2012年5月17日 (木)

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ある話を探すには、下記の話のタイトル(例えば 「第07話:ビールの泡は新幹線の中でどうなるかという話」)をコピーし、Googleなどの検索欄にペーストして検索にかければ出てきます。


第01話:誰がイノベーションを殺したの(マザーグースの唄)・・・・・・・・・・・・・・・・2011.6.28
第02話:平和が一番・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2011.6.28
第03話:電話を待ちながら・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2011.6.28
第04話:アブダクション 創造の発端 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2011.6.28
第05話:女王陛下の船・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2011.6.29
第06話:ビールの泡で宇宙からのメッセージがわかるだろうかという話・・・・・・・・・・・・2011.6.30
第07話:ビールの泡は新幹線の中でどうなるかという話・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2011.6.29
第08話:娘に語ったあの夜の話・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2011.7.1
第09話:笑いの本質・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2011.7.2
第10話:光はとても大切だという話・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2011.7.3
第11話:組織の中のシンドローム・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2011.7.4
第12話:温泉で宇宙を味わう話・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2011.7.5
第13話:「災難」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2011.7.6

第14話:急性肝炎 入院記(前編)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2011.7.8
第15話:急性肝炎 入院記(後編)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2011.7.8

第16話:ホタルの光は何色かという話・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2011.7.12
第17話:けしからぬハイジャック・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2011.7.12
第18話:反主流派として生きると言うことは・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2011.7.16
第19話:バーバリーだけが知っている・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2011.7.16
第20話:”アベリン・パラドックス”の話・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2011.7.17
第21話:異聞「朝三暮四」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2011.7.25

第22話:「ネガ」と「ポジ」の話 前編・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2011.7.29
第23話:「ネガ」と「ポジ」の話 後編・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2011.7.29

第24話:“ひらめき”へのステップ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2011.8.4
第25話:「五箇条の御誓文」は生きている・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2011.8.9
第26話:ものごとの決め方の話・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2011.8.21
第27話:放射能災難の中で暮らすには・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2011.8.30
第28話:センチメンタル・ジャーニー・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2011.9.16
第29話:地球温暖化の「二酸化炭素説」はどうも変だ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2011.9.19
第30話:「結び」のすすめ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2011.9.23
第31話:創造における人の論理と人の癖・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2011.10.5
第32話:吾が愛しのF104 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2011.10.6


第33話:光と色と絵の話 (01)「白い光」は特別だ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2011.10.21
第34話:光と色と絵の話 (02)“あるがまま”から“神のこころ”へ ・・・・・・・・・・・2011.10.26
第35話:光と色と絵の話 (03)「白い光」の復活 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2011.10.31
第36話 光と色と絵の話 (04)光と影の画家たち ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2011.11.11
第37話:光と色と絵の話 (05)「白い光」が見つかった ・・・・・・・・・・・・・・・・・2011.11.17
第38話 光と色と絵の話 (06)太陽の色々な光・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2011.11.24
第39話:光と色と絵の話 (07)フェルメールの「白い光」・・・・・・・・・・・・・・・・・2011.11.29
第40話:光と色と絵の話 (08)最先端の国オランダ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2011.12.14
第41話:光と色と絵の話 (09)ニュートンは間違っている ・・・・・・・・・・・・・・・・2012.1.22
第42話:光と色と絵の話 (10)色はいろいろある ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2012.1.23
第43話:光と色と絵の話 (11)モネの絵が変わった ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2012.1.25
第44話:光と色と絵の話 (12)絵画が科学に出会った ・・・・・・・・・・・・・・・・・・2012.1.27
第45話:光と色と絵の話 (13)絵画技法が完成した ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2012.2.3
第46話:光と色と絵の話 (14)「白い光」を定義する ・・・・・・・・・・・・・・・・・・2012.1.15
第47話:光と色と絵の話 (15)新たな明かりを求めて ・・・・・・・・・・・・・・・・・・2012.1.26

第48話:何が変わったのか?(1)変化のモード ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2012.3.1
第49話:何が変わったのか?(2)モノ作りのモード ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2012.3.4
第50話:何が変わったのか?(3)願望のモード ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2012.3.7
第51話:何が変わったのか?(4)自然科学のモード その1:これまでの自然科学 ・・・・・2012.3.19
第52話:何が変わったのか?(4)自然科学のモード その2:新たな自然科学 ・・・・・・・2012.3.26
第53話:何が変わったのか?(5)知識のモード ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2012.3.31

第54話:あっと言う間の一年とは (1)知りたい! ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2012.4.15
第55話:あっと言う間の一年とは (2)思い込み・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2012.4.18
第56話:あっと言う間の一年とは (3)ヒトは対数で感じ取る・・・・・・・・・・・・・・・2012.4.25
第57話:あっと言う間の一年とは (4)仮説を創る・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2012.5.1
第58話:あっと言う間の一年とは (5)答を求める・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2012.5.7
第59話:あっと言う間の一年とは (6)何が言えるのか・・・・・・・・・・・・・・・・・・2012.5.10
第60話:あっと言う間の一年とは (7)初心に戻る・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2012.5.14
第61話:あっと言う間の一年とは (8)仮説は正しいのか・・・・・・・・・・・・・・・・・2012.5.17


第61話:アッという間の1年とは (8)仮説は正しいのか

第61話:アッという間の1年とは (8)仮説は正しいのか v.2.0

仮説が正しいかどうかは事実をもとにして帰納的推論によって検証されならなければならない。しかし検証すること自体が本質的に困難な仮説もまた多い。特に、その仮説が人文社会科学の領域に属するような場合はそうである。自然科学の領域であっても、検証するために行う観察や実験が長い年月を要する場合や、巨額な資金を必要とする巨大システムでないと検証できない場合、その事実を再現させることが本質的に困難な場合もある。さらには検証すること自体をその時代のその分野のパラダイムを信奉する人たちが妨げる場合もある。例えばダーウィンの「進化論」もそうであったし、アインシュタインの「相対性理論」もそうであった。


「アッという間の1年とは」仮説も、感覚年令という生物学的時間に関連していて、事実からその正しさを検証することがはなはだ困難な感覚的・心理的な領域にある。文献などを調べてみても、このような馬鹿馬鹿しいと思われる話についてまじめに調べて報告した事例はほとんどない。やっと見つけた事例が次のヌイの実験である。


<ヌイの実験>

生物学的時間に関して、フランスの生物物理学者であり哲学者であったヌイ(Pierre Lecomte du Noüy 1883-1947) が行った古い実験報告「生物学的時間(1936)」(伊藤俊太郎:「存在の時間と意識の時間」(東京大学公開講座31:「時間」 東京大学出版会)がある。この実験は犬の皮膚の一定面積をはぎ取り、その傷の回復時間、つまり生物学的時間と犬の物理年令との関係を求めたというはなはだ荒っぽい実験である。傷は若い犬ほど早く回復する。彼はこの時に生理活性指数Aなる概念を導入しているのであるが、この指数が生物学的時間に相関している。下図は「アッという間の1年とは」から求められた感覚年令(To = 20としたときの感覚年令比)とヌイの言う生理活性指数Aとの関係を示している。(下図はクリックすると大きくなります)


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傷の回復から求めた生理活性指数A、つまり生物的時間と「アッという間の1年」仮説から求められる感覚年令の相関性は高いと言えよう。この結果は「アッという間の1年」仮説が正しいかも知れないとの期待を抱かせてくれるものだ。またこの結果が正しいとすれば、40才の人は20才の人に比べ、傷の回復(生物的時間)は約2倍かかること、感覚的な時間(心理的時間)も約2倍ほど早く過ぎ去ることになる。


<“ジャネの法則”との比較>

この「アッという間の1年とは」の話を始めるにあたって、フランスの哲学者ポール・ジャネが言い出したという“ジャネの法則”について触れた(第54話)。“ジャネの法則”では、アッという間の1年間の長さは年令に逆比例すると言っている。従って1年を1年と感じる年令は1才の時であり、10才では1年を1/10、つまり1.2ヶ月と感じ、40才では1/40、つまり0.3ヶ月(約10日間)となる。一方、「アッという間の1年」仮説では、1年を1年と感じる年令が20才であるとすると、10才では1年を約2年と感じ、40才では約半年になる。このような結果から見る限り、「アッという間の1年」仮説から導かれた短縮時間の方が“ジャネの法則”で導かれた短縮時間よりも本当らしく感じるのは欲目であろうか。(下図はクリックすると大きくなります)


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しかし時間の短縮されていく比率をみると、“ジャネの法則”と「アッという間」仮説では次のようになる。


   物理年令(才)     20    40    80
  “ジャネの法則”     1    1/2    1/4
  「アッという間」仮説   1   1/1.95  1/3.86


つまり20才の時を基準にして時間の短縮比率からみると、40才になったときには“ジャネの法則”では1/2、「アッという間」仮説では1/1.95であり、さらに年令が倍に増えた80才になると“ジャネの法則”では1/4、「アッという間」仮説では1/3.86である。ジャネの法則”と「アッという間の1年」仮説との違いはほとんどない。よく合っている。強いて言えば「アッという間の一年」仮説は“ジャネの法則”を含み、より汎用性が高く、また実感に近く、一般性がある仮説と言えるかもしれない。


<ウェーバー・フェヒナーの法則>

「アッという間の」仮説とその一般式は、ヒトが風景を目で見たり、音を耳で聞いたり、震動を身体で感じたりしたときの感じ方と、ヒトが時間に対する感じ方とが似ているのではないかとの思いから導いたものである。これは物理的な現象とヒトの内の中で生じる精神的な現象とを結びつけようとした試み、大げさに言えばモノとココロの融合の融合の試みである と言えないこともはない。そのような試みをした科学者がいたことを知ったのは「アッという間の」仮説を作り上げたあとであった。


知識の体系としては新参者の自然科学が急速に発展して今日に至った最大の要因はモノとココロを分離したが故にである(第51話)。そのことによってヒトや社会と関係なく、自立的にあるいは勝手に自然に関する知識を増やすことができた。しかしそれによって生ずるさまざまな弊害の指摘が早くも18世紀から19世紀にかけて現れ始めるようになった。ゲーテやハックスリー(Thomas Henry Huxley 1825-1895)などはその筆頭であろう。19世紀始めには、モノとココロを何とか融合させようと努力した人たちもまた現れ始めるようになった。「精神物理学」なる領域を創始したドイツのウェーバー(Ernst Heinrich Weber 1795-1878)やフェヒナー(Gustav Theodor Fechner 1801-1887)などもそうであった。彼らが提唱した次のような「ウェーバー・フェヒナーの法則」(1860)がある。


 『 感覚の強さSは、刺激の強さRの対数の一次関数であって、S =klog R (kは定数)である 』


というものだ。モノとココロの融合という彼らの努力は結局はうまくいかなかったのであるが、この「ウェーバー・フェヒナーの法則」は生き残っている。視覚や聴覚や触覚に関する計測器の測定値として、日常的にさまざまな領域で広く応用されているのである。この法則を知ったのは、実は「アッという間の」仮説を創り、その一般式を導いたあとである。調べてみると、導いてきた一般式は「ウェーバー・フェヒナーの法則」とまったく同一であることがわかった。「アッという間の」仮説創造は「ウェーバー・フェヒナーの法則」を「時間」に応用したにすぎなかったのである。先人たちはさすがである。何かを思いつきでやっても、同じことをやっていた先人たちや同時代の誰かが必ずいると思った方がよい。同じ日に同じ特許を誰かが出願していたとか、出願したけれども数日遅かった等という例はよくあることだ。


<この仮説は正しいのか>

人が感じる時間の対数依存性をヒントにして、“年をとると1年がアッという間に過ぎ去る”現象の、その短くなった1年の時間を導き出す「アッという間の1年」仮説を求めた。また従来からある直感的な“ジャネの法則”と比較検討した結果、「アッという間の1年」仮説は“ジャネの法則”を含み、“ジャネの法則”よりは汎用性が高く、一般性がありそうである。


とは言え、この仮説は、暗黙の内に、「すべての人が年をとると年齢を若く感じたがる」ことを大前提においているが本当にそうなのか、若いのに老けてしまった(ように見える)人、そのように自覚している人などの「若年寄現象」に対してこの仮説は説明できるのか、暗黙の内に対数の底を10(常用対数 log)にしていたがそれが正しいのか、等と疑問はたくさんある。


この仮説が現実に適応性があるのかどうかは“科学的”には検証できていないし、おかしなことも多々ありそうである。「この仮説は正しいか」と問われれば、たぶん、正しくないのだろう。しかし現実に起こっている年令とか時間に関するさまざまな感覚現象を定性的に説明したり、自分で納得したりする自己流の“法則”として利用価値があるはと思う。


