 「黒い雨」 の話の顛末は以上である。

 

最後に

再び見ることはできないと思っていたNHK特集「黒い雨」が、今もなお You Tube (https://www.youtube.com/watch?v=LfHeaP-RRAU)で見られることがわかった。教えて下さった押本信夫さんに感謝します。そのNHK特集「黒い雨」を見ると、忘れていた話も出ていた。

たとえば、理化学研究所では白い壁のサンプルから「黒い雨」の残っている漆喰の部分だけを切り取り、酢酸液につけて漆喰を溶かし去り、残った「黒い雨」の物質をEPMAで元素分析をしていた。EPMA(Electron Probe Micro-Analysey)とは電子ビームを電子顕微鏡のように細く絞り対象物に当て、発生する特性X線の波長から元素を分析する装置である。これによって、「黒い雨」の粒子からは、ケイ素Siと鉄Fe、そして炭素Cが検出された。Siは土壌中の主要元素であり、Feは、アメリカの研究者によれば、原爆を遮蔽していた厚さ20cmの鋼鉄製容器(言うなれば原爆の本体“リトルボーイ”)に由来するといい、Cは煤であって燃え煙になった有機物である。

アメリカのオークリッジ研究所ではこの「黒い雨」の残った白い壁をもらい受け、都市に投下された原爆の貴重な資料として、地球規模で核攻撃が起こった時に予想される「核の冬」を検討するために解析を行ったようだ。11万ドルという予算を使い、原子炉を使って「黒い雨」の残留物を放射化し、そのごく微量元素分析を行ったようだ。だが、その解析結果は私は知らない。

 

<参考まで>  「シールドボックス」について

なぜ戦艦「陸奥」なのか。

戦後の製鉄産業における溶鉱炉では中に存在する溶融鉄の量を計測するために、その溶湯の中にごく微量のアイソトープを投入している。このため放射能に汚染されていない鉄は戦前にしか存在しなくなった。また太平洋戦争直前およびその後の冷戦時代において多数の核爆発実験が空気中で行われ、近年ではチェブイリやフクシマの原発事故により世界の環境は放射性物質で汚染された。戦艦「陸奥」は昭和18年に爆発事故を起こし沈没し、その船体の一部が引き上げられている希な例である。使われていた鉄材は放射能汚染のない貴重な鉄材であって、この 「シールドボックス」のように特殊な用途に再利用されている。

なぜ特別に放射能の少ない鉛ブロックなのか。

鉛はウラニウムなどの放射性物質が崩壊して最後に安定となった物質である。だから吟味して使用しないと、鉛自体のオートラジオグラフが簡単に作れるほど、鉛そのものが放射線源になる。従って「シールドボックス」には充分に“枯れた”鉛、検定書付きの鉛を探し出して使う必要がある。そのような鉛が産出される地域は世界的にも地質学的に充分古い地域に限られる。

なぜ厚いアクリル板で内面を囲むのか。

厚い鉄板と厚い鉛ブロックを透過してきた外部の放射線は最後には低いエネルギーのガンマ線あるいはベータ線になるのだが、アクリル板は純度高く製造できる上に、これらの放射線を吸収して更に特性X線を発生させたとしても、材料は炭素Cなどの低い原子番号の元素で構成されているので特性X線エネルギーが低く、アクリル板自体に再吸収される比率が高くなる。

 

2016年3月14日 (月)

第90話 生きていた!

第90話 生きていた!

その時、私と家内が生きていたのは幸運としか思えない。15年も経ったあとだから話せることだ。2000年12月23日の午後14時45分頃。東名高速道を走っていて起こった出来事である。


<コントロールを失った>

白銀台にある東京都庭園美術館で行われていたルネ・ラリック作品展を見て、それから世田谷区上野毛にある五島美術館に寄った後、首都高速道路の用賀インターチェンジから東名高速道路に入った。私のクルマは横浜町田インターチェンジを通り過ぎた3車線のうちの真ん中を走っていた。右側の追い越し車線では速い車が追い抜いていく。左側前方の走行車線に黒いワゴンタイプのクルマが私のクルマよりもやや遅く走っていた。自然と、その黒いワゴン車にゆっくりと近づいていき、そのまま並行して追い抜いて行く形となった。

私のクルマがオーバーラップし始めた時に、やや頭を出していた黒いワゴン車はハンドルを右に切って、こちらの車線に入り込んできた。側面衝突は必至だった。右側の追い越し車線にはクルマはいなかった。私はハンドルを右に切って避けようとした。急に切ったら危ないことは知っていたので、出来るだけわずかに切った、つもりだった。

その瞬間である。クルマはコントロールを失った。

あとになって聞くと、それまで寝ていた助手席の家内は私の叫び声で目を覚ましたそうだ。クルマは右に急に方向を変え、中央分離帯のコンクリートのバリケードに跳ね返されて、ロデオの馬乗りのように左に右に飛び跳ねた。横転するなと思った。何秒たったのかわからない。とてもスローモーションな動きに感じた。気がついたら、クルマは東名高速道路の三車線の真ん中の車線上に、クルマの流れとは逆向きに止まっていた。スピンして180度回って止まったのだ。妙に静かだった。

前方からはクルマがこちらを目指して押し寄せてくる。古い西部劇のシーンによくあるような傷ついた主人公が1人で大勢のインディアンを迎え撃つ場面を想像してほしい。もうだめだと観念した。こちらに向かってくるクルマの運転者の顔がよく見えた。必死の形相をしていた。彼も恐ろしかったであろう。ぶつかったら、相手も即死だ。最初のクルマは何とか避けてくれた。こちらもハンドルをしっかりと握りしめ、押し寄せてくるクルマの運転手の目を凝視した。目を見れば、彼が次にどうするかが予測できそうだった。次のクルマは少し余裕を持って避けてくれた。

気がつくと、エンジンはかかっていた。いつもの振動が伝わってきた。前方のクルマがはるか遠くにいる瞬間を見計らってアクセルを踏むと、がたがたと身を震わせながらもクルマは何とか動いた。よく気がついたと思うのだが、それでもいつものように右側のウィンカーを点滅させ、ハンドルを右に切って路側帯にギリギリに寄せることが出来た。

助かった。生きていた。二人ともけがもなかった。

ドアを開け、降りて、クルマを一周した。右側の後輪がひしゃげて、車体から飛び出している。中央分離帯にぶつかった時に衝撃で車軸が曲がったのだ。(下図をクリックすると大きくなります)
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名古屋方面の道路をよく見ると、引きずった車輪の跡が残っていた。動輪である前輪はエンジンとつながっているからクルマは移動できたが、後輪はちゃんとは動いていなかったのだろう。タイヤの跡はそれを物語っている。(下図をクリックすると大きくなります)
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不思議なことに、そのほかにはかすり傷一つない。よかった。心底、そう思った。


<助けられた>

このような出来事が起こった時に、何を最初になすべきか日頃は考えたこともない。とにかくどこかに連絡しなければならない。今のように携帯電話を持っていたら、最初にそれを使ったかもしれない。しかし持っていなかった。前方、つまり100mほど東京よりに緊急電話ボックスが見えた。通り過ぎていくクルマを避けるようにしてたどり着き、受話器を取り上げた。道路公団の担当者が出てきた。緊急電話の場所と番号を伝え、けが人はないこと、クルマを路側帯に寄せていることを伝えた。それから、警官に代わった。

警戒灯を点滅させたよく見かける道路公団のクルマがやって来たのは、それから30分後。私のクルマよりも50mほど上流側、つまり東京寄りに止め、手際よく赤い三角帽子を置いて、係員がやって来た。その間でも、大きなトラックがビュンビュンとすぐそばを通り過ぎていった。その風圧でクルマが揺れる。(下図をクリックすると大きくなります)
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事故のクルマは道路公団の作業車が運び出すかと思ったら、まず、JAFに入っているかと聞く。以前は入っていたのだが、一度もお世話になったこともないので数年前にやめていた。聞くと、事故車はJAFか、JAFがいそがしいときは他の専門業者が運び出すのだそうだ。

そのうちにパトカーもやって来て、今度は下流側、つまり名古屋側に止めた。結果として、けが人もいないし、道路公団側の資産を損傷させたわけでもないし、この事故のきっかけを作り出した黒いワゴン車はとうに消え去っていたし、結局のところ自損事故ということになった。しかし私の自動車保険に自損事故は含まれていない。クルマを柱や壁にぶつけて凹ますことはしばしばあっても、そのたびに自分で修理してきた。他人に仕掛けられた大きな自損事故などは想定外であった。

クルマを運び出してくれるJAFのクルマがやって来たのは、それから2時間後であった。クルマの中で家内とじっと待っていた。長かった。JAFのクルマは、私のクルマの後ろ側にまわって止まり、後輪に治具をはめ、油圧のホークで後輪を持ち上げた。前輪をまっすぐに向け、ギアはニュートラルに、と言われたとおりにし、後ろ向きに牽引してもらう。展望車に乗った気分である。クルマが東京側からどんどんと追いつき、追い抜いて行く。通り過ぎていく車の運転手や同乗者も、私と家内に顔を向け、観察して通り過ぎていく。知った顔に出会うと困るな、などと家内と話す。今から思うと、滑稽な会話だった。

近くの高速バス停留所まで引っ張られて行き、側道に止めて、今度は前輪の方にも補助車輪の付いた台車を取り付けた。これは小さなタイヤが2個付いていて、てこの原理を利用して長い鉄棒で車体を浮かせ前輪をはめ込む。なかなか工夫されている。

次のインターは厚木である。そこで東名高速道路から降りて、渋滞の町の中に入っていく。すぐ後ろについてくるクルマの運転手と、必然的に間近に見つめ合うスタイルになった。相手も前方にいるこちらをじっと見るしかない。何となくバツが悪い。私のクルマがトヨタ車であったので、インター近くの近くのトヨタのディーラーまで運んでもらった。JAFに入っていなかったので、運び賃は約4万円かかった。(下図をクリックすると大きくなります)
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店の中に入っていったら、もう10年近くも会ったことのなかった友人がそこにいるのではないか。まさに奇遇。何事もなかったように、お互いに挨拶する。今日の事故のことは誰かに話すことでもないし、黙っていようと思っていた。しかし久しく会っていないのに、なぜこのような特別の場所で再会するに至ったのかを話さないことには、彼の疑問も解けないと顔つきでわかった。ことの次第を話すと、無事でよかったねと彼は先に帰っていった。

ここから家までは遠い。荷物も結構あった。ディーラーには代車はないし、タクシーで帰るには遠すぎる。いろいろと話していたら、このような場合には、トヨタレンタリースで一般のレンタカーよりも半値近くで貸してくれるとのこと。結局、カローラを24時間3900円で借りることになった。そして荷物を積み替え、何とか家まで帰ることが出来た。


<なぜ事故が起こったのか>

直接の原因は、追い抜こうとしていた私のクルマに気づかずに左車線を走っていた黒いワゴン車が急に右側に進路変更してこちらの車線に入り込んできたことにある。明らかに後方確認の義務を怠ったのだ。それは許されることではないが、私のクルマがバックミラーの死角に入り、見えない状況にあったかもしれない。右のすぐ後ろのクルマがミラーから消えてしまう、つまり死角に入ってしまうことは私もよく経験する。

私は昔のクルマのように、ボンネットにバックミラーがついているタイプが好きだ。首を動かすことなく、焦点をちょっと変えるだけで、後方を確認できる。しかも死角がない。現在の主流のドアミラータイプは首を曲げて視線の方向をかなり変えないと後方を確認することが出来ない。バックミラーを見ている間は、前方の注意がおろそかになっている。その上、後ろのクルマがまったく見えない死角がある。自分の安全のためにも、追い抜くときは出来るだけすばやく追い抜かなければいけないと思う。もっとも、高級車のバックミラーは二重の曲面を持つミラーになっていて、死角が起きにくいようになっている。高級車だけのことはある。