「創造」のプロセスとは、何かを思いついてそれが正しいのかどうかを確認したり実現させていくプロセスである。たとえ間違ったり実現できなかったような結果になったとしても、そこから得られたさまざまな知識から、何がインプリケーションになって、新たに何を考えるようになったのか、何が新たな仮説となって浮かび上がってきたのかという結末が極めて重要であると思う。間違っても良いではないか。パース(Charles Sanders Pierce 1839-1914)が言うように、このようなサイクルをくり返すことで、最初の思いは真実に、また実現に近づいていくのである。


古今東西の人が「アッという間に1年が過ぎ去る」と感じているとの事実は確かである。間違ってはいない。ではなぜそのように感じるようになるのだろうか。それが知りたい。

2012年5月14日 (月)

第60話:アッという間の一年とは (7)初心に戻る

アッという間の一年とは (7)初心に戻る


「アッという間の1年」仮説では、歳をとるに従い物理年令と感覚年令のギャップが大きく開いていく。このことは妙に若者ぶっている年輩者を説明するにはいいかもしれない。しかし遅くなって50才で1年を1年と感じた人は、若い20才の時は幼児のような感覚年令(3.7才)だったと言うことになる。この結果に対して「本当にそうかな?」とか「何かおかしい」との感じを持つ人も多いに違いない。私もそう思う。


<人生には転機が何回かある>

これまでの話の進め方は暗黙のうちに1年を1年と感じた頃が人生の中で1回ある場合を想定してきた。しかし人の一生においては1年を1年と感じた“ある時”は何度かくり返されると考えるべきかもしれない。その方が納得できる。一生のうちに生き方や人生観ががらっと変わるような出来事は、もちろん1度も変わらない人もいるのだろうが、多くの人にそのような出来事が1回あるいは何回か起こっても不思議はない。


「初心忘るべからず」という教えを多くの方はご存じのはずである。この言葉は世阿弥(1363?〜1443?)の能楽書「花鏡」(1424)の中の一文「当流に万能一徳の一句あり 初心忘るべからず」から採られている。「初心忘るべからず」とは、学問やお稽古事、剣道、華道などを学び始めた当初の未熟さや経験を忘れてはならないとの原意であり、志した最初の時の意気込みと謙虚さをもって事に当たらなければならないとの教えである(広辞苑)。世阿弥はさらに「年相応の初心を持て」と説いている。20才には20才の、40才には40才の、60才には60才の「初心」である。人生の転機となる新たな旅立ちの時には新たな「初心」を持って事に当たれと言っている。そうなのだ。


1年を1年と感じていた年令がいつ頃だったのかと多くに人に聞いた。ほとんどすべての人は新たな社会を体験し始めてそれまでの人生の流れが大きく変わったと感じた年令、つまり20歳前後を答えていた。仮説によればそのときはその人の人生の中で物理年令と感覚年令が初めて一致したことを意味している。つまり「年相応の初心を持て」とはその時の物理年令にふさわしい感覚年令に戻れ、感覚年令を物理年令に一致させよと言っているのであろう。そうであるとすると、「初心」の頃とは1年を1年と感じた人生の転機となる出発であり、そのような「初心」に戻ることは人生の中で複数回あってもおかしくない。それがふつうの人生ではないかと思う。


<初心に戻る人生とは>

下図は物理年令と感覚年令が20才の時に一致し、初めての「初心」を体験した人が人生を過ごし、40才の時および60才の時のそれぞれでまた「初心」に戻り、物理年令と感覚年令とを一致させるようにリセットさせた人生を示している。(下図をクリックすると大きくなります)


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この人が40才の時に「初心」に戻ると感覚年令は6年ほど戻り、そして60才の「初心」の時は3.5年ほど戻ることになる。もしも40才で「初心」に戻らなかったならば、その人は60才で感覚年令と物理年令との開きは18年にもなる。3.5年と18年のこのギャップ差は著しく大きい。容易にそのギャップは埋められないであろう。さらにその人がそのまま80才になった時、物理年令と感覚年令とのギャップは32年にも広がる。


自分のソトなる時間の長さと自分のウチなる時間の長さがの差が開いていくと、いつかは自分のココロやアタマでは調整できない変曲点に至るのではないか、そしてココロやカラダに何らかの不安定状態を引き起こすことになるのではないかと思うのであるのだが、実際はどうなのであろうか。人生を心穏やかに自然体で過ごすとは、このギャップをいかに少なくするかであろう。


<初心に戻った人と戻らなかった人>

また、ともに20才で最初の「初心」を経験した50才と60才の二人がいたとしよう。年下の50才氏は40才で2度目の「初心」を迎えたのであるが、60才氏は「初心」に戻ることなくそのまま人生を送ってきたとする。すると現在の50才氏は感覚年令49.0才で日々を過ごしていることになって、物理年令と感覚年令とがほぼ一致している。しかし一方の年上の60才氏は感覚年令は42.5才で日々を過ごしていて、物理年令と感覚年令との差が年下氏よりも大きい。つまり、この二人の間では感覚年齢の逆転現象が生じていて、物理年令では年下の50才氏の方が年配の60才氏よりも感覚年令は年上になってしまう。この二人を第三者が客観的に観察したら、どのように感じるのであろうか。「初心」に戻った体験のある若手の50才氏は「初心」に戻ったことのない年配の60才氏よりもよりも、味わいのある円熟した風格を持つように見えるのかもしれない。


<初心に戻ると言うことは>

世阿弥の教えは、人生の流れの中で「慢心」せずに「初心」を何度か経験して、ウチなる感覚時間の流れとソトの物理時間の流れとの位相を合わせよと言っている。それが生物的に充実した自然な時間の過ごし方、人生の過ごし方なのかもしれない。


「初心」に戻ると言うことは、また免許皆伝の極意「守」・「破」・「離」という先人の教える革新のプロセスを経ることに他ならない。「守」・「破」・「離」は、徹底した稽古は真の格を体得する「守格」であり、名人となれば形式を崩して自由に演じ「破格」を目指し、それらから離れ感性に従って自らの道を創っていくように教える。


古今随一と言われる中国の書家である王義之(307-365)も、書道の極意は 楷書から行書へ、そして草書と進む 「真」・「行」・「草」のプロセスを経て会得できると言っている。そして「初心」に戻るのだ。技術革新や事業革新、そしてイノベーションへのプロセスも突きつめれば「初心」に戻ることがきっかけになっていよう。それまでの流れを断ち切って新たな流れを創り出すことだ。


それでは、これまで進めてきた「アッという間の1年」仮説が正しいのかどうか、先人たちがどのように言っているのか、あらためて考えていこうと思う。

  

2012年5月10日 (木)

第59話:あっと言う間の一年とは (6)何が言えるのか

第59話:あっと言う間の一年とは (6)何が言えるのか


素朴な疑問から発した仮説とそこから導かれた一般式を求め、その式から物理年齢と感覚年齢の関係、そしてある物理年齢における“アッという間の1年の長さ”を求めることができた。この結果は日常生じている一般的な現象を説明でき、それが実感と合うのだろうか。定量的にぴったり合っていることは最初から期待していないのであり、せめて定性的に合っているのかどうかを確かめてみたいと思う。


人は日常的に物理年令を意識する場合と感覚年齢を意識する場合の二通りの振る舞い方をするであろう。どちらを多用しているかはその人の心理的な癖およびその場の状況によって決まる(参照 第31話:創造における人の論理と人の癖)。


ある人がある人に出会い、二人は会話をするとしよう。この時、

  二人が同い年であるのか/年令差があるのか、

  自分に対しては感覚年令で行動するのか/物理年令行動するのか、

  相手に対しては感覚年令で行動するのか/物理年令行動するのか、

などの様々な状況が考えられる。二人が感じる年令差もその状況によって変わってくはずである。


<同い年の二人>

下図は、1年を1年と感じた時が同じ20才(To=20)の同い年の二人の場合について示している。仮説から言えることは、この二人が現在40才になっているとすると、毎日の生活の場では感覚年齢が34才の若い気分で振る舞っていることになる。(下図をクリックすると大きくなります)


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同い年の二人であっても、次のような状況が起こる。


1.自分に対してもまた相手に対しても互いに物理年令あるいは感覚年齢で行動する場合

つまり年令に対する認識がずれていない場合は、物理年令であろうが感覚年齢であろうが、歳を取っても常に同い年であると感じている。互いに感覚年齢で接している仲のよい同級生同士の場合や、常に公式な態度で接しているビジネスライクな二人のような場合であろう。


2.自分に対しては物理年令で行動するが、相手には感覚年齢で接して行動する場合

歳をとるに従って自分の方が年上のように感じるようになっていく。その感じる年令差は20才の二人が10年たって30才になると感じる年令差は1.7才、20年たって40才になると5.8才、30年たって50才になると11.7才にも広がる。


3.自分に対しては感覚年齢で行動するが、相手には物理年令で接して行動する場合

歳をとるに従って自分の方が年下のように、あるいは自分の方が若いように感じるようになっていく。その感じる年令差は、20才の二人が10年たって30才になると感じる年令差は1.7才、20年たって40才になると5.8才、30年たって50才になると11.7才にも広がる。


<年令の違う二人の場合>

下図は1年を1年と感じた年令が同じ20才(To=20)の二人ではあるが、年令差は最初から10才違う年上氏と年下氏の場合について示している。(下図をクリックすると大きくなります)

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1.自分にも相手にも同じ物理年令で接している場合

距離を少し置いて付き合っている“大人”同志の二人のような場合であろう。感じる年令差は変わらないままお互いに歳を取っていく。


2.自分にも相手にも同じ感覚年齢で接している場合

物理年令と違い、感覚年齢の場合は感じる年令差が縮まっていく。例えば、30才と40才の二人の感覚年齢差は5.9才あるのだが、10年後にその差は4.7才、20年後には3.7才、40年後には2.7才と縮まっていく。兄弟だとか、親しい親戚だとか、年令は違うがすべてを許し合える友人や先輩後輩のような間柄である。年令差などはどうでもよくて、それを超越して付き合う仲になっていることは日常経験することである。


3.自分は感覚年令で接しているが相手には物理年令で接している場合

例えば物理年令40才だが感覚年令34.2才の年上氏と、物理年令は30才だが感覚年令は28.3才という年下氏のような場合である。会社における場面では、物わかりの良い上司と仕事が良くできる部下の間柄といった関係であろう。年上氏から見ると年下氏との年令差は4.2才しか違わない親しい仲間とみるのだが、しかし年下氏から見ると年上氏との年令差は実際の物理年令以上に広がっていて11.7才もあり、近づきたくない相手なのだ。その感じる年齢差は時が経つにつれて年上氏から見ると縮まっていくが、年下氏から見ると逆に広がっていく。40才になった年下氏は年上氏に対しては16才も年上(56才)の相手として感じており、実際以上に距離をおいて接することになる。

一般に世間では1世代はおよそ30年なのだが、企業組織では1世代は10年と考えていい。年上氏は世代が完全に違う親の世代なのだ。この年令差に対する二人の認識のギャップは大きく、深刻なあるいは滑稽なさまざまな状況を職場の中で作り出すことになるであろう。


4.自分は物理年令で接しているが相手には感覚年令で接している場合

例えば物理年令は40才だが感覚年令は34.2才という年上氏と、物理年令は30才だが感覚年令28.3才の年下氏のような場合である。会社における場面では、できる上司と子供っぽい部下との間柄といった関係であろう。40才の年上氏は30才の年下氏を11.7才も離れている若造と感じている。一方年下氏は年上氏を30才の自分と年令があまり変わらない34.2才の仲間として親しげに接するだろう。年上氏から見た年下氏との年令差は年と共に広がっていくのだが、しかし年下氏から見ると年上氏との年令差は逆に縮まっていく。このように年上氏と年下氏の年令差の感覚のギャップは年と共に増大していくことになる。どこかで破綻を起こすに違いない。


<「今どきの若い者は」現象>

「今どきの若い者は・・」と年配者が言いたがる現象は昔も今も同じように起こっている。地域、民族を問わず、古代の昔から世界中のどこにでも起こっているであろう。サルの世界でも起こっているかもしれない。この現象は、「アッという間の1年」仮説によれば、年配者は自分を物理年齢で考えたがるが年下の若い相手に対しては感覚年齢で接している場合と考えられる。若い大学生がさらに若い高校生を「今どきの高校生は・・」と言うような笑ってしまう場面が時々あるものだが、これももそうであろう。


<幼児的な年配者>

この仮説によれば、歳をとってから1年を1年と感じるようになった人ほど、若い頃の感覚年令は低かったと予想される。例えば40才でそうなった人の20才の頃の感覚年令は12才の子供相当であったことになる。本当かなと疑いたくなるのだが、検証することは不可能である。それはそれとして、その彼は20才の頃には彼は実際の1年間を感覚的には2年間のように長く感じていたことになる。

大人になっても幼児的な言動をする者はしばしば見受けられるのであるが、「アッという間の1年」仮説によれば、物理年令=感覚年令となる年が遅くなる人ほど、この幼児現象が起こりやすいことを説明していることになる。これは何を意味しているのだろうか。


これらの結果に対して、“なるほど、そうか”とか“そうかもしれないね” という実感が得られればいいのだが、はたしてどうであろうか。


それによく考えてみると、物理的1年を感覚的にも1年と感じた「ある年」とは、その人の人生の中で1回だけであろうか、それとも何回かあるのだろうか。

2012年5月 7日 (月)

第58話:アッと言う間の一年とは (5)答を求める

アッと言う間の一年とは (5)答を求める


何か新しいことを考え、それを実現していくプロセス、言うなれば「創造のプロセス」を論理のステップとしてとらえれば、パース(Charles Sanders Peirce 1839-1914)が言っている下記のような流れになる。基本的には、アブダクション→ディダクション(演繹的推論)→インダクション(帰納的推論)の流れだ。(下図をクリックすると大きくなります)


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これまで、アブダクションにより暗黙的な仮説が創られる第1ステップを終え、その仮説を演繹的推論により実現可能なように具体化する第2ステップまで行って一般式を導いてきた。「創造のプロセス」の第3ステップは、形式知化されたその一般式を現実の事例に当てはめ、結論を引き出し、その妥当性を検証するという帰納的推論のステップである。

“アッという間の1年の長さを知りたい”との場合では、一般式がどの程度実感と合うかを検討することである。合うはずがないと思いつつも、これも単なるアタマの遊びなのだから、最後までやってみようと思う。まずは一般式を用いて答を出すことから始めよう。


<アッという間の1年の長さとは>


感覚年令tとアッという間の時間△tを算出するに当たって、いずれも1年を1年と感じた年令Toを前もって与えなければならない。出会った大学院の学生達や年齢も職業も異なる社会人の何人もに聞いたのであるが、不思議なことにほとんどの人たちは二十歳前後がそうではなかったのかとの答が返ってきた。それはともあれ、とりあえずToを例えば仮に20才、30才、40才、50才として、それぞれを前話で示した一般式(3)式と(4)式から求めると表1のようになる。表には、ある物理年令の時に感じていたであろう感覚年齢とそのときに感じたであろう1年の長さを月数で示している。もちろん本人は感覚年齢なる仮想の年齢を感じてはいない。(下図をクリックすると大きくなります)


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厳密な数値は別として、これから言えることは、1年を1年と感じた時の年令が若かった人ほど、歳をとったときにも1年をより短く感じるようになる。そして歳をとるに従って物理的な年令と感覚的な年令とのズレは次第に大きくなっていく。このズレは個人の中で、また対人関係の上で様々な現象を引き起こすことになろう。


1年を1年と感じた時の年令が20才の時の人のグラフは下図のようになる。図にはその人が10、20,30,40,50,60,70才の時に感じるアッという間の月数をも示してある。例えばアッという間の時間は、20才の時は前提からして12ヶ月であるが、40才では約半年と短くなり、年をとって80才になると3ヶ月に短縮する。彼が子供の頃の10才の時は1年を2年近くの長さに感じていたことになる。(下図をクリックすると大きくなります)


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それでは、20才の時に1年を1年と感じた同じ人が、生まれた直後から80才になるまでのそれぞれの年齢の時に過ごした1年の長さをそのときはどのような長さに感じているのだろうか。下図はそれを示している。(下図をクリックすると大きくなります)
      

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この人は前提からして物理年齢が20才の時はその1年を1年と感じている。若かった10才の時は物理的な1年を2年ほどの長さに感じ、生まれたての1〜2才の時は10年以上にも感じていたことになる。赤ん坊は親が驚くほどの急激な成長を示すが、それは親の1年の成長に比べ、赤ん坊は10倍のスピードで成長していることを意味しているのかもしれない。よちよち歩きの赤ん坊に聞いてみたいものである。


素朴な疑問から発した仮説とそこから導かれた一般式を求め、感覚年齢とアッという間の1年の長さを求めることができた。この結果は実生活の上で実感と合うのだろうか。


それを検証してみようと思う。


2012年5月 1日 (火)

第57話:アッと言う間の一年とは (4)仮説を創る

アッと言う間の一年とは (4)仮説を創る


視覚や聴覚、触覚などの感覚はその時の物理的な刺激の強さの対数で表現されていることがわかったのだが、それでは時間に対して私たちはどのように感じているのだろうか。


<思いつきの仮説>


私たちは毎日の生活の場面であした何をしようかとしばしば考える。その何かしようとする時間はあしたの午後1時から3時までとか、時間単位で考えているはずである。あしたの何時の何分何秒の単位まではめったに考えない。

さらに先の1週間後とか10日後の予定は、時間単位と言うよりはむしろ来週の水曜日とかあの日とかと言った日数の単位で考える。

それでは100日後の予定はどうか。1日単位で予定を考えることはとても無理で、その月の上旬、中旬、下旬の単位、つまり10日ほどのくくりで考える。

来年の話はせいぜい月単位で、10年先の話は1年単位であろうし、100年後の話や100年前の話はどうがんばっても10年単位であろう。鹿鳴館が出来たのは明治20年頃だったかななどと考える。1000年前の歴史の話は、例えば平将門は9世紀頃の人だったかななどと100年(1世紀)単位で物事を覚えていたり考えたりしているはずだ。


この事実をたしかにそうだと感じて下さる方も多いと思う。そうだとすると感覚における刺激の感じ方と同じように、時間に対しても人は対数変換して感じ取っていることになる。つまり「ヒトは時間の間隔を実際の物理的な時間差ではなく比率でとらえ理解している」のであり、「変化の割合が同じならそれを同じと感じている」と言い換えることができる。「年をとるとアッという間に一年が過ぎる現象」とは 「時間の変化の割合が年令とともに短くなって感じられる現象」と考えてもよさそうだ。


「ヒトは対数の世界に生きている」との<思い込み>から出発した<ひらめき>によるこの思いつきの仮説形成に至るまでは、誰にでもできる可能性はある。そのようなアブダクションによる推論よって創られる仮説は、他人にいくら説明してもなかなかわかってもらえないという特徴を持っている。話が飛びすぎていて、相手はわからないことが多い。それに「アッという間の1年は何ヶ月だろうか」との具体的な答を導くことも出来ない。仮説の一般化が必要なのだ。(参照:第4話「アブダクション・創造の発端」・第31話「創造における人の論理と人の癖」)


この最初の思いつきの仮説を一般化するプロセスは最初の仮説をひねり出す以上に難しい。思いつきの仮説を大前提にして、演繹的推論によりそれまで蓄えてきた知識や経験を総動員して客観性のある新たな仮説に論理的に変換する必要があるがあるからだ。別の言葉で言えば、暗黙知の形式知化への変換ステップである。多くの場合、ひらめきによる最初の仮説創造で止まってしまい、先に進めないのはこのステップの難しさのためである。おもしろい話、ホラのような話、馬鹿馬鹿しい話、詐欺のような話などは、一般化・普遍化・客観化に進めなかった事例である。


<普遍的な仮説>


「歳をとると一年があっという間に過ぎる」現象とは、<生きてきた年令に対するある時間間隔(例えば1年間とか)が同じ割合である時間の長さを、ヒトは同じ時間であると感じている>現象と同じであるとするならば、数式化できるはずである。一般式ができれば、実際に検証したり種々の現象を予測したりすることができる。それを試みてみよう。一般式を考えることによって、以下でわかるように最初は考えもつかなかった【感覚時間t】という概念を導き出さざるを得ない状況に追い込まれることになる。この新たなキーワードの創出は「思いつきの仮説の一般化」という演繹的推論プロセスの大きな効用と言ってよいだろう。


本人の生きてきた実際の物理時間(年齢)を大文字のTとしよう。思いつきの仮説によれば、ある【物理時間T】において、実際に経過した物理的時間の長さ(例えば1年間)△Tとしたときに、その比率(△T / T)と、あっという間に経過した【感覚時間t】の長さ(例えば半年とか)△t との比率、すなわち△t/(△T/T)が常に一定値kに等しいと言うことになる。


つまり、


          △t /(△T / T)= k              (1)


である。微分の形でまとめるとdt /(dT/T) = kであり、これを積分して一般式を導くと次のようになる。


         t = k lnαT                  (2)


lnは自然対数、αとkは定数となる。しかしこれでは先には進めない。定数を決めなければならない。


<感覚年令を求める>


実際の年令である【物理年令T】にも関わらず、本人が感じている年令を【感覚年令t】とすれば、「年をとるとアッという間に一年が過ぎる」と言うことは、その人は物理的な1年を、やはり1年と感じたある年令があったことを意味している。しかしながら多くの人はこの事実に気づいていないようだ。つまり本人は意識しなかったであろうが、【物理年令T】と【感覚年令t】が同じであった年令(To)が存在していたのである。すなわちその時は T = t = To である。この条件を(2式)に代入する事により、【感覚年令t】は次のように求めることができる。


       t = To – k ln(To /T)   ただし1/k=ln (1 + 1/To)     (3)


一年を一年と感じた年令Toは未知数なので、前もって決めておく。あるいは本人に聞いて決める。例えば20才とか、30才とかである。そして現在の【物理年令T】を代入すれば、その年令における【感覚年令t】を計算することができる。


<アッという間の一年の長さを求める>


【物理年令T】と【感覚年令t】が同じだった年令Toの時には、つまり、T = t = To の時は【感覚的な1年間△t】はちょうど【物理的な1年間】(T才からの1年間)と同じであった。この条件から、任意の【物理年令T】における“あっという間の時間”△t(年)は次のようになる。


       △t = k ln(T/(T+1))  ただし1/k=ln (1 + 1/To)     (4)


1年を1年と感じた年令Toは未知数なので、(3)式と同じように前もって決めておく。(4)式は年数で表されているので、月数で表すならば(4)式を12倍する。この(3)式および(4)式は暗黙知としての主観的な仮説から、演繹的推論により変換された形式知としての客観化された仮説となる。


これらの一般式から何が言えるのだろうか。


2012年4月30日 (月)

*2012年4月 リスト

*2012年4月 リスト


第56話 あっと言う間の一年とは? (3)ヒトは対数で感じ取る

第55話 あっと言う間の一年とは? (2)思い込み

第54話 あっと言う間の一年とは? (1)知りたい!

第53話 何が変わったのか(5)知識のモード

2012年4月25日 (水)

第56話:あっと言う間の一年とは (3)ヒトは対数で感じ取る

あっと言う間の一年とは (3)ヒトは対数で感じ取る


私の<思い込み>は「ヒトは対数の世界に生きている」だ。そう思い込むと周囲に転がっているさまざまな情報や、それまでほとんど意識しなかった蓄積されていた知識、つまり「無意識知」がこの<思い込み>に向かって自然と集まってくる。本人も気づかないのだが、仮説形成への<ひらめき>を引き起こす準備段階が始まるようになるのだ。特定の問題に対して意識が焦点化されると言ってもいいし、その問題に対して好奇心が強くなるといってもいい。ヒントを求めて情報のコレクションが始まる。不思議なものだ。


その中でヒトの五感、つまり視覚・聴覚・触覚・味覚・臭覚などの感覚に関するヒトの感じ方とその刺激の実際の物理量との関係に関心が移っていったのも、自然の流れであったのかもしれない。「あっという間の一年」とは実際の物理的時間ではなく、感覚的な時間だからである。


下図は五感の割合である。「百聞は一見に如かず」という格言の通りに、視覚から得る情報量は実際に聴覚に比べて圧倒的である。実際に10の2乗、つまり100倍多いとのデータもあれば、下記のようなデータもある。このデータでおもしろいのは嗅覚が聴覚に次いで情報を多く取り入れている感覚だということだろう。(画像をクリックすると大きくなります)

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<視覚>

ヒトは真夏の太陽の海浜における輝くようなまぶしい光の下や、目をこらしてやっと見える星明かりの暗い夜道のような光の強度が極端に違う環境であっても、ヒトは眼の感度を調節してモノを正しく認識することが出来る。それは光の量を、つまり眼を刺激する光子の数をそのまま認識するのではなく、光子の数が多いときは圧縮して認識していることを想像させる。実際にヒトが認識する写真の画像濃度と光の量の関係は対数の関係にあるのだ。