助けてくれたJAFのおじさんに、なぜいとも簡単に操縦のコントロールを失ったのかと聞いたところ、最近のクルマはより軽く動くパワーハンドルになっていて、力を加えずとも簡単にハンドルが切れてしまう。わずかに切ったつもりでも、大きく切った結果になることはよくあるし、時速80kmで走っていても簡単にスピンしてしまうのだそうだ。そのような事故の例をたくさん聞かされた。

私は高速ではハンドルを常に小さく切るように心がけてきたつもりである。車線変更もゆっくり入るようにしてきた。しかし今回は、結果として、側面衝突を避けるためにやや多めに切ってしまったようだ。100kmをやや越えていたのだろう。それでスピンした。前輪ではなく後輪が中央分離帯に激突して、車軸が曲がった。これがまたクルマを飛び跳ねさせて、コントロールを失った。

テレビやラジオのニュースを聞いていると、トラックの横転事故が結構多いのに気づかされる。急ハンドルによるスピンが起こったのだろうと想像している。ひょっとしたら、私の場合のように誰かに仕掛けられ、仕掛けた“加害者”は逃げ去り、トラックの運転手の運転ミスとして処分される例は結構多いかもしれない。

それにしても、高速道路上でスピンして突然に止まってしまった私のクルマに、他のクルマが突っ込んでこなかったことは、幸運としか言いようがない。その日は、娘達にとって、両親が突然に同時に死んでしまった日になりかけた。牽引車にひかれながら、お墓とか遺言のことも日頃から考えておかねばいけなかったな、とその時は素直に感じ入った。

2016年3月 8日 (火)

第89話 本庄季郎さんの「とんぼの実験」の話

第89話 本庄季郎さんの「とんぼの実験」の話


1980年代の半ば頃であったかと思う。私の敬愛する先輩の研究者であった本庄 知(さとる -1907))さんに頼んで、父上に研究所の会議室で講演をしてもらったことがあった。父上の名前は本庄季郎(きろう 1901-1990)さん、お歳は80歳を過ぎていたと思う。実にかくしゃくとしていた。(本庄知さんについては、第23話 「ネガとポジの話」参照)

ゼロ戦の設計者であった堀越二郎さんの名前を知っている人なら、三菱の一式陸上攻撃機(一式陸攻、米国のコードネームはBetty)の主任設計者であった本庄技師の名前も知っていると思う。一式陸攻は太平洋戦争中に総数2400機も作られた日本を代表する双発攻撃機であり、機体に防弾や防火の設備は不要であるとの軍命令の結果、銃撃されるとすぐに火がついたことからアメリカ軍のパイロットからは「ライター」とニックネームがついたり、山本五十六元帥がロッキードP38ライトニングに待ち伏せされてブーゲンビル島の上空で撃墜された時に搭乗していたのも、この一式陸攻だった。本庄季郎さんはその他にも数々の名機を設計している航空機技術者であった。(下図はクリックすると大きくなります)
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太平洋戦争後、航空機を造ることができなくなって、本庄季郎さんは航空機設計技術を応用した画期的な自転車を開発したり、琵琶湖で毎年行われているテレビでも人気の番組「鳥人間コンテスト選手権大会」の第1回目(1977)に優勝した機体の設計者でもあった。最近では2013年に公開された映画「風立ちぬ」では、主人公の堀越二郎さんの同僚として登場しているから、案外多くの方がご存じかもしれない。(下図はクリックすると大きくなります)
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その本庄季郎さんの話は、少年の頃に、とんぼを捕まえて翅にさまざまな細工をして、とんぼの飛び方を研究した話である。長じて航空機の名設計者になった本人の話だから迫力があり、とても面白く、刺激的であり、忘れられないものになった。話の最後に、作ってきた紙飛行機を会議室の演壇から飛ばして、20mくらいはあった反対側の壁まで、聴衆の頭の上を見事に一直線に飛ばせて見せてくれた。その時の会議室にいた人たちから上がった大きな歓声は忘れられない。

その時に本庄季郎さんが私たちに配った資料を、以下に原文のまま示そうと思う。今となっては貴重な資料である。ただし難しそうな漢字には、小さな子供でも読めるようにふりがなを付けておいた。
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「とんぼ」の実験 

私の少年時代(1915年前後)、中野道玄町は広々とした水田と畑の中に茅葺(かやぶき)の農家が疎(まばら)らに建って居(い)た。夏休みの夕方には、小供(こども)言葉で言う「ちゃん」と「ぎん」と「ぎんちゃんめ」が無数に飛び交って、蚊や小さい昆虫を追っていた。

「ちゃん」とは「大山とんぼ」(「ぎんやんま」ともいう)の雌(めす)で「ぎん」はその雄(おす)である。夕方田んぼの上に群がって飛び交っているの多くは「ちゃん」で、「ぎん」は数少ない。我々のもっとも貴重品として、後を追ひかけたのは、極めて数が少ない「銀ちゃんめ」である。「ぎんちゃんめ」は実は雌なのだが横腹の色が普通の「ちゃん」の様に緑色ではなく雄の「ぎん」と同じか、より一層鮮(あざ)やかなコバルトブルーである。

小供の目は鋭いもので、翼巾(翅(はね)の端から端までの長さ)15cmそこそこで、頭の先から尾の先までが7〜8cmしかないとんぼの飛行中に、その腹の色と翅の形から、これを見分けるのである。私とすぐ上の兄はこの珍しい「ぎんちゃんめ」を見付けると、もう夢中で、足許まで気を配る予猶(よゆう)がなく、度々(たびたび)畔道から田んぼに落ちた。

「ちゃん」は羽化(うか)したばかりでまだ翅が十分固くなっていない、殆(ほとん)ど無色透明のものを「ほやちゃん」、薄く日焼けして最も元気なものを「しぶちゃん」、一層色が濃くなって見事な茶色をした翅をもったものを「あぶらちゃん」、更に老年期に入って翅が所々破れているものを「ぼろちゃん」といった。「あぶらちゃん」や「ぼろちゃん」には腹に茶色の染(し)みが出来たものがあり、これが小供には貴重品として扱われた。

雄の「ぎん」に就(つい)ては、この様な年功序列による区別が付けられていなかったが、そのわけは、晝日中(ひるひなか)に、とんぼ釣りの囮(おとり)として役立つのは雌の「ちゃん」か「ぎんちゃんめ」だからだろう。

さて、私達兄弟は、夕暮が近づくと毎晩の様に、もち竿(さお)にもちを手ぎわ良く塗って、これを巧みに操(あやつ)り、傷の付いていない姿で、一夕に100匹前後の「ちゃん」と僅かの「ぎん」を獲(と)り、これを二つか三つの鳥籠(とりかご)に一ぱい入れて家に持ち歸(かえ)り、この中から10匹前後を厳選し、他は再び夕暮の空に放すのを日課とした。

飛行試験用としては、「渋(しぶ)ちゃん」か、羽化後3,4日の「ぎん」が最も適していた。

大山とんぼの他に「やんま」や「おはぐろとんぼ」なども実験に用いられるが、やんまの類(たぐい)はやゝ狂暴で手に噛(か)みつくと痛いので使いにくいし、「塩からとんぼ」やその雌の「麦わらとんぼ」は、「大山とんぼ」に較(くら)べて、小がらで性能も劣るので使わなかった。又(また)「おはぐろとんぼ」は翼面荷重(単位翼面積当り重量)が小さく、尾翼を付けて曲返りをさせるには適していたが、他の実験には向かない。

 さて、前おきはこの位にして、大山とんぼの四枚の翅を種々(しゅじゅ)に切った時の飛行実験の話に移ろう。 (下図はクリックすると大きくなります)
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                                  図1  いろいろな切り方をしたトンボの翅

 図1は;
1) が四翅共完全に元系のまゝの「ぎん」又は「ちゃん」である。重心位置はほゞ前翼の胴体取付部後縁付近。
2) は右前翼を切りとったもの
3) は右後翼を切りとったもの
4) は右前翼と右後翼を切りとったもの
5) は左右の後翼を切りとったもの
6) は左右の前翼を切りとったもの
7) 四翅の後縁を各翅の面積の約1/2を切りとったもの
8) 四翅の翼端を切り、各翅の面積を約1/2にしたもの
9) 尾端に軽くて固い紙で造った水平尾翼を付けたもの

さて、これらの試作とんぼを飛ばせて見ると、
2) かなりよく飛べる
3) 2)と同じように良く飛ぶ
4) どうにか飛べる
5) どうにか飛べる
6) 飛べない
7) 低速では飛べないが、原形よりより高速で飛べる
8) 飛べない
9) 水平尾翼の後縁を上に反(そ)らせて上舵をとると宙返りをする。

これらの実験によって、面白いことが発見された。

実は3)と5)は航空機の安定に関する理論を知っている人なら重心が後退して縦安定不足のため飛べないと判断するだろうし、2)と6)は重心が翼平均翼弦に対し前進するので安定よく飛べるだろうと判断するだろうが、6)の場合は安定より以前に実は釣合(つりあい)がとれず頭重(Nose heavy)で飛びにくいのである。2)の場合はどうにか飛べるが、6)の場合は学者の予想に反して、頭重のため、水平飛行の姿勢がとれず、下降飛行しか出来ない。

7)、8)は学者の予想通りの結果で、7)は翼の性能がよいために飛べるが、8)は誘導抗力の増大によって同馬力では7)と同翼面積にも拘(かか)わらず、馬力不足で飛べないのである。

以上の結果は、安定に関する知識のある学者は、その理論に捕らわれて、昆虫の体内に精密な自動操縦装置が付いている事に気が付かなかったのである。然(しか)し、7)と8)に対する予想は、学者の判断が素人(しろうと)より正しかった。

この様に、学者という者は新しい事実に対して正確な判断を常に下すものではないし、釣合という事だけを知っている素人の単純な意見が時に当たる事もあるのである。

私は小供の時に、この実験を行っていたので、後に航空学を学んで、やっと本当の理論を興味深く理解することが出来た。

私が計(はか)からずも受けていた教育は、多くの場合、疑問が先に生じている事柄を、後から教育が教えてくれたのであった。

学ぶという言葉は「まねぶ」つまり「真似(まね)」る事から来た言葉だそうである。学びが先行し、鵜呑(うの)み教育が流行している国では創意工夫が数少ないのは、一つは疑問と教育の順番が逆になっているからかも知れない。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
本庄季郎さんの少年の頃の 「とんぼの飛行実験」の話は以上である。

とんぼ釣りは子供の頃なら誰でもやるであろう。しかし、とんぼの翅を切ったら、とんぼはどのように飛ぶのだろうかとの疑問を持つまでに至る少年は滅多にないだろう。さらにたとえ疑問を持ったとしても、その疑問を解消する実験を始めようとする少年も、また滅多にいないだろう。本庄さんにはどのようなきっかけがあってそのような疑問が生まれたのだろうか。

それに、その実験にふさわしいとんぼを見極め選択していくプロセスは大したものだ。とんぼの種類だけではなく、雄や雌の違い、種類や生育日数を考慮して捕まえた100匹以上のとんぼの中から、実験に最適なとんぼを10匹ほどをさらに選抜し、他は自然に帰している。実験の条件もすこぶる系統的にやっている。7)のように、翅のアスペクト比を大きくして誘導抗力を減らし、翅の面積を減らして翼面荷重を大きくすると高速に飛ぶことができるという航空機設計の原則も、子供の頃に身体で覚えていたのだ。すごいことではないかと思う。

何かを好きになったり、何かを疑問に感じたりしていると、その事柄に対して感受性がどんどんと高まっていく。そのような状態の時に、それにふさわしい知識や方法論を投げかけられると、乾いた砂に水がしみ込むようにそれらがすーっと吸収されていく。自らもその道を究めるように動き出す。創造性を育てる教育の本質とは自ら学び出すきっかけを作ってあげることと思う。

本庄季郎さんが最後に言っている 「疑問を持ってから学べ」という主張は同感である。

2014年11月28日 (金)