最近ではデジカメで写真を撮影することが多い。すべて電子的に処理されるためにシャッターを押してからディスプレイに映した画像が表示されるまでに、実際に何がデジカメの中で起こっているかとても分かりにくい。すべてがブラックボックスになってしまった。そこで写真フィルムで撮影された場合の画像を考える。写真フィルムはネガ系であろうがポジ系(参照:第22話・第23話)であろうが、露光量によってフィルム上の光学濃度が変化する画像システムである。写っている画像の濃さとその二次元的分布によって、ヒトはそれが何の画像であるかを経験から認識する。画像が濃いほど光学濃度D(Density)は高いと表現するのだが、この時の光学濃度Dは物理的に計測されたその画像の光の透過率の逆数を対数に変換した値と定義されている。すなわち、


     D = log 1/ T  ただし Dは光学濃度、Tは透過率 


である。つまり入射した光の量を1としたとき、そのフィルムの画像部分の透過した光の量が1/10になるような濃さの場合を光学濃度D=1の画像といい、1/100の場合は光学濃度D=2と表している。1/10000に光が減衰する場合はD=4であって、ほとんど光が透過しないほどの非常に暗い(真っ黒い)画像と言うことになる。


<聴覚>

眼に次いで、外界から情報を取り込む量が多い刺激は耳からの音である。静寂な闇の中できこえるかすかな風の音から、滑走路脇のジェット機のつんざくような身体が震えるような音までヒトは聞き取ることが出来る。眼に入ってくる光の最小単位が光子なら、音の最小単位は音子と言ってもよさそうなものであるが、その音の強さに対してデシベルdB単位がよく使われる。


もともとベルBという単位は「ある物理量を基準となる量との比の対数によって表すとき、対数として底が10である常用対数をとる場合の単位をベル(bel, B)と定義」している。だが、そのままでは数字が小さくて日常使いにくいので、その値を10倍した単位であるデシベルが通常は使われている。音の場合、音の強さは音圧の二乗に比例する。従って次のような定義になる。なお音圧とは大気圧の微少な圧力変動のことであり、単位は圧力の単位パスカル(Pa)である。


    dB = 20 log(P/Po)  


ただし Pは実際の音(音圧)であり、Poは人の耳で聞き取れる最小の音(音圧)であって国際的な基準値として20μPa(マイクロパスカル)にとっているそうだ。大気圧を1013ヘクトパスカルなどと表現しているが、これはパスカルを100倍した値を言っている。20μPaという音がどれほどの強さの音なのか聴いてみたいものである。ほとんどのヒトには聞こえないほどのかすかな音なのであろう。


ともあれ、聴覚の場合も実際の音の物理的な量を対数に変換して聴いていることになる。

<触覚>

触覚とは指や身体の表面などで機械的な振動を感じる感覚のことだ。地震のたびごとに気象庁から発表される震度とは身体で感じた振動の感覚、すなわち触覚を数値表現した値であり、震度1から震度7まである。実際には地震の震動の加速度ガル(1gal=1cm/s2)を計測して算出される。ちなみに、地球の重力1gは980galである。


「震度と加速度」の関係に関して、気象庁から発表されている資料(http://www.seisvol.kishou.go.jp/eq/kyoshin/kaisetsu/comp.htm)で示されたグラフは下図の通りである。(画像をクリックすると大きくなります)


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このグラフから読み取ると、震度と加速度の関係は、振動周期1秒の地震においては、次のようになっている。加速度の数値はグラフから読み取ったので必ずしも正確ではないが、近い数値を読み取っていると思う。


      震度1・・・・・・・・ 0.6 gal〜
      震度2・・・・・・・・ 1.9 gal〜
      震度3・・・・・・・・ 6 gal〜
      震度4・・・・・・・・ 19 gal〜
      震度5(弱/強) ・・・ 60 gal〜
      震度6(弱/強)・・・190 gal〜 
      震度7・・・・・・・ 600 gal〜


グラフからわかるように震動周期が異なれば、各々の震度の加速度の数値も変わってくる。しかし震度階級が2つ違うと、それに対応する加速度は10倍違うとの関係は変わらない。つまり揺れを充分に感じる震度3と立ってもいられない震度5では加速度は10以上違う。震度3と震度7では100倍も違う。ともあれ地震における震度の表し方から見て、触覚に対してもヒトは対数で感じていると思っていいようだ。

以上のようにヒトの感覚のうち、視覚、聴覚、触覚に関わる刺激の感覚はその時の物理的な刺激の強さの対数で表現されている。事例が足りないかもしれないが、ヒトは真数ではなく対数の世界に生きていて、それがヒトの感覚に合っていると思って正しいのだろう。たぶん味覚や嗅覚も同じように対数で表現されるのであろう。

このような一般化は間違っているかもしれないが、しかしひらめきにより仮説を思いつくプロセスでは、間違っていた推測でも真実の方向に導いてくれることは多々あるのだ。間違っていたら、そのときに修正すればよろしい。

それでは<時間>に対して私たちはどのように感じているのだろうか。

2012年4月18日 (水)

第55話:アッという間の1年とは  (2)思い込み

アッという間の1年とは(2)思い込み

<ヒトは対数の世界に生きている>


創造的な発想の原点にはその人の密かな“思い”が必ずある。夢かもしれないし、信じている何かであり、譲れない何かであり、他人には話せない何かである。いつの時点からそれを思うようになったのかは本人も判然としないことが多い。日常の世界では、この“思い”が無意識下に隠れ込んだり、意識上に顔を出したりしている。つまり“思い”は常に表面に出ているわけではない。出たり入ったりしている。


そのような“思い”を持っているヒトは、本人も意識していないことが多いのであるが、その“思い”に関連する情報に対して非常に感受性が高くなる。たまたま周囲に転がっているモノやコトに気づき、あるいは周囲から発せられる情報に気がついて、それが“思い”の琴線に触れるとき、その情報は“ヒント”になる。ヒントは“思い”を補強し、多くの場合、そのヒトの中で合理性を持つように次第に変化していく。これがくり返されて“思い”は意識の上に密かな仮説となってしっかりと定着されていくようになる。<思い込み>というものはそのように作られていく。偏見などもそうなのだろうと思う。


「アッという間の一年を求めたい」との私の“思い”に影響を及ぼしたものは「ヒトは対数(注)の世界に生きている」との <思い込み> である。仮説の前の仮説、「前仮説」と言ってもいいだろう。それは次のような経験から生まれてきたように思う。

(注)対数とは:正の数aおよびNが与えられたとき、N=abと言う関係を満足する実数bの価を、aを底(てい)とするNの「対数」といい、b=logaNで表す。 Nをbの真数と言う。(広辞苑より)


あるとき、気のあったメンバーと旅をした。そのときノールウェイのベルゲンで食べた魚に当たって(と信じているのであるが)、ウィルス性の急性肝炎になってしまった(参照:急性肝炎入院記 第14話・第15話)。急きょ入院することになり、クスリも注射も与えられることなく、ただただ安静に過ごす日々を送ることになった。それでも血液検査だけは毎日あって検査結果は伝えられた。暇をもてあましている日々であったので、その数値をグラフ用紙に毎日記入していった。その時の入院から退院までの血液検査の数値変化は下図のようであった。GOTおよびGPTは肝機能に関連する検査値であり、縦軸は対数で表している。正常参考値はそれぞれ8〜40,3〜35である。(下図はクリックすると大きくなります)


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あとから危なかったと言われたほどの異常に高い数値が入院後しばらく続いた後、肝臓機能の数値であるGOTおよびGPTは直線性を保って低下し始めた。その直線性は見事であり、その直線を外挿することにより担当の医者よりも先に患者の私が退院日を予測できるほど正確であった。入院中は注射や薬は用いられず食事と安静のみであったから、病状が快復するに至った人の生体反応は、それまで気がつかなかったのだが、私の身体の中でまさに自然な生命現象として起こした化学反応が対数的に変化をしていたのだ。


また下図は、企業の大きさとその企業活動の成果とがどのような関係にあるのか知りたくて作ったグラフである。当時(1992)はバブルが崩壊した直後であり、人を減らして利益を増やそうと省人化が声高く叫ばれていた時代であった。人を減らせばそのような奇跡が起こるのかと、任意に選んだ日本のモノ作りの化学/材料系企業および機械/電気系企業の計174社におけるその企業の従業員の数と売上高や利益などに普遍的な関係があるかと調べたものである。このグラフは縦軸の売上高、横軸の従業員数とも対数で表している。(下図はクリックすると大きくなります)


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このグラフでで特徴的なことは、モノを作り出す企業では数100人の小企業であろうが、10万人を越える巨大企業であろうが、両対数で表すと従業員の数と売上高の関係はマクロ的に見て両対数グラフできれいな直線関係にあることである。従業員の数がわかれば、その企業(製造業)の売上高はほぼ推定できることになる。利益に関しても人が多ければ集団としての出力も大きいのは当然であるのだが、同時に作製した利益データのばらつきを見ても個人の活躍は一騎当千などはあり得ないのであって、せいぜい“二人力”程度であることもわかる。企業努力とはその程度である。今日のようなモノを作らない情報系企業のような場合であっても、絶対値は変わるであろうが、人の数とその企業の出力とは対数グラフにおいてマクロ的には直線関係になるだろう。


さらには生物界においても、あらゆる生物の寿命とそのサイズ(重さ)との関係が対数グラフで直線関係にあると知って驚いた(本川達雄:「ゾウの時間とネズミの時間」中公新書1993)。また企業における人と売上高の関係と同じように、単細胞の生物からヘビやトカゲなどの変温動物、さらには鳥やネズミ、ゾウなどの恒温動物に至るすべての生物について、個体の重さに対してその生物のエネルギー消費量の関係を表すと下図のようなグラフになるのだ。グラフは縦軸・横軸とも対数で表している。(下図はクリックすると大きくなります)


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大きい動物はたくさんの獲物を捕らえる大食漢であって、従ってエネルギーを大量に消費し、菌のような微生物はほとんどエネルギーを消費しないことは直感的に理解できる。しかし驚くべきことは、この図には、単細胞生物・変温動物・恒温動物のデータのいずれもが直線に乗り、その傾きは重さの3/4乗に比例していることが示されている。さらに寿命とか、心臓の鼓動とか、息をする間隔、タンパク質が形成されてから壊されるまでなどの生物に関係するいろいろな時間は体重の1/4乗に比例することもわかっている。すなわち生物の生きていくための基本的な値は大きさや重さの対数値に対して直線的な関係にある。

 
考えてみれば、生物の重さは細胞の数と関連しているはたしかである。人は企業においては生物における一つの細胞と言えるであろう。単細胞生物は従業員の少ない小企業であり、ゾウのような巨大な恒温動物は自動車・電機・鉄鋼などの巨大な企業に相当する。売上高をその企業の人の働きをも含めたエネルギー消費量の結果であると考えれば、企業における売上高と従業員数のグラフとの類似性は納得できよう。


もちろん上に示した三つのグラフばかりでなく、「ヒトは対数の世界に生きている」との<思い込み>に至るには意識に上らない無数の体験があったであろう。例えば、長さとか大きさなどの量を扱う場合、私たちは基準量に対して大きい方は1000倍毎にキロ、メガ、ギガと呼び名を変えて使っている。小さい方は1000分の1毎にミリ、マイクロ、ナノと表す。例えば長さの単位では1mを基準として、1nm,1μm,1mm,1m,1kmであり、重さでは1ng, 1μg, 1mg, 1g, 1kg, 1tonとなっている。人は1000の量をひとかたまりとしてそれを1単位として理解しようとしている。つまり私たちは量とか大きさを数値そのままの真数ではなく対数で扱った方が、感覚的に変化量を理解しやすいからであろう。


このような長さや重さでなくとも、商品の値段の把握の仕方も対数的であることは日常の生活の場面でよく経験する。1000円と10万円の商品を買おうとする場合、端数が100円単位では感じる数字の重みは大きく異なる。10万円のうちの100円は無視できても、1000円のうちの100円は無視できない。これもヒトはお金という数を対数で理解しているからだ。


そのような次第で「ヒトは対数の世界に生きている」との<思い込み>は私の中で次第に強くなっていった。


それでは、「見る・聞く・触る」などのヒトの五感ではヒトはどのように感じ取っているのだろうか。やはり対数で感じ取っているに違いない。この<思い込み>も次へのステップに導いてくれる原動力になる。


2012年4月15日 (日)

第54話:アッという間の1年とは (1)知りたい!