第88話 右利きの光・左利きの光

第88話 右利きの光・左利きの光


<光がないと影はない>


光がないと影はない。モノの形も色も見えない。あたりまえだけれど、光の下では影がモノにまとわりついている。影があるということは光を発する点が影とは反対の方向にあることを暗黙の前提にしている。太陽や明かりなどだ。そのような光源があっても、透明なガラスのように影を伴わないモノもある。しかしふつうはモノと影は一体となった存在である。曇りの日の屋外のように周囲全体がぼーっと明るいような場合は影は見えないけれど、曇りでも窓から入ってくる光によって影は出来る。


モノと影は一体となった存在であるけれども、モノの色と形、影の色と形はそれぞれ違う違う。モノは多様な色が存在しうるのに、影は世界のどこに行っても色がない。色の言葉で言えば無彩色、黒とか灰色と思われている。ほとんどのヒトがそう感じている。“ほとんど”と言ったのは、ゲーテやスーラが言うように、人によって、環境によって、影にも色がついて見えるからだ。でも、ここではそのような細かいことは気にしないことにしよう。それにしても、影の色がいつでもどこでも誰でもが同じであると感じるのは、考えてみれば不思議なことだ。


モノと影、どちらが主体的な存在であるかは見方や感じ方によって違ってくる。ふつうはモノが主体であって影が添え物であり、影は認識から排除され意識の外にある。美術全集を古い順から見ていくと、さすがに原始時代のラスコーの岩壁画に描かれた動物たちには影はない。モノと影を別の存在として見ていたのだろう。いや、影はあまりにも当たり前すぎて意識の中には存在していなかったのだろう。草原にシマウマとライオンが互いに見える距離にいても、襲ったり襲われたりするその瞬間でない限り、互いに単なる風景の一部であって意識しないのと同じだ。まして影は目につかない。


<影はいつ発見されたのだろうか>


しかし意識の対象がモノから影に移った途端に影が主役になる。影が主人公になった文学や絵画も実際にある。明らかに影とモノとの両方を意識して認識した上で、影を主体にして表現している。逆に影があるべきなのに影のないヒトを主人公にした話もある。とはいえ、見たモノを「あるがまま」に描いてみたいとする人たち、画家たちと言ってもいいのだろうが、そのような人たちが現れて、モノといっしょに影も描こうとし始めたのは、ヒトの意識に大きな変化が現れた時期以降に違いない。影はいつ発見されたのだろうか。


ラスコーの岩壁画は一万七千年前だが、美術全集をめくっていっても、それ以降なかなか影は現れない。影はモノと一体の存在なのに形も色も定まらない。変化する。時には無くなってしまう。影に気がついて意識の上に定着させ、それを表現するにはかなりの意識の転換が必要であったろう。影を描くようになったのはいつ頃からなのだろうか。


最初に見つけた絵画はローマ時代初期のポンペイ出土のフレスコ画「パン屋の夫婦」であった。そには太陽の白い光の下で生じている影が「あるがまま」に描かれていた。(下図をクリックすると大きくなります)


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この絵よりも前の古代ギリシャ時代の絵画には影は描かれなかったのだろうか。探し足りないのだろうか。彫刻は実に写実的に作られているのにギリシャ人は影には気がついていなかったのだろうか。気がついていても、絵の中に描く必要性を感じなかっただけなのだろうか。


「パン屋の夫婦」では光は左上から注いでいることを暗示させるように影が実に写実的に描かれている。写実的に「あるがまま」に人物を描こうとした結果として影も描いていると思った方がいいのだろう。


ポンペイがベスビオス火山の噴火によって埋没した頃はギリシャ時代の影響がまだ強く残っていた。しかし4世紀になってローマがキリスト教を国教にするようになると、自然の光による自然な影も消えてしまう。画家たちは「神のこころ」だけを描くようになってしまった。自然な光、自然な影が再び出てくるのは千年後のキリスト教が世俗化の波にさらされた中世末期からである。宗教画とは違う風景画・肖像画等の世俗画を描く画家たちが現れるようになった。


それにしても、この「パン屋の夫婦」のような構図、つまり光の源が左上にあるように描く構図は右上から来る光の下で描かれた絵画よりも極めて多いと気がついたのはいつの頃だったのだろうか。間違っているのかもしれないが、この構図は古代から現代に至るまで定番なのだ。なぜなのだろうか。画家の右利き・左利きと関係しているのだろうか。


<右利きの画家フェルメール>


この仮説を確かめるためには、その画家が右利きであることがはっきりわかっている必要がある。17世紀のデルフトの画家フェルメールは「画家のアトリエ」と題する絵の中で絵を描いている自分を登場させている。後ろ姿ではあるが、画家は右手に筆を持ち、奥の左側にある窓からの光を受けて立っている若い女性をキャンバスの上に描いている。見てわかるようにフェルメールは右利きである。(下図をクリックすると大きくなります)


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良く知られている「真珠の首飾りの少女」も同じアトリエで描かれていて、窓は描かれていないが影の描き方から光はやはり左上から注いでいることがわかる。この光は現在の「白い光」の基準になっている「北空昼光」であることがわかっている。(参照:第46話:光と色と絵の話(14)「白い光」を定義する)
(下図をクリックすると大きくなります)


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フェルメールの絵で影の描き方で光の方向が明らかに左側からの絵と右側からの絵の割合がどうなっているのか調べることにした。フェルメールの絵は35枚とか37枚とか言われて数は少ないので調べやすい。光が正面や真上から注いでいて影がない場合は除くことにする。そのような影のない絵は特に宗教画に多い。絵の中に登場する天使はそもそも光の冠、光源を頭に抱いて飛んでいる。


するとフェルメールの絵画の90%は左からの光の下で描かれていた。右からの光で描かれている絵が無いわけではない、と言う程度に少ない。右利きの画家は左からの光の下での情景を描きたがる傾向にあると言えそうだ。では左利きの画家はどうなのだろうか。


<左利きの画家 ダ・ヴィンチ>


さまざまな資料から左利きとはっきりわかっている画家の代表はレオナルド・ダ・ヴィンチである。調べて見るとほぼ同数、どちらかと言えば右からの光の場合が50%をやや越える。左利きは右利きのように筆やペンを使いこなせるようにしつけられることが多いから、ダ・ヴィンチは両刀使いであったのかもしれない。しかし50%以上が右からの光で描かれているとの結果は、10%程度しかなかった右利きのフェルメールに比べたら極めて多いと言っていいだろう。左利きは右からの光の下で影を左側に描く傾向があると言ってよさそうだ。右からの光の下で描かれた絵の代表として「モナ・リザ」を、また左からの光で描かれた代表として「白貂を抱く貴婦人」を下に示す。余計なことではあるが、私は「モナ・リザ」よりも、クラクフのチャルトリスキ美術館でみた「白貂を抱く貴婦人」の方が好きだ。(下図をクリックすると大きくなります)


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<光と影の画家たちはどうなのだろうか>


フェルメールやダ・ヴィンチとほぼ同時代で「光と影の画家」と呼ばれているオランダのレンブラント、そして同じく「光と影の画家」と呼ばれているが、特に「明かりの画家」として知られるフランスのジョルジュ・ドゥ・ラトゥールの場合はどうなのか。彼らが右利きなのか左利きなのかはわからない。


調べて見ると、レンブラントの場合、自画像の白黒のデッサン画のように右からの光で描かれた場合もあるのだが、ほとんどすべてとも言える90%が左からの光の下で描かれていた。自画像の場合は鏡を見て描いたのだろうから、本当は左からの光の下で描かれていた可能性は高い。もちろん宗教画や有名な解剖学実験室の絵は光は真上からであって影は見えない。一方、ジョルジュ・ドゥ・ラトゥールの場合には絵の中にローソクやランプを絵の中に登場させることが多く、それらは除くことにする。すると彼の場合、絵の外に光の源を暗示させる場合はほとんど100%が左からの光の下で描かれていた。これらの結果からレンブラントもジョルジュ・ドゥ・ラトゥールもフェルメールと同じように右利きであったのであろうと思われる。


<なぜ左からの光の絵が多いのだろうか>


その絵の左上側に光の源がある場合は、影は当然ながらその絵の中に登場するヒトやモノの右側にまとわりつくように描かれることになる。一般的に影はヒトやモノにくっついた部分が濃く右下の方向に行くに従って淡くなる。これは空気中のほこりの散乱や周囲からの反射光、散乱光の影響が次第に大きくなるためであって、影の境界は次第にあいまいになる。


考えてみれば、画家たちがパレットの絵の具を筆に含ませ、その筆をキャンバスに置くと、最初に置いたところは絵の具の量が多く、筆を滑らせていくとキャンバスに残されていく絵の具の量は次第に少なくなっていく。つまり筆を動かすと次第に濃度は低く薄い色になっていく傾向にある。影というのは物体の近傍がより暗く、離れるに従って淡い影になっていくのだから、筆の動きと影の濃淡方向とは合っている。スムースな合理的な腕の動きを画家は採用するだろうから、右利きは左から右へと筆を滑らすことになる。右利きが右から左に筆を動かしたり、左利きが左から右に動かすことは滅多にないだろう。とすると、左が濃くて右に薄い影の方が右利きの画家は描きやすいことになる。従って右利きの画家は光が左上から来ているような絵を書こうとする傾向が強くなると言えそうだ。左利きはその逆になる。


<左利きの画家を発見できるだろうか>


時代を越えた多くの絵をこの「右利きの光・左利きの光」仮説と照らし合わせながら鑑賞していくとまたおもしろそうだ。中には数少ない左利きの画家を発見するかもしれない。そうなったら、その画家が何だかとても身近な存在になってきてさらに知りたくなる。本当に左利きであったのかなどと自伝、評伝、日記、文献などを漁って確かめるのも、また一興である。

2014年10月15日 (水)

第87話 久所のむかし話

第87話 久所のむかし話


第86話「久所(ぐぞ)の始まり」を調べたときにお話を伺った高橋清さん(大正十四年生)は自治会長や生産組合長などを、また曾祖父の繁次郎さんは旧富水村の村会議員などを歴任し、久所の昔についてもっとも詳しく知っておられる最長老のお一人です。興味深いお話はまだまだありました。もう少しご紹介したいと思います。


久所の初めのころ

『 伝え聞いた話では、昔、七人の武者がこの地に住み着いたのだそうだ。そのきっかけは小田原北條氏が豊臣秀吉に敗れ、北條氏に仕えていた多くの武者たちが職を失ったことにあるのではないかと思う。

昔からこの地には椎野・高橋・和田・押田・飯田和との姓が伝わっているので、これらが武者の苗字ではなかったか。和田家は途絶えてしまい、今は残っていない。また久所にはセイザエモン屋敷、トミエモン屋敷、ワダ屋敷と呼ばれていた屋敷跡があったことを覚えている。

祖母は文久三年(一八六二)生まれ、その祖母の祖父は七左右衛門といい、過去帳によると享保十八年(一七三三)に亡くなっている。それ以前の過去帳はお寺が火事で焼けてしまい、残っていない。』


高橋家の最初のご先祖は久所の地に入った最初の七人と伝えられている武者の一人であったようです。このお話と久所周辺の歴史や地名の調査から、「久所の始まり」は前に述べたように、今から四百年ほど前に小田原北条氏が滅んだときに、現在の中井町の久所に縁の深い武者たちがこの地に入り、開拓して久所と名付けたとする地名転移説の可能性が高いようでした。

久所の旧家の菩提寺はほとんどが北ノ窪の陽雲寺なのですが、高橋家だけは久野の潮音寺(小田原市久野五一一)だそうです。お寺が遠かったため自宅敷地の中にも先祖代々のお墓があります。その潮音寺にあった過去帳が焼けてしまい、先をたどれないのではっきりわからないそうですが、最初のご先祖がやって来た時期は戦国時代の末期から江戸時代初期頃なのでしょう。

またお名前の出た五つの姓は和田姓を除き現在でも久所には多くあり、特に椎野姓はとても多くて自治会の全戸数の約二割にもなります。私の家の周囲の五軒はすべて「椎野さん」です。


昔の富水村のこと

『 江戸時代の小田原藩の頃から府川村はあった。府川村は最初から府川と久所の二つの区域に分かれていた。明治になり、この地は足柄県府川村久所と言った。のちの小田原市自治会五十区の一が府川で、五十区の二が久所だった。

そののち、府川村は他の村と共に合併して富水村になった。さらに富水村・久野村・芦子村・二川村が合併して足柄村に、すぐに足柄町になった。昭和十五年、皇紀二千六百年の記念で、足柄町と小田原町が合併して小田原市になった。』


所蔵されていた『神奈川縣足柄下郡 旧富水村地図』(昭和七年発行)を拝見しますと、いろいろと興味深いことが分かりました。この旧富水村とは明治二十二年(一八八九)四月一日付の市町村制の施行により、それまでの蓮正寺村・中曽根村・飯田岡村・堀之内村・柳新田村・小台村・新屋村・清水新田・北窪村・府川村・穴部村・穴部新田および多古村と足柄上郡岩原村の飛地が合併して発足した村です。これらの村はいずれも江戸時代後期に書かれた『新編相模国風土記稿』にも相模国足柄上郡の村里としてすべて記録されていました。ただし狩川を境に東と西で分かれていて、蓮正寺村から清水新田までは成田庄に、また北窪村から穴部新田までは早川庄に属していました。

『小田原市史』などによれば、この富水村は蘆子村・二川村・久野村と合併して足柄村が発足する明治四十一年(一九〇八)四月一日まで存在しました。従って『旧富水村地図』は昭和七年発行ですが、江戸時代の状態がまだまだ色濃く残っている明治時代の初めが記録されていると思います。(下図をクリックすると大きくなります)


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『旧富水村地図』では、他の大字、つまり他の旧村里とは違って大字府川の地図は二つありました。現在の府川の地図と久所だけの地図です。今はほとんど忘れ去られていますが、久所の小字は十一ありました。すなわち 水窪(みずくぼ)・堀籠(ほりかご・眞角(まかど)・外貝戸(そとかいど)・美之輪(みのわ)・仲澤(なかざわ)・西之窪(にしのくぼ)・渡り澤(わたりさわ)・鹿塚(ししづか)・堀ヶ窪(ほりがくぼ)・羽ヶ尾(はねがお)です。『旧富水村地図』に久所の地名は出てきませんが、『新編相模国風土記稿』の府川村の項に小字として久所が出てきていますし、『旧富水村地図』の大字北ノ窪の地図には小字として久所前がありますから、この地図ができる前から久所は地名として存在していたことはたしかです。現在の国土地理院発行の地図に久所の地名が明記されていることはそれを物語っています。


今はない天神さまのこと

『 現在の久所公民館の場所は昔は山だった。おばあさんから聞いた話では、明治の末までそこには天神さまがあった。久所の人たちは昔からその天神さまと諏訪神社の二つを鎮守としていたそうだ。天神さまは明治の一町村一神社政策により現在の諏訪神社に合祀され、土地もまとめられた。以前土地台帳を調べてことがあるのだが、天神さまのあった土地は明治の終わり頃、明治四一年か明治四二年頃と思うのだが、諏訪神社の土地として登記されていた。諏訪神社の下社などもその時に合祀されてなくなったのだろう。現在の府川一番地には神社がなくても諏訪神社の土地であるのはそのような経緯があったためだ。

つい数年前に老朽化で取り壊された諏訪神社の神楽殿の建物は天神さまのお社の一部だった。「天満宮」と書かれた額が諏訪神社の中の奥宮にまだ置かれているはずだ。額には寄贈した「幸次郎」の名前があったと思う。また天神さまが取り壊されるときに、社の中にあった小さな奥宮は子安の社として北ノ窪の陽雲寺に引き取られた。しかし大正一二年の関東大震災で北ノ窪天神社が倒壊したあと、再建したときに北ノ窪天神社に移された。今でも奥宮として社の中にあるのではないか。

天神さまの跡地には関東大震災のあとに養蚕のための久所の共同作業所が作られた。私の家の一階の天井が高いのは二階で蚕を飼っていたためだ。その共同作業所の隣には事務所の建物があって、久所の人たちが集まる場所、青年会所として使われた。四畳半と八畳間くらいの広さだった。昭和三〇年代になって、明治製菓の工場が小田原市栢山に作られることになり、その造成に土が必要になって山を削り低くして今の久所公民館の土地が作られた。公民館の脇の切り通しの道もその時に造られた。』


この地に神社があったとは知りませんでした。神社合祀政策に関しては明治初年の太政官布告と明治三九年(一九〇六)の内務省.訓令の二つがあります。特に後者の内務省訓令により日本の神社の数は激減し、鎮守の森もまた消滅しました。全国二十万社のうち七万社が取り壊されたといいます。これによって鎮守の森が消え去り、地域に根ざした多くの文化や歴史もまた消え去りました。南方熊楠がこれに反対運動を起こしたことはよく知られています。神社合祀が行われる以前はそれぞれの集落にはさまざまな神さまを祀っていた複数の神社があったのでしょう。久所もまた例外ではなかったようです。(下図をクリックすると大きくなります)

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【江戸時代の久所には西光寺と天神社の一寺一社があった。字天神下にあった西光寺は後に廃寺となり号を移して、元禄の大地震の死者を弔うために小田原谷津の慈眼寺が建立された。天神社は明治末の神社合祀政策により取り壊され、跡地には養蚕の共同作業所と事務所が建てられた。事務所は青年会所としても使われていた。現在の公民館は昭和30年代に天神社があった小山を削り取った平地に建てられ、脇の切り通しの道はその時に新しく作られた】


さらには明治から昭和にかけての神道国家管理時代は「宮」号は祭神が基本的には皇族であり、かつ勅許が必要であったため、天満宮と称していた神社も天神社・天満神社などと改称させられたようです。天神さまと親しまれていた久所の天満宮は、改称させられる前に明治末の神社合祀政策が出たあとで取り壊されたのではないかと思います。しかし『旧富水村地図』には天満宮とその敷地がはっきりと描かれていました。神社は現在の久所公民館の場所に四角く囲まれて描かれていました。当時は小高い山の上にありました。

お話のように諏訪神社には数年前まで鳥居の奥に朽ち果てた小さな舞台のような建物がたしかにありましたが、それが昔の天神さまの神楽殿であったとは知りませんでした。天満宮と書かれ額は、平成二十六年三月の諏訪神社大祭の前日に社の中に入る機会があり確認したところ、たしかに諏訪神社の中の奥宮の裏側の壁に立てかけてありました。額の裏側には『慶応二寅年正月 願主當邑 椎野幸冶良・・』と書かれてありました。「・・」は額の補強のために裏面に打ち付けられた木材により判読できなかった部分です。慶応二年ですから明治維新になる直前の江戸時代末期であり、當邑とは久所のことを示しているのでしょう。この額の隣に欄間のような大きな彫刻がありましたが、高橋さんによるとこれも天満宮の社の一部とのことでした。北ノ窪天神社に移されたという久所の天満宮の奥宮については、まだ確認していません。(下図をクリックすると大きくなります)
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諏訪神社のこと

『 府川の名主であった稲子家の先祖は信州から移ってきた武田信玄の一党であって、諏訪神社の創建はそのご先祖が関係していると聞いている。府川の中にあって稲子さんだけは久野にある総世寺の檀家だ。稲子家はもともと久野に住んでいて、久野から府川に移ってきたのではないか。稲子家は諏訪神社にまつられているご神体を保管していて、お祭りの時に神社に持っていくようにしていて、神主のような立場だった。

諏訪神社の天井絵は今はうすくなってとても見にくいが、昔は鮮やかな絵だった。江戸時代に狩野派の小田原の絵師が描いたと聞いている。あるとき天井絵に描かれている龍が降りてきたという龍の形をした跡が床の上に見つかって大騒ぎになったことがある。その時に撮った写真を見たことがあるが、たぶん中に吹き込まれた落ち葉かナメクジが動いた跡ではないかと思う。』


久所と府川の共通の鎮守であるこの諏訪神社は、『西さがみの地名』(田代道弥著)によれば、県立おだわら諏訪の原公園の中にある現在の上社の「本宮」の他に、昔は山を下ったところに「前宮」(細窪)があり、また下社の「春宮」(相洋高校グラウンド)および「秋宮」(清水新田)の四つがあったようです。この四つの宮からなる形式は長野県にある諏訪大社と同じです。『日本歴史大事典』によれば、日本書紀にすでに記録があるという諏訪大社については「源頼朝が挙兵時より守護を受けたことで武家が武神として信仰、全国に勧請(かんじょう)された」とあります。勧請とは「神仏の分身、分霊を他の土地に移してまつること」の意であり、その結果、全国各地には一万とも言われる多数の諏訪神社が存在するようになりました。この地の諏訪神社が創建されたのもこの出来事があった後でしょう。『小田原の神社巡り』(神社探訪会)によれば、市内には一九三社もの神社があるそうですが、その中で諏訪神社はこの一社だけです。

古くから軍(いくさ)神として崇められていた諏訪神社を創建したのは、やはり武者が関係していたのでしょう。諏訪神社の鳥居脇にある由来記によれば、『武田信玄・勝頼に仕えていた新川光輝という武士が武田家滅亡後に里武士となって当地に住みつき諏訪明神を祀った』と記されています。武田家滅亡は武田勝頼が自刃した天正十年(一五八二)とされていますからまだ小田原北條氏の時代です。久所に最初にやってきたという「七人の武者」の時期もやはりその頃であって、諏訪神社の創建に関係していたのでしょうか。

久所のもう一人の長老である椎野寿雄さん(昭和四年生)のお話によれば、

『 現在の諏訪神社の社は昭和の初め頃に建てられた。ひいおばあさんからは、その前の社は大工さんだったひいおばあさんの実家が建てたと聞いている。ひいあさんは昭和十五年に九十二歳で亡くなっている。』

とのことです。そうするとひいおばあさんは天保九年(一八三八)頃に生まれたことになります。従って諏訪神社は近年少なくとも明治の初めと関東大震災で崩壊したあとの二度にわたって建て直されていることになります。諏訪神社の鳥居脇にある由来記によれば、造営の記録は天明二年(一七八二)および大正十五年(一九二五)となっていました。天井絵は社が建て直されるたびに江戸時代からの絵をそのまま用いてきたのでしょう。私が久所に引っ越してきた頃はくっきりと見えていたのですが、平成二六年三月の諏訪神社大祭の時に見たときはほとんど消えかかっていました。


今はない西光寺のこと

『 天神さま(天満宮)の隣には西光寺(さいこうじ)というお寺があった。このお寺は小田原の谷津に移り慈眼寺(じげんじ)になった。慈眼寺は「投げ込み寺」と言われていた。』


この地にお寺があったとは知りませんでした。調べて見ますと、お話に出た慈眼寺は小田原市城山に現存する黄檗宗の寺です。寺の縁起によると『元禄十六年(一七〇三)の大地震での被災者を追福するため、大久保加賀守忠増が一寺建立を企図、久野総世寺十八世實全と謀って、廃寺となっていた曹洞宗の府川村の天神下にあった西光寺を引寺し、僧恵極を中興開山に迎えて黄檗宗慈眼寺と号し、承徳五年(一七一五)に堂宇を建立した』とあります。この記述は『新編相模国風土記稿』の谷津村の慈眼寺の項の説明を引用していました。「投げ込み寺」は吉原の遊女で名高い東京の南千住の浄閑寺(じょうかんじ)がありますが、慈眼寺も身寄りのない地震の死者を葬ったのでそのように呼ばれていたのでしょう。