アッという間の1年とは(1)知りたい! v.2.2


「1年があっという間に過ぎた」と私たちはしばしば言う。その年の終わり頃や、新しい年になってしばらくすると、老人はもとより若者や熟年の人たち、男女を問わず、日常会話の中にこの言葉は頻繁に登場する。またたぶん地球上の民族を問わず、ずっと昔から語られてきて、今なお、さらには将来もまた語り続けられていく言葉であろう。実感としては真理とか法則に近いのかもしれない。


「1年があっという間に過ぎた」と言うからには、その「アッという間」は1年よりも短いに違いないのであるが、ではいったい何ヶ月なのだろうか。そんな疑問を持った人はきっといるに違いない。私もその一人である。しかし何時頃からそのような疑問を感じるようになったのか本人も分からない。


また「1年があっという間に過ぎた」と言ったことのある人は、実はその人は以前は今よりもゆっくり時間が過ぎ去っていたことがあると告白していることになる。と言うことは、その人はこよみの1年を実際に1年の長さと感じていた若い頃があったはずだ。それは何才の頃のことだったのだろうか。毎日が楽しくてきらきらしていた子供の頃は早く大きくなりたかった。毎日が発見の喜びで充実していた。大人になってくると毎日の仕事や生活が習慣化し、時間の切れ目がぼんやりとしてくる。時間は長さを失っていく。きっとそうなのだろう。人と時間の関係の中のそんな素朴な疑問を考えるにはどうしたらいいのだろうか。


自然との触れあいから、また毎日の生活の場面から、いつでも、どこでも、誰に対しても、等しく与えられている情報がある。あまりにも当たり前なので、多くの人は気づかない。しかし気づく人もいる。その情報の処理に関しては次のような段階で進んで行くに違いない。それぞれの段階で止まってしまう人と、その次の段階に進む人が出てくるはずだ。まさにこれは創造のプロセスにおける最初の仮説形成のステップである。


ステップ1:まず、それに気づくかどうか
       ↓
ステップ2:気づいたあとで、それを心に留めるかどうか
       ↓
ステップ3:心に留めたあとで、自分の関心事と照合するかどうか
       ↓
ステップ4:照合したあとで、関心事とのギャップを考えようとするか
       ↓
ステップ5:考えたあとで、ギャップを埋める仮説を考えようとするか
       ↓
 <ひらめき!:暗黙的な仮説が生まれる>
       ↓
ステップ6:考えたその仮説を他の人に説明しようとするか【暗黙的仮説の形式知化】


ひらめき、発想、創造のきっかけは、周囲に満ちあふれている情報の中からある情報だけを“偶然”に捕らえ、それをヒントとして関心事と照らし合わせ、通常は意識として浮かび上がってこない「無意識知」とを共鳴させ、「意識知」の世界に暗黙的仮説として浮かび上がらせるプロセスである(参照:第24話 ひらめきのステップ)。しかしこのような創造のプロセスで創られる仮説は飛躍が大きい。ある人はなるほどと感じ、ある人は馬鹿々々しいと感じ、ある人は怒りすら感じる。創造的な仮説ほどそのような現象を引き起こすだろう。もちろん間違っている可能性も大きい。


しかしその仮説形成によって、モノ・コトへのより深い理解が可能になり、真実へと向かっていくための新たな次の仮説形成へのきっかけを作ることができる。プラグマティズムの創始者であるパース(Charles Sanderd Peirce 1839-1914)が言っているように、「人間の認識力には限界があるから、常に誤謬(ごびゅう)をおかす可能性がある。だからより確からしいものに近づいていくには探求をくり返すことが必要だ」という『可謬(かびゅう)主義』は「科学的方法論」の基本中の基本である。


「アッという間の1年とは何ヶ月なのだろうか」との疑問に答えるために好都合な情報が私たちの周囲にあるのだろうか、そしてもしあったとしてそのどれがヒントになるのだろうか。どのように仮説を作っていったらいいのであろうか。そしてそれをどのように検証していったらよいのだろうか。


もっとも、このような疑問に関しては、

・そもそも、このような疑問を持たない人
・疑問を持ったとしても、馬鹿々々しく思う人
・そもそも、答を出すのは不可能だと最初から思う人
・どのようにして答を出そうかと一応は考えた人
・何とか答となる仮説を出した人

などが過去にもいたであろうし、現在もまたいるであろう。


“ジャネの法則”と称されている話はその一つである。フランスの心理学者であり精神病理学者であった ジャネ(Pierre Janet 1859-1947)は次のように述べているというのだ。

『人の感じる時間の長さは、幼い頃は長く、歳をとるに従って短くなるので、ある年齢における感じる時間の長さはだいたい、年齢分の1である』

と言う。<人の感じる時間の長さは、幼い頃は長く、歳をとるに従って短くなる> という前半はそうであろうと共感する。しかし後半の <ある年齢における感じる時間の長さはだいたい、年齢分の1である> に従えば、1歳では1年と感じているのだが、40歳では1年を10日間ほどに感じているということになる。そもそも年齢分の1とは何の根拠もない乱暴な話である。これは私の美学に合わない。筋道が美しくないのだ。


それならば、私なりに「アッという間の1年とは何ヶ月だろうか」との疑問に対する答を考えてみたいと思う。あやしげで間違った結果になるのかもしれないが、遊びのつもりで試みるだけでも良いではないか。


では。

2012年4月11日 (水)

第53話:何が変わったのか (5)知識のモード

何が変わったのか(5)知識のモード


問題を解決する知識の種類が変わってきたように感じてきたのはいつ頃からだったのか。若い頃は研究開発における技術屋のスペシャリスト的に、そして経験を積むに従いゼネラリスト的に課題解決に当たってきたから、用いる知識の種類が変わったのは当然ではある。しかしそのような個人的なことではなく、社会全体において課題解決に用いる知識の種類が変わってきたのではないかと感じている。

マイケル・ギボンズは知識を「モード1の知識」と「モード2の知識」のカテゴリーに分けた(「現代社会と知の創造 モード論とは何か」、小林 信一訳・丸善・1997)。この分類は知識の種類を考える上で役に立つ。誤解を恐れずに単純化して言うと「モード1の知識」とは狭いが深いスペシャリスト的専門的知識であり、「モード2の知識」とは浅いが広範囲な専門的知識によるゼネラリスト的知識に近いと思う。


現在の近代工業社会を創り上げた技術の基盤になっている自然科学とは、物理学や化学を主体とする物質科学であった。これらの自然科学はその性格上、「人」や「社会」から離れて存在する「自然」を対象とし、より狭い分野で、より専門的な知識を深耕するように細分化されながら進化してきた。このような狭いが深い“専門的”な「モード1の知識」は産業革命以降の近代工業社会を構築する上で必要とした多くの問題の解決に極めて有効に機能してきた。近代工業社会では技術で解決できる広いフロンティアがまだまだあったからである。


一方、近年では、解決が求められている課題に対して、狭いが深い従来の知識では直接には役に立たない場面が多くなってきている。「人」や「社会」に直接に関連する環境問題とか医療問題、あるいは雇用問題や教育問題などである。現在の社会的ニーズの高いこれらの課題は、各分野をまたがる浅くても広い“専門的”な「モード2の知識」の重要性が増してきた。知識の作り方は、従来のように新たな専門的な深い知識を「発見」するというよりは、むしろ浅いが広範囲な専門知識を組み合わせて新しい解決案、つまり新しい知識を「発明」することに重要性が増してきたのである。(下図をクリックすると大きくなります)


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小学校から大学までの従来の学校教育は知識を教えるシステム、つまり教育を受ける側から見れば新しい知識を「発見」するシステムであった。必要不可欠な知識を教えることとその知識を蓄積することは教育の根幹ではあるのだが、しかしこれからはそれらの知識を組み合わせて課題を解決するに必要な知識を「発明」することがより重要になっていく。そのように学校教育システムを変革していく必要があろう。


「何が変わったのか」については

・近代工業社会の原動力となった「研究開発のリニアモデルとフォーディズムの組み合わせによる大量生産方式」が終焉に向かい、あらたな方式を模索する段階に変わってきたこと(第49話)

・商品に対する消費者(この言葉も変える必要があろう)の願望が、「欲求」(何が欲しいか分かっている)から「欲望」(欲しいのだが何が欲しいか分からない)に変わってきたこと(第50話)

・これまでの近代工業社会を支えてきた技術の基盤をなす自然科学であった物理学や化学を主体とする物質科学からこれからの社会の基盤をなす自然科学は情報科学と生命科学にその重点が変わってきたこと(第51話・第52話)

などについて触れてきたのだが、これらの変化と問題解決の知識のモードの変化はまったく同じ源流から生じた現象であって、すべて同期している事柄だ。このことは現在が近代工業社会のパラダイムから新たな社会へのパラダイム・チェンジの過渡期にあることを示している。現在のパラダイムにどっぷりと浸かっている我々は、新たな社会へのパラダイムがどのようなものなのか実感することは出来ない。


実に残念である。

2012年3月31日 (土)

*2012年3月 リスト

*2012年3月 リスト


第52話 何が変わったのか?(4)自然科学のモード その2:新たな自然科学

第51話 何が変わったのか?(4)自然科学のモード その1:これまでの自然科学

第50話 何が変わったのか?(3)願望のモード

第49話 何が変わったのか?(2)モノ作りのモード

第48話 何が変わったのか?(1)変化のモード

2012年3月26日 (月)

第52話:何が変わったのか (4)自然科学のモード その2:新たな自然科学

何が変わったのか(4)自然科学のモード その2:新たな自然科学


<新たな自然科学の登場>

高校や大学などで教わってもいなかった情報科学や生命科学が、日常的に当たり前の話として登場するようになったのはいつ頃からであったであろうか。1960年代はパソコンはもちろんなかったし、電卓すらなかった。実験の合間に学友とタイガーの手回しの機械式計算器で平方根を出す時間競争をしたものだ。あとになって会社の金で高い電卓をようやっと手に入れて、ボタンを押した途端に一瞬で平方根や三角関数のの答えが出たときには感激した。一方、遺伝子はタンパク質の一種だと言う説はまだ残っていたし、デオキシリボ核酸とかDNAなどとの言葉はまず日常的には聞くことはなかった。

1980年代の初めの頃であろうか、早い物好きがNECのパソコンを買って遊んでいるのをみて、触ってみようと一番安いNECパソコンを買ったのだが、その時には役立たずの電気式おもちゃとの印象であった。DNAとの言葉がしばしば聞こえてくるようになり、それを意識し始めたのもほぼ同じ頃であったかと思う。それ以来、ワープロを経てパソコンも仕事に使わざるを得なくなった。そのような様々な経験や知識を詰め込むようになって、新たに登場してきた知識の断片が情報科学や生命科学と呼ばれるようなカテゴリーにまとめられてきたことも知るようになった。“自然科学”の中に新たに加わってきたそれらの科学と、これまで親しんできた物理学や化学を主体とするこれまでの“自然科学”とはどうも違うようだとぼんやりと気になりだした1990年代の後半だったかもしれない。

今日で言う情報科学が登場したのは20世紀の半ばであると言われている。この学問の基礎を創り上げたのは計算機科学の父と言われているチューリング、情報理論の父と言われるシャノン、万能の科学者と言われ今日のパソコンの祖でもあるノイマンの三人衆と言うのが一般的だ。私はこの分野にはまったく疎く、雑学的な断片しか知らなかった。チューリングが第二次大戦に活躍したドイツの「エニグマ暗号機」の暗号を解読し、英米連合がドイツに勝利することが出来た影の立役者であり、しかし同性愛事件で悲劇の死を遂げたという話や、天才と言われていたノイマンの様々な奇行やエピソードを知っていた程度であった。(下図はクリックすると大きくなります)


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自然の中における“ものごと”を観察し、記述し、分類するという知識の体系は実に歴史が古い。そのような知識の体系は「博物学」と呼ばれているのであるが、その中でも最も古いと言い切っても良いではないかと思う分野は、人類が生き延びていくためには不可欠の知識である動物や植物などの生き物に関する分野と思っている。この生き物に関する知識の体系、つまり生物学が最初に大きく変化したのは19世紀の中頃以降と思う。

その変化を巻き起こした主役は、1859年に出版と同時にセンセーションを巻き起こしたダーウィンの「種の起源」や、それとは逆に長い間誰にも知られず20世紀になってやっと再発見されたメンデルの「メンデルの法則」(1866)であろう。とはいえ、物理学や化学とは違う博物学的色合いなお濃かった。その生物学が生命科学として“科学”になったのは生き物の遺伝の秘密を明らかにしたワトソンとクリックの「DNA二重らせんモデル」の発表(1953)以降であろうと私は思っている。生き物の遺伝における普遍的な最小単位を発見したことにより、生き物を統一的に理解し、予測し、検証するという一連の“自然科学”的ステップをとって推論を進めることが可能になったからだ。これは実に大きな革新であったと思う。トーマス・クーンの言うパラダイム・チェンジ、科学革命がまさに起こった。(下図はクリックすると大きくなります)

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<何が違うのか>

20世紀の初め、アインシュタインによって物質とエネルギーは等価であると証明されたので、これまでの物理学や化学によって発展してきた自然科学は「物質科学」とも呼ばれている。言うなればこれまでの自然科学は物質に関する“ものごと”だけを対象としてきた。しかし新たに登場してきた「情報科学」や「生命科学」の対象は物質に関する“ものごと”ではない。情報・知識・生命・認識・こころなどの非物質の“ものごと”を対象としている知識の体系である。物質と非物質、モノと非モノの違いは決定的に大きい。