一方同じ『新編相模国風土記稿』の府川村の西光寺跡の項には慈眼寺との関係が書かれていて、『西光寺跡は府川村の字天神下にあって、その西光寺は府川村にある正応寺の開祖が慶長十五年(一六一〇)に隠棲の場として建て、元和年間(一六一五〜一六二四)に亡くなった後は無人となっていたところ、総世寺の第十八世實全が万治三年(一六六〇)に小田原谷津村に号を移して寺を建て慈眼寺となった』とあります。新たに寺を建てることは幕府の御法度であったために、廃寺となった西光寺を利用したのでしょう。西光寺のあった字天神下とは、昔の天神さまのあった小山の下の意であり、現在の久所公民館の北西側に当たるのでしょう。

慈眼寺建立の年代が『新編相模国風土記稿』の二つの記述で五十年ほど違っていますが、元禄の大地震は元禄十六年に実際にあった話なので府川村の項よりは谷津村の項に書かれた年代の方が正しいのでしょう。『新編相模国風土記稿』は昌平坂学問所の幕府の役人が現地調査せずに地元の名主などから提出させた資料に基づく場合も多かったようですので、矛盾したり誤った記述もそのまま載せてしまう場合もあったのだろうと思います。

なお久所にあったという西光寺は十数年ほど存在しただけであり、その敷地面積は四畝四歩(およそ百二十五坪)と記されているので、お墓がある広いお寺という現在のお寺のイメージよりはそのお坊さん一人だけの小さな隠居所のようなものであったのでしょう。


・・・おしまい

新しく住むようになったよそ者にとっては、その地に代々伝わっているむかし話も知らず、幼い頃の遊び慣れた場所もなく、周りの景色も単なる風景でありました。しかし古くからお住まいになっている方々の話を聴き、地域のことを知っていくと、それまで気にも留めなかった身近な風景や周囲の人たちとの会話が急に新たな意味を持ち始め、命を与えられたように輝き始めてきました。昔の風景も目の前に浮かぶようになってきました。

不思議なことです。


2014年9月20日 (土)

第86話 久所の始まり

第86話 久所の始まり


「久所」というところ

私の住む小田原市「久所(ぐぞ)」は三つの小さな谷間からなる里山です。箱根明神岳の山裾の諏訪ノ原丘陵の北麓にあります。それぞれの谷間にある集落がそれぞれの組を作っていますので、「久所」自治会内を西から南、そして東の組へと歩いて回るとおよそ一時間近くもかかります。しかし世帯数は小田原市自治会の中でも最少に近いでしょう。

「久所」には自然がまだまだ残っています。玄関前で手をたたくと山からはこだまが戻ってきますし、早朝や夜半になって遠くの踏切の音がかすかに聞こえてくることはあっても、ふだんは風の音や鳥の声、そして田植え時はカエルの声ばかりです。キツツキの音やカッコーの声が聞こえてくる時もあります。引っ越した直後には、庭で飼っていた七羽のチャボがイタチに毎晩一羽ずつ殺され全滅しました。
タヌキ、イノシシ、ハクビシンなどはよく現れますし、崖の麓から湧く「久所の泉」では季節になるとホタルが現れます。サルは時期になると我が家の庭を親子連れの集団で通過していく常連ですし、家の中にも窓を開けて二回ほど入ってきました。

このようなことを言いますと、よほどの深山幽谷の地と思われるかもしれませんが、小田原で新幹線に乗り継いで自宅から一時間ちょっとで東京駅に着きますから「それほど秘境ではない辺境」と思っています。(下図をクリックすると大きくなります)


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「久所」は周囲とは違うらしい

「久所」は箱根山を背にして、小田原市の「府川」および「北ノ窪」自治会、そして南足柄市「沼田」自治会の三つの区域に囲まれています。国土地理院地図には「久所」と表記されていますが、住居表示は「小田原市府川○○○」です。「久所」と「府川」は諏訪ノ原丘陵にある諏訪神社を共通の鎮守としていますから、昔から親戚のような間柄であったのでしょう。

諏訪ノ原丘陵は一万五千年前の縄文時代早期からの遺跡が残っていて、小田原地方では最も古くから大規模に人が住んでいた場所です。『小田原市史』によれば、「府川」には縄文末期から弥生文化中期の諏訪の前遺跡があり、また「北ノ窪」には弥生文化後期の北窪小原遺跡があります。『南足柄市史』によれば、「沼田」には縄文文化中期から後期にかけての沼田上ノ原遺跡や沼田城山下横穴墓群があります。このように「久所」の周辺の地域では縄文時代からすでに人々が居住し始めていたようですが、「久所」にはそのような痕跡はありません。

また周囲の三つの地区名はいずれもその地形に由来しています。「府川」は湿地や泥深い低地を意味する古語「フケ」から来ているとの説が一般的のようです。「北ノ窪」もまた同じような湿地帯でしたが、むしろ「府川」の北にある窪地であることを強調して名付けられたとされています。南足柄市側の「沼田」は東側を狩川、南側を分沢川とする沼地・湿田であったことに由来しています。これらの地区は古代から人が居住し、地名も長い時代を経て人々の間で熟成し定着してきたのであろうと思います。

『南足柄市史』によると、鎌倉幕府の歴史書である『吾妻鏡』の中に源頼朝が建長三年(一一九二)に足柄峠越えの要人警備を命じた一隊の中に「沼田太郎」との名前が現れると記されていますから、「沼田」との地名は平安時代の末期にはすでに存在していたことがわかります。

『小田原市史』によれば、「府川」は、小田原北条時代の永禄二年(一五五九)の『小田原衆所領役帳』に北条家の御馬廻衆であった狩野泰光の知行地として出てきます。しかし実際にはそれよりもはるか昔から存在していたのでしょう。調べていくと、周囲の地区の中で「久所」だけが特異的でした。なぜ「久所」なのか、いつ頃から「久所」なのか、また日本の他の地域にもあるのだろうかと気になってきました。


「久所」は他にあるのだろうか

そもそも「久所」という地名はめずらしいようです。約三十一万語の地名を載せているという『現代日本地名よみかた大辞典』では一カ所(神奈川県中井町の久所)のみでした。しかし対象となっている地名は現在の行政地名に限られています。そこで図書館で「地名」と名がつく三十種類近くの辞書・辞典・資料の類を探しだし、調べることにしました。また「久所(ぐぞ)」は平安時代末期に荘園管理のためにおかれた役所である「公所(ぐぞ)」に由来するとの説もあるので、これらの文字が出てくる言葉をインターネット上で検索することにしました。加えて国土地理院地図の全国地名調査も行いました。その結果、「久所」との地名は全国で以下に示す六カ所、「公所」は三カ所が見つかりました。


小田原市「久所(ぐぞ)」

小田原市の「久所」は『郷土の地名』(立木望隆著)によれば、「木所(きどころ)」が訛ったとの説と平安時代に公文所が置かれていた場所である「公所(ぐぞ)」に由来するとの説のようです。この地域の歴史を調べても「久所」は公文所が置かれるほどの荘園は存在していなかったので、由来が「公所」にあるとする説は疑問です。

「久所」の地名が初めて出てくるのは江戸時代後期に編纂された『新編相模国風土記稿』でした。平安時代に書かれた『和名類聚抄』も調べたのですが、近くの「飯田岡」の地名のルーツといわれている「飯田(郷)」は出てきますが、「久所」に関連しそうな地名は出てきません。

ともあれ『新編相模国風土記稿』によれば、足柄下郡早川庄の「府川村」の項に、小名として久所・萬石・楠木・西ノ久保が出ています。また隣接する「北ノ久保村」の項には小名として山崎・久所前がありました。小田原市内から南足柄市関本に抜ける昔の甲州道(旧道)から「久所」への分かれ道は今でも「久所入口」と呼ばれています。つまり「北ノ窪村」の「久所入口」から「久所前」を通って「久所」に行くことになります。


神奈川県中井町「久所(ぐぞ)」

中井町在住の郷土史家石黒弘さんに中井町の「久所」のルーツについてお聞きしたところ、次のようでした。

『この地域は古くから「公所(ぐぞ)」と呼ばれていたと思われるが、後に同じ呼び名の「久所(ぐぞ)」に変わったようだ。なぜ変わったのか、いつ変わったのかはわからない。昭和三十三年に書かれた村史にも何も書かれていない。江戸時代の古文書にはすでに「久所村」との記述がある。中井町の「久所」と小田原の「久所」との関連についてはわからない。小田原の「久所」の地域は平安時代末期に沼田城のある沼田氏の領地であって、「公所」が置かれていたのではないかとの説を立木望隆さんから聞いたことがある。その「公所」が「久所」に代わったのではないか。』

また『中井町史』によれば、「久所(ぐぞ)」の由来は、「昔役所があった所=公所」と「木所(きどころ)」が訛ったとの説があること、江戸時代にはすでに「久所村」と呼ばれていたと記されています。近くの平塚市には「公所(ぐぞ)」という地名がありますが、これとの混同を避けるために「公所」から「久所」に変えたのではないかとの推測もまた書かれていました。

中井町は平安末期から鎌倉期にかけて「中村郷」のあった地、日本における武士の発祥の地の一つです。中村氏(中村宗平やその子の土肥実平など)は源頼朝を助け、鎌倉幕府開府に大いに貢献し、有力な御家人となっています。中井町には保元二年創建の「五所八幡宮」があり、源頼朝の信仰が厚く、鎌倉幕府の庇護が深かったようです。

現地に行ってみると、五所八幡宮のすぐそばに久所公民館があり、近くには中村氏館跡もあり、この「久所」が当時は中村郷の重要な場所であり、荘園管理のための「公所」があったであろうことは容易に推測されました。また近くには「久所前」があり、井之口方面から山を越えて「久所」へ行く道の入口には「久所入口」というバス停留所もありました。「久所入口」・「久所前」・「久所」との地名の三点セットは小田原市の「久所」とまったく同じでした。


神奈川県秦野市「久所(ぐぞ)」

『秦野市史』や『秦野史研究』誌を含めた文献調査やインターネットによる検索では「久所」は見つかりませんでした。しかし国土地理院の地図には「久所」と書かれた地域が秦野市立上小学校北側ありました。

現地に行ってみると山裾の道沿いには「ここは久所自治会の避難所です」とか「星屋・久所組のごみ収集場所」と書かれた標識がありました。つまりこの付近の集落はたしかに「久所」と呼ばれていることが確認できました。しかし秦野市ホームページの「自治会名一覧」には久所自治会との名前はありません。最近になって他の自治会と統合されたのかもしれません。

秦野市はもともと平安末期にこの地を支配していた波多野氏の波多野郷でした。この地も日本の武士の発祥の地の一つとして知られています。波多野氏の一族の大友氏は現在の小田原市に東大友と西大友の地名があるように、この大友郷を拠点にして足柄平野の北側一帯を領有していたようです。調べていくと戦国時代のキリシタン大名として名高い豊後国の大友宗麟の本貫がその大友郷であったことも知りました。早川郷を本貫とする中村一族末裔の戦国大名小早川秀秋もそうですが、日本の歴史において小田原の地が日本の武士社会に人材を送り込んだ土地柄であったことをあらためて知った次第です。


神奈川県相模原市「久所(ぐぞ)」

『難読地名辞典』には、中井町とともに相模原市の「久所」が出ています。『日本歴史地名大系』の『神奈川県の地名』には「久所河原」・「久所渡」はありますが、国土地理院の地図にはありません。

現地に行きますと、相模川の高田橋の東端に「久所の渡し」と書かれた石碑が立っていました。ここは小田原北条時代に小田原と関東北部の小田原藩領を結ぶ街道、江戸から駿河国沼津宿に通じる矢倉沢往還、大山参りの道が相模川と交差する要所であり、大正十三年に初代の高田橋ができるまでは対岸への渡しがあった場所です。近くの河岸段丘の集落は現在では水郷田名ですが、昔は「久所」と呼ばれた宿場でした。その由来としてこの地に「公文所」が置かれていたのですが、のちに「文」が省かれて「公所(ぐぞ)」とよばれるようになり、さらに相模川の洪水のたびに人々が久しくこの宿場に逗留することが多かったので、次第に同音の「久所(ぐぞ)」となったと伝わっているようです。


千葉県館山市「久所(ぐじょう)」

インターネットの検索でやっと見つけた文字が館山市にある「久所集会所」でした。現地に行って探し出した館山市の「久所」は、館山市から白浜に抜ける県道八六号線沿いの山あいの盆地、「神余(かなまり)」地区にありました。その地には岩壁を彫ったほこらの中に「久所地蔵」があり、集落の中央をながれる巴川には「久所橋」が架かっていて、近くには「久所集会所」と書かれた小さな建物が本当にありました。畑を耕していた古老に聞くと、その集落は「久所(ぐじょう)」と呼ばれていることがわかりました。

神余とは「神が余る」の意です。律令時代は郷に住む家の数が五十戸をこえると増えた分を別の郷とする決まりがあり、それを余戸(あまりべ)と呼びました。この地は安房国の一宮である安房神社が近くにあります。その安房神社の神に仕える人たちが住んでいた神戸(かんべ)郷の戸数が多くなり、新しく開拓し余戸として移住したので、神が余った「神余」呼ばれるようになったようです。

この地には神余城跡や神余氏館跡があります。神余氏は平安末期から鎌倉期にいた豪族であって、源頼朝が石橋山合戦で敗れ、土肥実平とともに真鶴半島の岩海岸から舟に乗って房総半島の安房国に逃れた際に頼朝一行を出迎えた一人であり、頼朝を助けて鎌倉幕府開府に貢献したという家柄です。神余氏と土肥氏とがこのような近い関係にあったとは知りませんでした。

ついでながら、神余氏の館跡には明治七年創立という歴史ある神余小学校が建っていました。小学校のホームページを見ますと昨年の修学旅行は小田原に来て箱根に一泊し鎌倉に寄って戻るコースのようでした。源頼朝を通じての小田原・湯河原と神余、これもまた歴史の因縁を感じました。


大分県大分市「久所(くじょ)」

『日本地名大辞典』の大分県の部に、現在の大分市にはかって「久所村(くじょむら)」があったと記されています。大分県のホームページの詳細な資料を見ると、明治九年に合併して丹川(あかがわ)村と名前を変えるまでは確かに「久所村」が存在していました。地図で確認すると現在は「上久所」と「下久所」との地名が存在し、それらは隣接した場所にあるので、この地に「久所村」のあったことが推測できます。(下図をクリックすると大きくなります)


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「公所」について

「公所」は全国で三カ所見つかりました。いずれも神奈川県内のみで、平塚市の「公所(ぐぞ)」、厚木市の「公所(ぐじょ)」、大和市の「公所(ぐぞ)」です。地名の由来はこの地に平安時代あるいは鎌倉時代の「公文所」が設けられていて、「公文所」の「文」が取れて「公所(くじょ)」となり、さらに「公所(ぐぞ)」となったとされています。

ところで、「公所(こうしょ)」との言葉は、現在でも役所や公共施設、会館などを表す言葉として使われています。古くからの地名としての「公所」が少ないのは一般名称として今もなお使われているためでしょうか。


なぜ「久所」なのだろうか

地名は、特にその地域の古い小名の類は、そこに住む後代の人たちの記憶から消え去ってしまうことが多々あります。「久所」という地名も昔は全国に数多くあったと考えた方がいいのでしょう。しかしそれにしても現在残っている「久所」や「公所」との地名が神奈川県西部の旧「相模国」に多いのはなぜなのでしょうか。残るメカニズムがあったのでしょうか。『新編相模国風土記稿』もその一因なのでしょうか。

ともあれ私の住む小田原市の「久所」についてだけ言えば、古くからからこの地に住んでいた人々の間で熟成され伝承されてきた地名というよりはむしろ歴史のある時期に突然に登場したように感じられるのです。つまり、昔、誰かがこの未開拓の地に入り、その人たちにとって特別な地名をつけたとする地名転移説が最もあり得る説明ではないかと思うようになりました。

この例は『地名の由来を知る事典』(武光誠著)によれば、古くは奈良時代初期に書かれた『播磨国風土記』の中に、「中国からの渡来人の集団が最初に紀伊国名草郡大田(おおたた)の村に住みつき、次第に勢力を伸ばして新たな土地を得るたびにその地を次々と大田と名付けた」とあるそうです。近年でも北海道に入植し土地を開拓した奈良県十津川村の人たちがその地を「新十津川」と命名した例はよく知られています。イギリスのロンドンと同じ名前をつけた地名はカナダを始め世界各地にあります。地名の原初の由来は別にして地名転移説で説明できる地名の例は日本ばかりでなく世界の各地で普遍的に見られます。


仮説:久所の始まり

「久所」の始まり関してどのような話が伝わっているのか、最長老の高橋清さん(大正十四年生れ)にお話を伺うことにしました。驚いたことにお話は次のようでした。

『伝え聞いた話では、昔、七人の武者がこの地に住み着いたそうだ。そのきっかけは小田原北條氏が豊臣秀吉に敗れ、北條氏に仕えていた多くの武者たちが職を失ったことにあるのではないかと思う。』

これはまさに地名転移説の可能性を裏付けています。多くの昔話や神話がそうであるように、伝承されている話が真実であるとは限りません。しかし真実の痕跡は残されているのであろうと思います。もしもこの伝承が正しいとしたならば、それはいつ頃、誰だったのでしょうか。武士の集団が未開拓だったこの地に同時に入り、武士から農民へと生き方を変えるには何かの特別な事件があったはずです。その歴史上の事件とは、仕えていた主君の改易・断絶などによって知行・俸禄を失って同時に失業したことによるものなのでしょう。またその複数の武士は互いに地縁や血縁があり、同じ主君で結ばれていた仲間であった可能性が高いでしょう。

『小田原市史』によれば、小田原北条氏の滅亡の際には、秀吉が北條氏の家臣の仕官先を直接に世話した例もあったようですが、身分の低い武士たちはそのまま放逐されました。江戸時代になっても『おだわらの歴史』によれば、「家臣たちは小田原城明け渡しの際に召し放たれて離散した」ようです。その中でもっとも大量に放逐された事件はやはり小田原北条氏の滅亡時であったかと思われます。

また武士たちは新しい地を自分たちにとって特別な名前にしたのですから、当人ではなくてもその父・祖父さらには先祖の本貫は武士の出身地としては名乗るにふさわしい由緒のある土地であるはずです。中井町の「久所」はそのような地の一つです。さらには地名として「久所」・「久所前」・「久所入口」が残っていました。小田原と中井町の二つの地域で、三つの地名のセットがこれほど一致していることは実にめずらしいと思います。

以上のような調査と伝承されているお話から、私の住む「久所の始まり」は、今から四百年ほど前に小田原北条氏が滅んだときに、現在の中井町の「久所」に縁の深い武士たちがこの地に入り、開拓して「久所」と名付けた可能性が高いのではないかと考えるようになった次第です。

2014年9月17日 (水)

第85話 「感性」との言葉

第85話 「感性」との言葉


「感性」の地位は大きく変わりつつあるように思う。「感性」と「理性」をそれぞれ両天秤の皿に載せると、「理性」の方がずっと重かった時代が長く続いてきた。しかし近代工業社会の終焉が見えだしてきた近年では「感性」が次第に重要度を増してきた。だが、まだまだ対等までは至ってはいない。辞書・辞典類を調べて見ると、その混乱期に今あることがよくわかる。

以下に、各種の辞書・事典に記述された「感性」の内容を示す。<コメント>は私自身の感じたことの補足である。


【日本語大辞典】感性

1. 心に深く感じること
2. 哲学の用語。知性や意志と区別された感覚、欲求、感情、情緒などにかかわる心の能力

<コメント>

最も概括的にはそうであろうと思う。


【広辞苑】感性 sensibility

1. 外界の刺激に応じて感覚・知覚を生ずる感覚器官の感受性
2. 感覚によってよび起こされ、それに支配される体験内容。従って、感覚に伴う感情や衝動・欲望をも含む。
3. 理性・意志によって制御されるべき感覚的欲求
4. 思惟(悟性的認識)の素材となる感覚的認識

<コメント>

3の意味は、「感性」は「理性」の下に存在すべき、と言っている。このようなヒエラルキーが存在しているとは私は思わない。「神の下に人は存在する」という聖書の教えのごとく、世間では「理性」を神、人を「感性」に対応させている人が多いのかもしれない。「理性」は到達できないはるか上の天上界にあって、「感性」は身近な人間界にあると言う理解か。明らかに西洋キリスト教社会の価値観である。


【明鏡国語辞典】感性

・ 外界からの刺激を直感的に印象として感じ取る能力。感受性。

<コメント>

「感性」の特性の一つがソトとウチを結びつけるセンサー的役割であること確かだが、それだけではない。


【ブリタニカ国際百科事典】感性 sensibility

『感性とは』 時間と空間に本質的に制約されている物質的対象からの刺激を、感官を媒介として受け入れる精神の認識能力で、これと対置される知的認識能力に素材を提供する。またはこのような作用の総体をもいう。能力としての感性の現実化は、主体に快または苦痛をもたらすため、人間行動の原動力となるが、それらは個別的な善(または悪)として、人間の全体的善(または悪)にしばしば対立する。したがって実践上、理性と意志によって洗練され、統制されなければならない。なお、刺激に対する身体の敏感度を感性ということもある。

<コメント>

まず「感官」とは感覚器官とその知覚作用であって、生理作用と心理作用を統一的に考える場合に用いる言葉(広辞苑)。説明文では感覚器官を省略して「感官」と使っただけである。文中の“これ”がわかりにくいのだが、広くは「感性」のことだろう。この説明では、「感性」は明らかに「理性」の完全なコントロール下になければならない、つまりの「理性」の“奴隷でなければならないと言っている。ブリタニカ国際百科事典のこの文を誰が書いたのかわからないが、西欧キリスト教社会に属する誰かが聖書を無意識に考慮しながら書いたことは間違いないだろう。とすると“西洋”では、「感性」の地位は極めて低い。我々の感覚からするとsenseの能力(sensibility)だけが「感性」ではない。つまり、「感性」に該当する適切な単語が“西洋”にはないのだろう。


【マイペディア】感性 sensibility

知性、理性、悟性などの知的認識能力に対する、感覚的認識能力一般、ときに感情をも含めての総称。その受動性のゆえに、伝統的に知性や理性より低いものとされてきたが、直観を重視する哲学や、経験論・感覚論に基礎を置く思潮では高い位置が与えられる。

<コメント>
 
歴史的に見て「感性」の地位が向上してきたことを言っている。16世紀に自然科学が誕生し、それに支援された近代工業技術によって成立した科学技術文明は、大いに人類に恩恵をもたらした。自然科学はモノとココロを分離することで急激な進化を遂げたのであるが、その結果「感性」よりも「理性」を重要視する風潮を生んだ。ニュートンを徹底的に批判したゲーテばかりでなく、警告を発した科学者や哲学者達はすでに19世紀から存在していた。これまで成功してきた自然科学パラダイムが内外の環境に適合しない事例を生み出すに及んで、ようやく「感性」が「理性」と対等に考えられるような地位向上がなされていったと思う。

上記の“自然科学”は「外なる自然」に関する自然科学(タイプ1。物質科学:物理学・化学)であって、人や社会に直接に関連しなくても進化することができた。しかし近年認識されてきた(と思うのは私だけか?)「内なる自然」に関する自然科学(タイプ2。情報科学・生命科学)は人や社会に密接に関連せざるを得ない。「感性」を抜きにしては語れなくなってきたと思う。近年の一神教の世界から多神教の世界への認識の広がりと対応している。