例えばDNAそのものはデオキシリボ核酸であって物質であるが、DNAの持つ本質は物質ではない。4つの塩基であるアデニン(A)・グアニン(G)・シトシン(C)・チミン(T)の並び方であって、それが生命の情報を持っていることだ。何かのモノの発見によって学問の大系が進化していく自然科学ではなくて、モノの中に記述されたシナリオや文章の意味を読み解くことによって学問の大系が進化していくような自然科学のように思うのだ。これまでの自然科学が“ものごと”の【因果性・法則性】を求めていたとすれば、新たな自然科学は“ものごと”の【構造性・関係性】を探求している。さらにはこれまでの自然科学が自分の外に存在する<外なる自然>を対象領域としているとすれば、新たな自然科学は自分の中に存在する<内なる自然>を対象領域にしていると言えるのではないか。(下図はクリックすると大きくなります)

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自然科学そのものをアカデミックに論ずることは素人の私の手に余ることだ。これまでの自然科学と新たな自然科学という認識自体も正しいかどうかわからない。しかし技術屋として感じることは、近年になって従来のモノ作りの技術分野とは異なる新たなカテゴリーの技術分野が生まれてきて、それに対応して新たな産業分野が生まれてきたことは確かだ。そしてそれぞれを基礎で支えている自然科学が、一方は物理学や化学などの従来の自然科学であり、一方は情報科学や生命科学などの新たな自然科学であることもまた確かではないかと思う。

400年ほど前にイギリスから始まった産業革命はモノ作り(つまりエネルギー)の革命であった。そして大量生産・大量消費・大量廃棄という近代工業社会を成立させてきた。それが終焉に近づきつつあり、現在は新たな時代に向かおうとしている踊り場にあると多くに人は感じているに違いない。その背景には新たな自然科学の登場もまたあるのではないかと思う。そのことについても、実は多くの人はぼんやりと気がついているのではないか、言われてみればそうだなと感じる状態になっているのではないか、と思う。


もしも新たな自然科学が登場したとの認識が正しいとしたら、これまでの物理学や化学などの自然科学が「人」や「社会」から距離をおき、同じパラダイムの下で専門分野を深耕させるように進化してきたのに対し、新たな情報科学や生命科学などの自然科学はむしろ本質的に「人」や「社会」に密接に関連しながら進化していく。このことは従来の自然科学(理系)と人文社会科学(文系)との間で生じていた深い溝を新たな自然科学が埋め、統一した“科学”として理解できるようになるかもしれないとの期待を抱かせてくれる。大学教育においても、文系・理系を問わずこれらの二つのカテゴリーの自然科学の本質を必須科目としてきちんと教えておくことが重要だと思う。


2012年3月19日 (月)

第51話:何が変わったのか? (4)自然科学のモード その1:これまでの自然科学

何が変わったのか? (4)自然科学のモード その1:これまでの自然科学


自然科学には二つの種類があるようだ。ぼんやりと、そのうちに、はたと気がついたら、これまでと様相が違う種類の自然科学が目の前にあったという感じなのである。誰もが知っている当たり前のことを私だけが知らなかったということは多いものだが、これもその一つかもしれない。あるいは独りよがりの間違った理解なのかもしれないが、書いておこうと思う。

<自然科学のこと>

自然科学と称する学問が成立したのは人や社会に関連する学問に比べたらつい最近のこと、400年程度の歴史しかない。自然科学の誕生の年は、象徴的にはコペルニクス(Vicolaus Copernicus 1473-1543)の「天体の回転について」とベサリウス(Andreas Vesalius 1514-1564)の「人体の構造」が出版された1543年である。そののちにガリレオやニュートンなどによって18世紀に物理学として、またラボアジエやドルトンなどによって19世紀に化学として大系づけられていったと理解している。自然科学を分類し始めると果てしない泥沼の論争になる。でも、これまでの自然科学を特徴付けているのは物理学と化学であることは間違いないことであろう。物理学や化学は自然科学の主役として、産業革命における技術の進展と結びついて今日の近代工業社会を生んだ。(下図をクリックすると大きくなります)


1


そもそも、私たちは「自然」の他に「人」や「社会」に関連する“ものごと”、さらにはまだそれらにも分類されないような「未知」という4つのカテゴリーの“ものごと”に囲まれて生活していると思う。「未知」とは私たちが賢くなるにつれて理性的に理解され、少しずつ「自然」・「人」・「社会」のどこかに組み込まれていくことになるような“ものごと”である。“自然科学”は私たちの周囲に存在する多くの“ものごと”のうち「人」と「社会」に関する“ものごと”を排除し、「自然」に関するごく一部の“ものごと”のみを科学的に扱ってきた知識の体系と言うことになる。一方、「人」や「社会」に関する“ものごと”を科学的に扱ってきた知識の体系は“人文社会科学”と呼ばれている。ここでまた「科学」とは何ぞやとの議論が必要なのだが、別の機会にしようと思う。

さらに自然科学とは、「自然」の“ものごと”であっても次のような条件を満たす“ものごと”だけを切り取って成立してきた。言うなれば、私たちの周囲に存在する膨大な量の“ものごと”のごく一部である「自然」のうちの、さらにはその極々一部を対象としていることになる。


自然科学を成立させてきた前提条件とは例えば次のようなものだ。

・ “ものごと”は定量的(数量的)に表現できる。
・ 唯一絶対な基本法則や基本原理がある。
・ 全体の特性を変えないで、要素を全体から取り出すことができる
・ 要素は感覚や目的、価値を持っていない。
・ 要素を組み立てれば全体になる。
・ 得られた結果はいつでも誰でもどこでも再現できる
・ 主要な論理プロセスとして帰納的推論を用いる
・ ・・・・・・
(下図をクリックすると大きくなります)


2

結果として自然科学は一つの専門分野には一つのパラダイムが存在するような単純化によって自立的に急速に専門分野を細分化し、深掘りし、知識の量を増大させ、適用範囲を広げていくことが可能になった。自然科学から得られた知識は「自然」のみに限定しているので、 基本的には宗教・地域・人種・時代・個人・社会などに依存しないことが特徴である。西欧キリスト教社会で誕生し発展した自然科学が、短期間の間に急速に世界共通の共通の知識の体系となって普及し、今日の世界共通の科学技術文明となった理由はここにあるだろう。しかし一方で今日の科学技術文明は「人」や「社会」における多様性を排除する性格をも併せ持っているとも言える。


<人文社会科学のこと>

人文社会科学についても自然科学と対比して説明した方がいいであろう。私は、人文社会科学の目的は「人」や「社会」における“ものごと”の関係性・構造性の探究であると思っている。新たな“ものごと”を発見することが最大の価値を持っていたり、唯一絶対の法則を見つけようとする自然科学とは違うのだ。従って人文社会科学の知識は「人」や「社会」から離れて存在することは出来ず、結果として宗教・地域・人種・時代・個人・社会などに依存する。自然科学と違って多様な価値観や世界観が共存し、一つの専門分野にも複数のパラダイムが常に存在する。当然ながら自然科学の前提条件は人文社会科学にはほとんど当てはまらない。(下図をクリックすると大きくなります)


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すなわち、「人」や「社会」における“ものごと”は定量的(数量的)に表現できることは滅多にないし、唯一絶対な基本法則や基本原理があるわけではない。 全体の特性を変えないで、要素を全体から取り出すことは難しいし、「人」や「社会」における“ものごと”の要素はふつうは感覚や目的、価値を持っている。要素を組み立てれば全体になることはほとんどないし、 得られた結果はいつでも誰でもどこでも再現できることは極めてまれだ。それに、主要な論理プロセスとして演繹的推論を用いていて、論理のステップが逆方向なのだ。ことほどさように自然科学と人文社会科学は大いに違う性格を持っている。

理系と文系の人たちの“ものごと”の考え方の本質的な違いはここにあると思う。理系と文系の断絶に関しては、日本においては明治以来のさまざまな経緯によって増幅されていることは確かだが、日本ばかりの特徴的な現象ではない。スノー(Charles Percy Snow 1905-1980)が1959年に行った講演「二つの文化と科学革命」(みすず書房 1967)で指摘するまでもなく、19世紀にもすでにイギリスの生物学者トーマス・ハックスリ(Thomas Henry Huxley 1825-1895) が言っている。彼は「近代科学の発展は思想界に、一方では事実の重視、具体的体験の重視とう観念をもたらすとともに、他方では物質と因果性の領域を拡大することによって、人間の思想の全領域から、いわゆる精神と自発性を徐々に追放してしまう」(魚津郁夫「プラグマティズムの思想」ちくま学芸文庫 2006)と。


そのような性格を持って成長発展してきた自然科学であり、自然科学とはそういうものだと理解してきた。しかし最近になってそれだけではなく新たなカテゴリーの自然科学が登場したと理解した方がよさそうだと実感するようになった。情報科学や生命科学である。これまでの自然科学と何が違うのであろうか。

2012年3月 7日 (水)

第50話:何が変わったのか? (3)願望のモード

何が変わったのか?(3)願望のモード


<理性的価値と感性的価値>

20世紀の始め、大衆消費社会がまだ未成熟な時代には市場のニーズは明確であった。企業は研究開発の<リニア・モデル>に従って画期的な技術を作り、<フォーディズム>に従って製品を大量に市場に供給すれば、大きな利益を上げることができた。以前は高嶺の花であった商品も、コストが安くなることによって“生きていくために便利な商品”、つまり生活必需品になっていくからである。自動車はもちろんのこと、白熱電球も、白色蛍光灯も、ナイロンも、ラジオやテレビも、たとえ品種が少なくても大衆は争って購入した。

その時、人々は何がほしいかと問われれば答えられる何かが意識されていた。その何かに企業が応えるには「性能」、つまり企業は数値で表現された特性値を大衆に訴えればよかった。自然科学的な表現と言っていいであろう。自然科学は数字という文字で語られているからだ。クルマで言えばスピードとか、燃費と言った数値であり、明かりで言えば明るさとか、エネルギー効率と言った数値である。これは<理性的価値>と言い換えてもいいであろう。自然科学をベースにする数値表現は時代・地域・年齢・性別・民族・宗教を問わず、共通の理解が可能である。だからこそ近代工業文明は世界的規模で急速に影響を及ぼした。

しかし生活必需品が行き渡り大衆消費社会が次第に成熟することによって、人々は自分が次に何を欲しいのか答えられなくなった。何かが欲しいとの「願望」は確かにあるのであるが、具体的に何が欲しいのかわからない。使って心地よいとか、美しいとか、地球の環境にやさしいと言った「性能」では表せない「何か」である。自分でもよくわからないその何かは突き詰めれば、個人ごとに違い、対象によっても、場面ごとにも、また時間経過によっても、その何かは違う。社会的かつ文化的な、さらには歴史的な「場」の中ではぐくまれてきた一人ひとり違う価値観、つまり個人にとって生きていくことを“幸せ”に感じさせてくれる<感性的価値>を求めるようになったのだ。その結果、市場ニーズは潜在化した。市場調査をしても将来がわからなくなったとか、革新的技術を作っても市場ニーズを満たすことができなくなってきたとの事実は、この変化の一つの表現に他ならない。

言い換えれば、人々の「願望」のモードは目標が明確な<理性的価値>を求める「欲求」から、目標がはっきりしない<感性的価値>を求める「欲望」へと変化し始めたのだ。<理性的価値>には限界があるが、<感性的価値>には限界がない。近年になって企業側の<モノ作りのモードが変わった>ことと、消費者側の<願望のモードが変わった>ことはコインの両側のそれぞれの面を異なる方向から見ているのであって、同じことを言っている。

重要なことはこの<感性的価値>には限界がないことだ。満足度も限界がない。その商品の価値を決めるのはその商品を使う人であって、「価値感」は一人ひとり違う。商品を作り出す企業ではない。プロダクト・アウトの時代は終わったのだ。そのことに気づいていない企業はまだまだ多い。パラダイムを変革できない企業は衰退していくか、滅亡するであろう。(下図をクリックすると大きくなります)


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<欲求と欲望>

「何か」がほしいという人の「願望」には「欲求」と「欲望」があると述べた。少々説明しておいた方がいいであろう。「欲求」も「欲望」もその人の心的エネルギーは活性化された状態になっている。だから何かしようという行為へと進み出す。