【ジーニアス英和大辞典】感性
・ passion ( cf. reason)
・ sensibility

<コメント> 

「感性」はpassion でもなければ、sensibility でもないと思うのだが。


【新和英大辞典】感性

・ 〔感覚力〕sensitivity;sensibility;sensitiveness
・ 〔感受性〕susceptibility


【プログレッシブ和英中辞典】感性
・ sensitivity

<コメント>

sensibilityではなくsensitivity と言っている。


【オックスフォード現代英英辞典】sensitivity

1. the ability to understand other people’s feelings
2. the ability to understand art, music and literature and to express yourself through them
3. a tendency to be easily offend or upset by sth
4. the fact of needing to be treated very carefully because it may offend or upset people
5. the quality of reacting quickly or more than usual to sth
6. the ability to measure very small changes

<コメント> 

違和感があるのは、たとえば3.や4.のようにsensitivityは明らかに好ましくない行動・反応のニュアンスを持っていることだ。ここでもヒトは“理性的”に振る舞うことが期待されている。全体的にはセンサーの意味合いが強い。


【オックスフォード現代英英辞典】sensibility

1. the ability to express and understand deep feelings, especially in art and literature
2. 〔pl.〕a person’s feelings, especially when the person is easily offend or influenced by sth

<コメント> 

これも、sensibilityは明らかに好ましくない行動・反応のニュアンスを持っている。


【専門用語100万語和英】感性

・ sensibility<化学・工業化学><医学・薬学>
・ sensitivity<生命科学><医学・薬学>

<コメント> 

このように分野で区別して使っているのかどうなのか私は知らなかった。本当か。


【日本語大シソーラス】感性

感性 フィーリング;感受 感受性 受容生 情操;センス 感度 感応 感覚→五感;センシビリティー センシブル センシティビティー センシティブ


【類語例解辞典】感受性/感性

・共通する意味;外からの刺激を直観的に感じ取り、受けとめる能力。Sensibility

・使い分け:1.「感受性」は、刺激を心に深く受けとめ、深い反応をよび起こす力。繊細な能力で、プラスにもマイナスにも働く、受動的な能力。

2.「感性」は、感覚的に印象をつかみ、感じ取る能力。そのセンスが外に発揮されることもあり、必ずしも受動的なだけの能力ではない。

・反対語:悟性・理性

<コメント> 

2.の「感性」はそうであろうと思う


【岩波 哲学・思想事典】感性・sensibility

一般に知性と対立して、感官・感覚さらには情念のはたらきを概括的にとらえる語。(略)。Sensibilityという言葉は、個々のsense=感官・感覚の総体いう集合名詞的な意味と、senseのはたらきあるいはありようを概括的にとらえる抽象名詞的な意味をあわせもっている。

①感性は、知性の能動性に対比して、古来しばしば受動性と(さまざまな意味での)有限性をその特徴として捉えられてきた。

②反面、それはいわば人間が現実と接する第一の界面として、したがって人間と現実とのかかわりにおいて決定的な重要性をもち、人間の現実感覚やまた認識・認知一般の形成においてしばしば不可欠なもの(ときには唯一の源泉としての)役割を演ずるものとされる。

③近世において、総じて感性の地位が知性的なモメントとの相対的位置関係において上昇し、さまざまな形で重要な役割を演ずるについては、上記②の味方の徹底にとどまらず、それと並んで、人間の<現実>とのかかわりにおける感性・知性の付置の根本的な転換・再編成の力動がその背後に存したと考えられる。

・以降の記述 〔カントの感性論〕:(略)、〔歴史的展望〕:(略)。

<コメント> 

知性・悟性・理性・感性の定義や相互関係はそれを取り上げる人(哲学者など)によって実にさまざまである。プロではない私たちは、ぐらつかない程度に自分なりに定義や相互関係を規定しておけばよろしいと思う。

①の「知性は能動性であり、感性は受動性であって有限的」との意味がわからない。古来とは古代や中世からの時代を言うのか。その時代のパラダイムに浸かったことのない現代に私たちには現代のパラダイムからの視点からしか理解し得ないのは当然ではある。例えば、科学哲学史のT.クーンはその時代の人になりきってその時代のパラダイムを体感しなければ、その時代の人物の行動を理解できないと言っている。

②と③の意味は、「外なる自然」のさまざまな事象を取り入れることの重要性が認識されて、感性の地位が向上したと言っている。


【平凡社 世界大百科事典】感性 sensibility

もろもろの感官による感覚的認識能力一般から、ときに感情をも総称する用語として使われる。感覚的認識能力としての感性は、通常、知性、理性、悟性等何らかの意味での知的認識能力に対立するものとして使われ、また感性の語が主として感情の意味に重きをおかれるには、知性と意志とに対立するものとして使われるのが一般的である。

古代ギリシャ以来、感性は受動的なものであり、したがって確実な認識をもたらすことのないものとして、知性や理性に対して低く位置づけられ、感情もまた、とりわけ中世の哲学においては、同じく受動的である故に、理性や善を自由な発現を妨げるものとして低い位置をあたえられるのを常としてきた。しかし、一方で、人間の心の構成を、直感的な感性、間接的推論による認識をこととする理性、高次の直観に関わる知性の三段階で考える行き方がギリシャ以来中世にわたる、とくにプラトン主義の伝統の中にあり、この知性による直観と感性的直観とが直観というかぎりで共通することから、重ね合わされ融合されるとき、ときに感性にたいする高い評価が生じてくる。ルネサンス時代の美的汎神論から、スピノザの能動的感情(action、通常の受動的感情passioに対立)の考え、また近世イギリスの美的道徳的感情の哲学などがその代表例である。

この傾向は、さらに近代科学の登場にともなう認識論の領域での感性の役割を重視する経験論や感覚論の哲学の台頭と合流して、ドイツ、イギリスのロマン派からフランスのスピリチュアリズムに通じる感性の中に知性の根ともなる積極的能動的要素の芽を見る行き方につながっていく。現在では、さらに記号論的構造論的手法を導入して、感性の中に知的なものと同質な論理をさぐる方向が新たな色どりをそえている。

<コメント> 

プロの哲学者はそういうものなのか、わざとわかりにくくしているような文章である。とはいえ、内容的にはとても良く理解できる記述である。

感性を理性の下に位置づける古来からの伝統はヒトの心の中に深くしみ込んでいる。感性は理性と同じくらい重要(さらには理性に先行すると言う意味ではより重要)だとする現在の私たちの感覚とずれだしてきたとの時代の流れを言っているように思う。

その感性の地位が高くなってきた理由は、私たちが自然科学(タイプ1の自然科学、つまり物質科学)によって支援された科学技術文明のパラダイムの中で生きているからである。

第84話 商品の「感性」とは

第84話 商品の「感性」とは


最近になって商品に対して“感性”“感性”と叫ばれる機会が多くなったように思う。これは生活必需品としての商品の時代が終わりに近づき、新たな時代へのシグナルの一つであることは確かである。これまで<商品に感じる感性とは何だろうか>などととじっくり考えることもなかったが、これを機会に「感性」に対するイメージをまとめることにした。


「感性」との言葉

多くの辞書・事典類では(参照:第85話:辞書の感性とは)、感性は理性(さらには知性・悟性)に対する言葉と捉えられている。悟性が知性と何が違うのか調べてもよくわからないので、しばらく悟性は知性と同じと考えておく。そしてさらにデカルトの「方法序説」では理性を知性と同じ意味に使っているのだが、以下では知性は理性と感性を包含した上位の概念であると考えることにする。

つまり知性は理性と感性から構成され、知性=理性+感性 と考えたい。知性を人の知的センスおよびそれによって構築された「知」の世界と理解すれば、理性とは人の論理的センスおよびそれで構築された「知」の世界であり、感性とは感覚的センスおよびそれで構築された「知」の世界と言っても良いのだろう。

調べていくと、感性は過去には理性の下位に存在していた。その背景には自然科学の誕生と発展があるのだが、ここではそれには触れない。現代では、感性は少なくとも理性と対等の立場にあると徐々に理解されるようになってきたようだ。

また現在の一般的認識、つまり常識では、理性は“論理的”に理解できるものであって、感性は“論理的”に理解できないものであり、だから理性よりも下位にあるとの理解があるようだ。論理的というのは、より具体的には演繹的推論と帰納的推論で理解できるという意味であろう。そうすると、CS.パースの言うアブダクションによる推論を理解することは、感性を“論理的”に理解する上で重要となろう。なぜなら創造的営みの最初の暗黙的な仮説はひらめきで生じるのであり、ひらめきはたぶん“感性”という能力の発露であって、それはまさにアブダクションによるものであるからである。

さらに感性とのことばの使われ方には二種類あるようだ。「ソトの世界」をヒト・社会・自然が存在していて五感で感じることのできる現実の世界とし、「ウチの世界」を生命や心で感じる超自然な仮想の世界と考えたときに、「ソトの世界」と「ウチの世界」の二つの世界における「知を理解する手段」に関心の重点を置いた感性と、感性で理解した結果の「知の状態」に関心の重点を置いた感性である。

“感性で理解する”などの表現は前者であり、“感性の世界”などと言う表現は後者であろう。<“感性”を感じる商品とは何だろうか>との命題における“感性”は、「知」を理解する手段に関心の重点を置いた感性であろうから、以下はこれについて考えることにする。なお、理性との言葉の使われ方にも、手段に関心の重点をおく場合と、状態に関心の重点をおく場合の二種類あるように思う。(下図をクリックすると大きくなります)


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感性は“好ましい”のか

「知」を理解する能力に関心の重点を置く立場では、感性は「ソトの世界」と「ウチの世界」の界面に存在している「センサー」のようなものだろう。このようなセンサーによってヒトは関心対象を感じ取り、何らかの価値基準と照らし合わせて対象を評価し、ソトの世界やウチの世界にプラスの“好ましい”とのシグナルや“好ましくない”とのマイナスのシグナルを送ったりするであろう。ときにはプラスでもマイナスでもないシグナルを送ることもあろう。

感性とはそのような双方向で多重的な機能を持っているはずだ。確かに哲学的にはそのようなニュアンスでとらえていいのであろうが、調べてみると「感性」に対応する言葉としての英語の sensibility あるいは sensitivity に対して、英語圏の人々は“急に怒り出す”ような“好ましくない”イメージのみを抱いているようである。

しかし私たち日本人の現実の世間では、「あの人は感性がある」とか、「感性を感じる商品だ」などと使われていて、「感性」と言葉は暗黙的にその人にとって”好ましい”、つまりプラスの価値を表す形容詞のような言葉として使われているように思う。イノベーションとの言葉も同じように、その時代の、大勢の人が、それ以前に比べて、急激に“好ましい”方向に社会が変わったと感じる現象を言っている。「感性」にしろ、イノベーションにしろ、そこには“好ましさ”に関する暗黙の価値基準が存在している。(下図をクリックすると大きくなります)

(このような「感性」に対するプラス・イメージの適切な英語はないようだ。とすると、<“感性”を感じる商品> は英訳するとどうなるのだろう。)


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絶対的な価値基準から見る“好ましい”はあるのか

“好ましい”ということは、対象を感じ取って得たあるシグナルが、ある「価値基準」と比較してプラスの方向にあることを意味している。その「価値基準」には「絶対的な価値基準」と「相対的な価値基準」があるように思う。

「絶対的な価値基準」とは、ヒトが生物種の一つ「人類」として先天的に持っているものであり、2種類ある。一つは生命の遺伝子としての“DNA”に組み込まれた「価値基準」である。 “DNA”に組み込まれた「価値基準」とは、A.H.マズローの第一次的欲求、すなわちヒトが生きるために「闘う」・「逃げる」・「食べる」・「生殖する」のような自己の生理的欲求および自己の安全欲求に関連する「絶対的価値基準」である。

これはヒトがサルと分かれて以来「外なる自然空間」 の中で今日まで700万年にわたって形成されてきた生物として生きるための価値基準であったであろう。「外なる自然」とは五感で感じることのできるリアルな自然であり、「内なる自然」とは心や生命で感じるバーチャルな自然を意味している。心や生命で感じるとは、五感を超えた第六感の超自然の世界である。

もう一つはドーキンスの「利己的な遺伝子」でいう文化の遺伝子としての“ミーム” に組み込まれた「価値基準」でる。 “ミーム”に組み込また「価値基準」とは、人類としての文化や社会倫理、習慣・タブーなどを含んだものである。ヒトの脳が増大し、創造的営みの行為が爆発的に増大した後期旧石器時代以降の約4万年にわたる「内なる自然空間」の中で形成されてきた価値基準であろう。ギリシャの時代から言われている認識上の「真」、倫理上の「善」、審美上の「美」はすべてのヒト に普遍的であるという意味で「絶対的価値基準」に該当しよう。近代社会における教育を受けた現在の普通の自由な市民のほとんどのヒトは絶対的価値としての真・善・美を否定はしないであろう。もちろん、それに該当しないヒトも存在するであろうが。(下図をクリックすると大きくなります)


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このようなDNAやミームに由来する「絶対的な価値基準」はmustであって、「〜すべきである」とか「〜すべきではない」、あるいは「〜であるべきだ」などとしばしば語られるように、演繹的論理で表現される。“好ましい”はあくまでも相対的であって、「絶対的価値基準」から見る“好ましさ”はありえるのだろうか。


相対的な価値基準 

「絶対的価値基準」と違って「相対的な価値基準」とは、個々の「ヒト」が誕生後に後天的に獲得するものである。親や他人、教育や社会からのさまざまな影響や経験によってその人の中で形成されてきた価値基準である。従ってそれは「人」と「時」と「場」の関数となる。「人」とは、個人もあるし、ある単位の集団もあろう。「時」とは時代や時間の要因であり、「場」とはその「人」が存在する環境や社会・集団の要因である。だから「相対的な価値基準」に基づく“好ましい”は、「人」や「時」や「場」が異なれば、“好ましくない”と評価されることは常にある。

その価値基準はDNAやミームに組み込まれた「絶対的価値基準」のようにmust ではなく、基本的にはwant である。だから、個性的であり、多様的である。<“感性”を感じる商品とは何だろうか>における“感性”とは「相対的な価値基準」からくる“好ましさ”ではなかろうか。


「夢・愛・美」

人工情報が飛び交い、空間がそれで満たされるようになった現在の「人工情報空間」においては、ある価値空間を持つ閉鎖的な集団が存在しやすくなる。なぜなら情報が大量に満ちている空間の最大の特徴は、情報の量が多いことではなく情報の選択肢が増えていることであり、特定の価値を持った情報のみを知識として膨大に収集することが極めて容易になるからである。その結果、強固な求心力を持った“個性的”な集団が生まれやすく、かつ成長しやすい。そのような閉鎖的な集団においては、社会全体から見れば普遍性がなく、相対的であるが、しかしその集団の個々のヒトの間では絶対的と見なされている「相対的価値基準」が存在しているようだ。

それが何なのか定かではないが、アウシュビッツ収容所で生き残った人に対する調査結果は大いに参考になると思う。そのような極端な閉鎖的空間にいた人々は「夢」・「愛」・「美」が絶対的価値となっていたとの報告(佐久間章行著「人類の滅亡と文明の崩壊の回避」)である。絶対的価値基準である「真・善・美」の普遍的な「美」と相対的価値基準である「夢・愛・美」の個人的な「美」は言葉では同じ「美」なのであるが、どのように違うのかまだよく理解していない。


“感性”を感じる時とは

あるモノが欲しいと感じた時とは、そのモノに対して心のポテンシャルが高まった状態(活性化状態)にあることは間違いないであろう。“欲しい”との心の状態、つまり願望のモードには「欲求」と「欲望」の二つがあると考えている。「欲求」とは「何をしたいか」が分かっている活性化状態であり、「欲望」とは「何をしたいか」分からないが「何かしたい」との活性化状態である。「欲求」の行為とは仮説検証のプロセスであり、「欲望」の行為とはさらなる仮説形成のプロセスである。

前者の場合、そのモノを手に入れれば、つまりその仮説が検証されれば、心のポテンシャルは基底状態に戻る。つまり満足する。しかし後者の場合は例えそのモノを手に入れても、それが自分の求めていたモノかどうかは自分でもよくわからないのであるから、さらなる“本モノ”を求めようとする。心のポテンシャルは活性化された状態にあり、さらなる旅が始まる。

あるモノに“感性”を感じた時にも同じような二つの場面があるようだ。自分の“感性”に合うモノを探し求めていてそれに出会った場面と、思いがけずにそのモノに出会って、そこから予想もしなかったしなかった新たな“感性”を感じ取った場面の違いである。前者は仮説検証のプロセスであり、後者は仮説形成のプロセスである。いずれも自分にとって何が絶対的なモノであるのかを求める一連のプロセス、つまりパースの『創造のプロセス』(下図)そのものである。(下図をクリックすると大きくなります)


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付け加えるならば、「知識」は下図のように分類されると思っているのだが、仮説検証のプロセスでは「知識」のうち、思い出すことのできる「意識知」が主体となって帰納的推論によりプロセスは展開されるが、仮説形成のプロセスは「無意識知」のうち、心や意識が活性化されることによって思い出される「臨界知」が主体となって、アブダクションによりプロセスが展開される。(下図をクリックすると大きくなります)


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とりあえずのまとめ

「感性のある人だ」とか「感性を感じる商品」と言うのは、煎じ詰めれば最終的に「夢」・「愛」・「美」にたどり着くような“好ましさ”を感じたからに違いない。「地球環境にやさしい」のも、「少子高齢化社会にやさしい」のも、「フィーリングをくすぐる」のも、すべてがその個人の「夢」・「愛」・「美」に還元されるかもしれない。もちろんその他の象徴的な適切なキーワードがあるのかもしれないが、少なくとも「夢」・「愛」・「美」を参考にしてもよいのではないかと思う。

「感性」や「価値」などに関する話題は自然科学ではなく人文社会科学領域の話である。人文社会科学の世界では自然科学の世界と違って頂上に向かって数多くの登り口がある。どの登り口でも基本的には頂上に達する。間違っていたら途中でより“好ましい”道に代えてもかまわない。重要なのは、最適な登り口を探してさまよい歩くよりは、まずは“適当”な登り口から登り始めることだと思う。それによって「感性」の理解に少しは近づいていくと思う。 


次回は、辞書などにおいて一般的に言われている「感性」についてまとめておきたいと思う。


2014年4月 5日 (土)

第83話 ナマコは海中資源か 海底資源か

第83話 ナマコは海中資源か 海底資源か


縁あってインドネシアのバリ島の村々を尋ねることになった旅の帰り、デンパサール空港からガルーダ航空に乗った。ガルーダ航空というのはかってのJALのようなインドネシアの国策会社であり、JALの鶴に対してヒンドゥ教の神の鳥であるガルーダをロゴとしている。JALと決定的に違うのは「世界でベストなエコノミークラスであることを誇りにしている」と自ら宣言していることだ。たしかに2013年に賞をもらっていて、座席がすこし広くて乗り心地がよく、サービスもなかなかよかった。ビールなども好きなときに持ってきてくれる。もちろんただである。


他の航空会社でもよくあることだが、機内への入口にいろいろな新聞が置いてある。その中に「じゃかるた新聞」があった。私は遠くに行ったときには、新聞を手にする機会があれば、朝日とか毎日とか読売などのつまらない全国紙ではなく、その地方の新聞を読むことにしている。その地方のおもしろい記事が載っていて、意外な発見をすることはよくあるのだ。めずらしい新聞が気になるという癖は、小学生の頃に日本各地の新聞やさまざまな業界紙などの新聞の題字を集めることに凝ったことがある影響かもしれない。そういえば題字を集めてスクラップにしたあの題字コレクションはどこに行ったのだろう。


それで「じゃかるた新聞(The Daily Jakarta Shimbun)」なのだが、インドネシアで日本語の新聞が毎日発行されているとは知らなかった。感激した。帰ってから調べてみると、次のように自己紹介されている。


『スハルト政権崩壊から半年後の1998年11月16日、英語を除く初の外国語新聞として当時の情報省の発行許可を得て第1号を発行したじゃかるた新聞は、西はアチェ州から東はパプア州まで広大な国土を有するインドネシアの全土を取材の対象として、生のインドネシア情報を毎日お届けしています。』


というとまだ16年ほどの短い歴史である。毎日8ページで、インドネシアのニュースを3ページ、日本のニュースを5ページ掲載していますとのこと。発行部数は一日あたり5000部、月に30万ルピア。日本円で言えばおよそ3000円ということなので、月に500万円の売上げと言うことになる。島々が点在しているあの広いインドネシアの各地に毎日配送しているというのだ。すごいことだと思う。資本金1000万円、経営者層を除き従業員60人程度でよくやっていると感心する。若かったらこんなところの新聞記者になってもおもしろかったろうと思う。


それはそれでいいのだが、この「じゃかるた新聞」に日本ではお目にかかれない実に愉快な記事があったので紹介したい。2014年(平成26年)3月26日の第1面に出ていた『豪州政府に賠償命令 イ漁船摘発』と題した記事を見つけたのだ。“イ漁船”とはインドネシア漁船のことと推測した。話はこうである。


インドネシアの漁師が2008年のある日に海でナマコを捕っていた。そこにオーストラリア海軍の船がやってきて漁師を密漁の疑いで捕まえ、漁船を燃やしたと言う事件の顛末である。すぐに漁船を燃やしてしまったというオーストラリア海軍がそんなに手荒いことを日常的にやっているとは知らなかった。高圧的に取り締まっている様子が目に浮かぶ。かってのソ連でも北方四島付近で拿捕した日本の漁船を返さないことはあっても、直ちに燃してしまうようなひどいことはしていなかったはずだ。


問題を複雑にしているのはナマコを捕っていた現場である。現場はインドネシア側の「排他的経済水域( Exclusive Economic Zone; EEZ)」にあるのだが、同時にその現場はオーストラリアの大陸棚の上にもあった。大陸棚の海底資源はオーストラリアの法律の下にあるが、海中の魚はインドネシアが管轄している。ナマコは魚であると認識していた漁民はオーストラリア政府に対して裁判を起こした。ややこしい話である。ナマコは海底資源なのか、海中資源なのか。はなはだ哲学的な問題である。たしかにナマコは海底に棲息している。時には海底の砂の中に潜るであろうし、また時には海底から飛び上がるかもしれない。しかし、ふつうは海底をはいずり回っていると思うのが常識であろう。


「じゃかるた新聞」の第一面の記事はその裁判の結果であった。記事によると『ダーウィンにある連邦地方裁判所は「漁師には違法行為はなく、漁船の押収には根拠がない」としてオーストラリア政府に対して漁師への44万ドル(約46億2700ルピア)での賠償を命じた』のであった。日本円で言うと約4400万円にもなる。彼の国の物価からすれば、漁船を新しく造った上で、なお一生暮らせるほどの大金持ちになったのではないかと思うほどだ。


事件は発生から6年もたっている。インドネシアの漁師が裁判に勝ったら今後の取締の示しがつかなくなると言うオーストラリア海軍の取締当局の根強い抵抗があったに違いない。どこの国の役人たちも同じである。またインドネシアの政府当局の役人もこの裁判で勝たねば今後の漁業に差し支えると漁師そっちのけでがんばったのだろう。当事者の漁師は裁判を起こす気などはさらさらなかったであろうことは容易に推察できる。


ともあれ、漁船を燃やされてしまった漁師は6年間もの長い間どうして生活していたのだろうか。もっとも彼の国では寒さで死ぬようなことはないし、イスラム世界では相互扶助の精神がまだ残っているようであるし、食べものは野や山で自由に手に入るし、糸を垂れれば魚はかかってくるし、何も切実に困るようなことはなかったかもしれない。


この裁判結果は常識的な、まっとうな判断である。よかった。よかった。あきらめずに粘ったインドネシアの漁師と英断を下したオーストラリアの裁判官に喝采を送りたいものである。

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