「欲求」とは「何をしたいか」が自分ではわかっているのであって、その「何か」という課題を達成すれば満足し、心的エネルギーは安定状態に戻るプロセスを伴っている。もちろん満足しないこともあるのだが、その行為をすることによってその「何か」は以前よりも明確になっているはずだ。いずれにしてもその「何か」は自分の予測の範囲内にあるだろう。別の言葉で言えば、「欲求」における「何か」とは自分が明確にわかっている「意識知」の世界にあるのであり、「欲求」とはその「何か」を確認する<仮説検証>のプロセスと言えよう。従って満足度も予測の範囲内にあるだろう。

一方、「欲望」とは、「何をしたいか」が自分でもはっきりとわかっていないけれども、しかし「何かをしたい」との心の状態にある。その「何か」をしようと行動を起こしたとしても、その結果には常に不満足であって、次の「何か」に出会うために再び求める旅に出る。心的エネルギーの活性化状態が続くのだ。「欲望」における「何か」とは自分でもわからない「無意識知」の世界にあるのであって、「欲望」とはその「何か」を求め続ける<仮説創造>のプロセスと言えよう。いつかはその「何か」で出会う場面が出て来るかもしれない。その時の満足度は「欲求」のプロセスよりもはるかに大きいに違いない。(下図をクリックすると大きくなります)


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<知識の種類>

ついでに「意識知」と「無意識知」についても少々説明しておきたい。私は、自分の持っている「知識」には、思い出そうと意識することによって容易に思い出せる「意識知」と思い出そうとしてもなかなか思い出せない「無意識知」の二種類があると思っている。海と陸のたとえで言うなら、「意識知」は陸上にある見える知識であり、「無意識知」は海に沈んでいる見えない知識と言ってもいいであろう。容易に思い出せる「意識知」であっても、それを他人に容易に言葉や文章で伝えることのできる「形式知」もあれば、極めて属人的で他人に伝えることが困難な「暗黙知」がある。“知識創造”などと言っている“知識のマネジメント”領域ではこの「意識知」を対象としている。

一方、「無意識知」には、知識の海の底に沈んでいて思い出すことが困難な「深層知」と、心的エネルギーが活性化されることによって意識の海面に上がってくる「臨界知」があると思っている。人が五感によって日常生活で取り入れる「知識」は極めて膨大な量であるが、そのほとんどすべては「深層知」となって、底深くに沈み込んでいる。そのような「無意識知」の中にあって、何らかのきっかけによって浮かび上がってくる「臨界知」はひらめきの源泉である。

私は、発明や発見などの“創造のマネジメント”領域では「無意識知」が極めて重要な働きをしていると思う(第4話、第24話など)。好奇心は「無意識知」を増やしていく原動力であって、創造力のパワーアップに不可欠なのだ。意識知に基づく“知識のマネジメント”さることながら、無意識知に基づく“創造のマネジメント”がよりいっそう重要な変化の時代になってきていると思う。(下図をクリックすると大きくなります)


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蛇足であるが、2011年6月に始めた駄文も今回で第50話になった。目標の第100話までちょうど折り返し点である。

2012年3月 4日 (日)

第49話:何が変わったのか? (2)モノ作りのモード v.2.1

何が変わったのか?(2)モノ作りのモード v.2.1

<リニア・モデル>

19世紀のアメリカ企業はエジソンやウェスティングハウスのような外部の個人の発明家に研究開発を依存していた。しかし20世紀になると、先進国ドイツの企業シーメンス、バイエル、ヘキストなどをまねて、アメリカでも GE、AT&T、デュポン、コダックなどの企業が内部に研究所を作るようになった。つまり個人から企業内組織によって研究開発をする仕組みに変えていったのである。この研究開発は後になって、研究開発の<リニア・モデル>と呼ばれるようになる。

<リニア・モデル>とは基礎的な科学研究を行い、その成果を技術として創り上げ、商品に仕上げて、市場に送り出すという一方向の一貫した研究開発システムのことを言う。もともと化学や電気の最先端の製品を先進国ドイツからの輸入に頼っていたアメリカは第1次大戦によってその輸入が途絶え、独自に研究・開発・生産しなければならなくなって、急速に研究開発の内部化、つまりこのリニアモデルが普及したという経緯がある。第一次のブームである。ゼネラル・エレクトリック社中央研究所のクーリッジ とラングミュア による窒素ガス入り白熱電球の発明(1913)、デュポン社中央研究所のカロザース による初の合成ゴム「ネオプレン」の発明(1931)や初の合成繊維ナイロンの発明(1935)などが産み出され、ノーベル賞受賞者を輩出するほどの高度な基礎的な研究が行われるようになった。『世界に通用する基礎的な研究を行え。そうすれば重要な新製品を見出すことができ、商品化して大きな利益が上げられる。なぜならその商品を完全に独占できるから』。これはデュポン社の幹部の言葉である。(下図をクリックすると大きくなります)

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さらに第二次世界大戦後のアメリカでは、1945年に提出されたブッシュ・レポート「科学:果てしないフロンティア」によって第二次の<リニア・モデル>ブームが引き起こされることになる。特にソ連との冷戦下でそのブームに拍車がかかった。このシステムは科学優先主義である。技術は科学に隷属する対象であった。また科学優先主義は当時の政治・経済・社会の状況の中では研究資金を獲得するための理屈付けとしても実に有効であった。今でもその傾向は残っている。日本で“中央研究所設立ブーム”が起こったのは1970年代前後ではなかったかと思う。アメリカが科学や技術で20世紀の間に世界の覇者になっていった理由の一つにはこのシステムを20世紀の初めから徹底して採用したことがあったと思う。まだまだ技術も市場も開拓すべき領域が目の前に広がっているフロンティアの時代であったのである。

<フォーディズム>

あのハックスリー(Aldous.L.Huxley1894-1963)のSF文学「すばらしい新世界」はフォード紀元632年から始まる話である。機械文明の極度の発達のあげく人間が自らの発見した科学の成果の奴隷となり果て、一切の人間的価値と尊厳を喪失するに至る悲劇を描いている。小型自動車T型フォード の大量生産はキリスト紀元1908年に始まったのであるが、しかしアルダス・ハックスリーに言わせれば、その年はそれまでの社会を変え、未来にわたって影響を及ぼしていく科学技術万能で物質万能の大量消費社会という新世界の始まり、未来の歴史における「フォード紀元」の元年にあたると言うことになる。

フォードは専門化された組織による分業化を徹底させ、標準化された互換部品を徹底的に多用し、流れ作業を採用した組み立て工程を作りあげてT型フォードを製造した。このモノづくりの特徴は品種は少ないが均一な品質の商品を低価格で大衆に供給することにあった。これによって1908年に850ドルであった価格は1924年には290ドルまでに低下し、金持ちのおもちゃであった自動車は大衆の足になった。フォード方式は新規な商品の新規な製造方法という枠を越えて、その考え方は人々の生活や社会、経済に大きなインパクトを与えた。このプロセス・イノベーションはのちに単なる生産手段を越えてやがて<フォーディズム>と呼ばれるようになっていく。

さらには企業内部の研究組織が大きな経済的成果を上げるにつれて、アメリカは研究開発の<リニア・モデル>によって自然科学の基礎的研究から革新的な技術を生み出し、<フォーディズム>によって効率的に生産するとの【リニア・モデル + フォーディズム】というハイブリッドのモノ作りシステムを神話化した。この方式は以前はなくて済ませることができた高嶺の花であったあこがれの商品も、初めて知る科学の成果を製品に仕上げた商品も、大量に安く供給されることによって大衆にとってなくてはならない“生活必需品”に変えていくほどの威力を持っていた。科学と技術は人類に健康と豊かな品々を提供し、未来は幸せであることを約束したのである。(下図をクリックすると大きくなります)

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1970年代になってトヨタによる生産方式<トヨティズム>で改良が加えられたものの、基本的には【リニアモデル + フォーディズム】システムによって私たちのまわりには人工物で満ちあふれ、大量生産/大量廃棄型の近代工業社会が実現するに至った。1972年にローマクラブが「成長の限界」報告書を出すまでは、世界の誰もが地球上の資源は豊富にあると考え、ゴミはどこにでも捨てた。無意識に「地球は無限の開放空間だ」と考えていたのだ。


<新たなモノ作りへ>


しかし近年になり、特に先進諸国と称される国々では生活必需品市場はほぼ飽和し、これまでの大量生産/大量廃棄型から環境/資源持続型の新たな社会を目指さざるを得なくなった。ようやく「地球は有限の閉鎖空間だ」と考え直したのだ。この思考と同期して、これまで威力を発揮してきたモノ作りの【リニアモデル+フォーディズム】システムは徐々に衰退していくようになった。多くの企業で採用されていた“中央研究所”システムが1980年代から1990年代にかけて次から次へと閉鎖されたり、改変されたのもその象徴と言えよう。

大きく言えば、18世紀にイギリスで始まった産業革命が地球規模で終焉に近づいてきていることをも意味している。もちろんすべてが一律にそうなってしまったというわけではない。このシステムがまだまだ有効な技術領域、有効な国や地域は当然ある。自然科学とは違って白黒に分けられない領域は常にある。はっきりしていることはモノ作りの流れの方法論が大きく変わったということだ。それにモノ自体も人工物ではないモノがあらたな主役として登場しつつある。そのような状況の中で、市場や他の組織との多様な関係を構築し、商品コンセプトを検証しながら対話的に進めていくさまざまなモノ作り方式が試されてくるようになった。最近はやりの言葉のようになっている<オープン・イノベーション・モデル>なるものも、そのあらわれの一つである。(下図をクリックすると大きくなります)


2


このモノ作りの大きな変化にまだ気がついていなかったり、気がついてもその変化に対応した施策をとっていない企業はまだ多い。現在の大きな企業や、かっての花形であった企業ほどその企業パラダイムの慣性モーメントは大きいので、急速な変化には舵を曲げてもなかなか方向は変わらず、追随できずに衰退し滅亡していく企業も出てくるものだ。それらが淘汰され、新しい芽が出始めて、日本の再生となる次なる時代が生まれよう。

2012年3月 1日 (木)

第48話:何が変わったのか (1)変化のモード

何が変わったのか (1)変化のモード


世の中の変化について関心を持ち、そして記憶に残ったりしている社会の物事は、ふつう小学生の上級生以降からではないかと思う。私の場合はそれは20世紀の半ばからの出来事であろうかと思うのだが、それから21世紀に入って10年以上を過ぎた現在までの60年間は予想できなかったほどの大きな変化があった。目に見えたり、体感できたりするような短期間で生じた大きな変化もあれば、その変化が長い時間かかって起こるためにほとんど気がつかないような変化や、気がついてみればとてつもないような大きな変化であったこともある。コンピューターやネット社会を作り出している“情報革命”などはその典型であろう。

もっとも、このように自らのソトで起こる変化もあるし、また自らのウチの中で起こる変化もある。そのような変化は世の常であるし、ヒトとして当然あり得ることであって、その変化に適応してこれまで生きてきたのであるから、人生という流れの中では変化は切っても切れない仲間である。とは言え、その変化に適応しにくくなる時は必ず来るものである。あるときから以前よりも安寧を望むようになり、たぶんそれはどこかで密かに何かの減退や衰退が始まったことを意味するのだろう。ソトやウチなる環境に対する自らの不適合が起こってきたのだ。世阿弥が「花鏡」(1424年)の中で言う「初心忘るべからず」との言葉はこの状態をリセットしてもう一度や元に戻ってやり直せと言っている。この言葉はその時のためにあるのだが、そうとも言っていられない時が必ず来るものだ。

世阿弥が花鏡に書いた「初心にもどれ」というのは、組織や社会からの視点では「イノベーションを起こせ」ということに他ならない。個人ばかりでなく、組織・国家の単位であっても、科学や技術、商品や市場であっても、何らかの“環境”の中で棲息しているあらゆる“生き物”は変化に適応しないと生き延びられない。トーマス・クーンが言いだした「パラダイム」との概念を借りて言えば、パラダイム・チェンジしないと衰退・滅亡の道を進む。

パラダイム・チェンジをしないと生き延びられないのだが、そのパラダイムで長く生きてきたり、組織や図体が大きくなってきたり、そのパラダイムで繁栄や利益を享受してきたりするほど、パラダイムを変えることは難しい。パラダイムとは一種の“文化”なのであって、変化しにくい大きな慣性モーメントを持っている。大型の恐竜は6550万年前に死に絶えたけれど、小型の哺乳類は今日まで生き残ったのも変化を乗り越える機敏さがあったからだ。すばらしい大会社ほど変化に適応して舵を切って方向を変えることが難しいという「イノベーションのジレンマ」を抱えている。日本の現在の混乱も新たなイノベーションを起こす前夜にいると思えば、希望が持てる。(下記をクリックすると大きくなります)


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イノベーションの世界においては時間軸の長さによって徐々変化していくインクリメンタル・イノベーションとか急速に変化するラディカル・イノベーションなどと言っているものは、明らかに現象として明確に認識できる変化だ。しかし数十年にわたって少しずつ変化していくので最後まで認識できない変化もある。それでも長い時間を生きていれば、ああそうだったのか、考え方が変わってしまうほどの革新だったのではないかと合点がいくこともある。生きて行くにはその変化に気づく方がいいだろうと思う。たとえその変化の中に埋没して取り残されようと、変化に気づけば対処の仕方を自らの意志で決められよう。

そのような気がつきにくい変化を技術屋の目で、技術屋の領域で、思いつくままに取り上げてみたいと思う。とは言え、その変化は単なる思い違いかもしれないし、よしんば変化があったとしても正しい認識であったかどうかはわからない。本当は知らなかったのは本人だけであって、実は誰でも知っていることなのかもしれない。とは言え本人は今はそう思っているのだから、忘れないうちに書き記しておこうと思う。

大きく変化した一つに、企業におけるモノ作りのモードがある。モードとはやり方・方法論・様式などを意味したい。変わったというよりも、21世紀に入ってもなお変わりつつあるといった方が良いかもしれない。まずは、この話から始めようと思う。

2012年2月29日 (水)

*2012年2月 リスト

*2012年2月 リスト

第47話 光と色と絵の話(15)新たな明かりを求めて

第46話 光と色と絵の話(14)「白い光」を定義する

第45話 光と色と絵の話(13)絵画技法が完成した

2012年2月26日 (日)

第47話:光と色と絵の話 (15)新たな明かりを求めて

光と色と絵の話 (15)新たな明かりを求めて


<人工の「白い光」>

この「光と色と絵の話」はどうやら終わりに近づいた。「白い光」と色のついた光とは何か決定的に違うものがあるようだ、そんなことを知りたくて始めたのであるが、「白い光」の正体も分かったし、多くの画家達が「白い光」とどのように関わりあってきたのか、自分なりに分かってきた。それに、夜でも明るい昼間の「白い光」と同じような人工の光を作ろうとヒトは努力をしてきたこともわかってきた。

あらためて調べてみると、最初の人工の「白い光」はイギリスの化学者デイヴィー(Humphry Davy 1778-1829)が電池につないだ2本の炭素棒の間で発生したたまたま見つけたアーク放電であったろうと思う。しかしあまりにも不安定で強烈すぎる光であったことは確かである。ガスの炎によって加熱された酸化カルシウム(ライム)が「白い光」を放つと発見されたのもアーク放電のとほぼ同じ19世紀の初めであり、これは「ライムライト」としてしばらくは使われた。さらには19世紀の終わり頃になってオーストリアの化学者ウェルスバッハによって、初めての実用的な「白い光」である白熱ガス灯が作られた。しかし結局は明かりは電気エネルギーを使う明かりにすべて置き換えられた。

下図はエジソンの炭素フィラメント電球から今日のLEDまで、いろいろな人工の明かりの効率(ルーメン/ワット)の進歩を示している。この図はもともとはオランダのフィリップス社の研究者が作ったものであり、最近の白色LEDのデータだけを新たに継ぎ足した図である。明かりの技術開発ではフィリップス社はGE社と並んで大きな業績を上げてきたという輝かしい歴史を持っていることもあるのだろうが、このように関心の対象の全体像を俯瞰して見ようとする意欲や能力はアングロサクソンの人たちの方が日本人よりもすぐれていると私は感じることがよくある。見習いたいと常々思う。(下図をクリックすると大きくなります)


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19世紀にエジソンが実用化した炭素フィラメント電球は20世紀になってタングステン・フィラメント電球に置き換えられ、さらにはハロゲン・ランプにと進化してきた。しかし投入エネルギーの90%以上が熱になってしまうほどの効率の低さが問題である。広く使われている蛍光灯(低圧水銀ランプ)も水銀という環境問題をかかえている。現在最も効率のよい明かりは高速道路などで使われているあのオレンジ色の明かりの低圧ナトリウム放電灯であるが、「白い光」としては使えない。最近の自動車のヘッドライトは昔よりもずいぶんと「白い光」になったが、それはメタルハライド・ランプのおかげだ。放電灯なのでスイッチを入れても点灯するには少々時間がかかるとの問題を抱えている。最近になって急速に効率を上げてきているのが白色LEDである。演色性の改良は大きな課題だが、ひょっとしたら従来の明かりのかなりの部分を置き換えるであろう。

「白い光」の技術はまだまだ発展途上だ。光の発生メカニズムから見ると、その原理は2つある。燃やしたり高熱に加熱したりして、つまり「熱放射」によって光を得る方法と、気体や固体の蛍光発光現象、つまり「ルミネセンス」によって光を得る方法である。「熱放射」に始まる明かりの歴史は人類が火をいつから使い始めたのかとの歴史でもある。その原始の時代に始まる「熱放射」の第一世代から、20世紀の中頃から始まる「ルミネセンス」の第二世代に移ってきた。現在の明かりは白熱電球と白色蛍光灯がそのほとんどを占めていて、白熱電球は効率が低すぎ、白色蛍光灯は水銀という環境問題がある。白色LEDはさらに発展し、「白い光」の明かりとして定着していくであろう。さらなる新しい「白い光」は本質的に効率の高い新方式のガス放電灯なのか、最近進展が著しい有機ELなのか、あるいはナノフォトニクスを応用した概念の全く違う明かりになるのか、明かりウォッチャーにとっては実に興味深い時代にとなった。(下図をクリックすると大きくなります)


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<夜の地球は白い星になった>

ガガーリン(Yurii Alekseevich Gagarin 1934-1968)が「地球は青かった」と言ったように、宇宙空間に浮かんだ地球はたしかに青い色をしている。それは昼間の地球を見ているからである。太陽の光が当たらない夜の地球は人類が「白い光」を作り出すことによって宇宙の中でも白く輝くめずらしい星になった。下図はアメリカ合衆国が昼間から夜に移っていく有り様を宇宙から撮った写真である。ニューヨークは夜になって白い光の海の中にあり、カルフォルニアは夕方に近づいていて、カナダはまだまだ昼間。昼間と夜の境は夕方であって、その地域の人たちにはきっと赤い夕焼けが見えているはずである。


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<最後に、美術館の照明のこと>

基本的には美術館の照明は画家たちが描いた時の自然の「白い光」に近づけようと努力していると思う。演色性Ra100は不可能だから、できるだけRa100に近くなるような人工の照明を使おうとしていると信じている。だが美術館に行っていつも不満なことは、前面のガラスに自分の顔が映るような展示のやりかたも気に入らないのであるが、それよりもとにかく照明が暗すぎることである。もっと明るいところで見たいと思うのは私だけだろうか。特に、印象派・外光派の画家たちが描いた絵ならば彼らが描いたときのように明るい光の環境でみたいと思う。

そうとは言え、彼らの絵の展示照明を暗くしている理由の一つに、ちょうど彼らが活躍していた19世紀の後半になると有機化学工業が発達し、あざやかな色の人工の色素や顔料が登場し、それを使い出したという状況がある。それらの色素や顔料は技術がまだ低くて耐光性・耐候性が充分ではなかったために、美術館における照明する光は出来るだけ低く抑えたいとする配慮がなされているのだろうと私は勝手に思っている。したくてもできない美術館側の理由があるのだ。いずれ、この仮説が正しいのかどうかを検証したいと思う。

もしも明るい照明が困難なら、徳島県鳴門市にある大塚国際美術館の生き方は参考になる。世界の著名な作品(システィーナ礼拝堂まで)を色彩豊かな陶板で見事に再現しているのだ。その複写技術・色再現技術にはほとほと感服する。陶板だから耐光性・耐候性は充分すぎるほどある。太陽のような光の下で外光派の絵を観察できることはすばらしいことである。本物ではないけれども世界の名画を一堂に集めて展示し、本物を見たければ世界各地の美術館に訪ねていけばよろしいと割り切っている。この姿勢には好感が持てる。


2012年2月15日 (水)

第46話:光と色と絵の話 (14)「白い光」を定義する

光と色と絵の話 (14)「白い光」を定義する


<のこぎり屋根の工場>

17世紀の画家フェルメールは北側に窓がある2階のアトリエで絵を書いていた(第39話 光と色と絵の話(7)フェルメールの「白い光」)。色に敏感であった画家達は絵の具の色を繊細に認識するために、太陽からの直接の光ではなく北向きの窓から入ってくる間接光を利用していたのだ。17世紀には北向きのアトリエは画家達の間では常識化していたようである。

産業革命最盛期の19世紀の初めは、イギリスのマードック(William Murdock 1754-1839)発明になるとされるガス灯が普及した時代でもある。ガス灯は製鉄に用いる石炭のコークス化に伴う石炭ガスを利用したいわば廃棄物を利用した画期的発明品であった。同じ19世紀の終わり頃にはアメリカのエジソンによる炭素フィラメント電球が発明され、オーストリアのウェルスバッハ(Carl Auer von Welsbach 1858-1929)による希土類元素を含む蛍光体の発光を利用した白熱ガス灯が登場した。これらのあたらしい明かりを利用して工場も夜中まで操業するようになった。しかし昼間はもっぱら昼間の明るい光を利用していたのであろう。

子供の頃に見たほとんどの工場(こうば)は平屋であって、その屋根はギザギザの“のこぎり”型であった。なぜそうなのかは当時は考えても見なかったのであるが、このスタイルの工場は産業革命当時のイギリスが起源であるという。ギザギザ屋根の急峻な部分はガラス窓になっていて、その窓は北向きである。産業革命の主要な担い手であった数多くの紡織工場では微妙な配色や織り方の織物を作るために、工場の織り子達にとって画家たちのように「白い光」が必要であった。「白い光」を積極的に用いようとしたのは画家達のアトリエばかりではなかったのだ。(下図をクリックすると大きくなります)


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この桐生市に残っているのこぎり屋根の工場の写真には次のような説明が書かれている。

『のこぎり屋根の特徴は北側の屋根の窓から光を取り入れていたことにある。そのルーツは産業革命の最中の19世紀初めの英国にある。日本では1883(明治16)年に大阪紡績会社の工場で最初につくられた。多くはとくに微妙な色具合や織り具合を点検する必要のある繊維産業で導入された。つまり北側の窓からやんわりと注いでくる光がほんとうの色を識別できる望まれた白い光だったのだろう。1960年代になって、白色蛍光灯などの白い光が簡単に得られるようになると、工場の密閉性をよくしたいという理由からギザギザ屋根はほとんど消滅してしまった。』(日本経済新聞 2004.8.30 朝刊16面)


<白い光とは結局何なのか>

色素や顔料の色ばかりでなく、それらを用いた製品の色を厳密に同じ色であると認識しようとするなら、照明している光もまた互いに同じ光の色の照明光を用いなければいけない。誰にでも共通するその照明光とは「白い光」に他ならないのであるが、「技術」として発展させるには、皆が共通に認めるスタンダード(規格・標準)が必要になる。「白い光」のそれは何だろうか。実は、近代の技術屋たちは画家たちが利用した「白い光」そのものを「白い光」のスタンダードにしたのだ。

JIS(日本工業規格)には「白い光」の定義がちゃんと出ている。もちろん国際規格(国際照明委員会CIE)が先にあって、JISはそれを援用しているに過ぎない。その「白い光」は「北空昼光」と呼ばれ、次のように定義されている。【JISZ8105:色に関する用語 2017:北空昼光】

『北半球における北空からの自然昼光であって、通常、日の出3時間後から日の入り3時間前までの太陽光の直射を避けた天空光を言う』

つまりこの定義は、ヨーロッパの画家達が経験の上から見つけてきた「白い光」そのものである。さらにいえば、“北半球”と言っても暗黙のうちに緯度の高い北ヨーロッパを指している。

しかしこれだけでは極めてあいまいな話であって、「白い光」は厳密には決まらない。世界中の誰でも共通に利用できる物理的な数値で表現されていなければならない。つまり「白い光」の光スペクトルの定義が必要なのだ。たぶん北ヨーロッパのある地点で日の出から3時間経って、それから3時間後に日没になるという時間帯の北の空からの光のスペクトルを厳密に何度も測って、それを定義とすることになったのであろう。北からの光と言っても、もともとは太陽の光である。太陽からの熱放射スペクトルであるから基本的には太陽の表面温度が決定されれば、物理的に計算される連続的なスペクトルのはずであるが、実際のスペクトルは下図のようにギザギザした複雑な形をしている。(下図をクリックすると大きくなります)


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ギザギザした複雑な形をしている理由は、太陽光が太陽の大気中を通るときにその成分の各種の元素によって吸収されたスペクトル部分を含んでいるからである。スペクトル写真上ではその吸収線は黒い線となって現れるので「暗線」と呼ばれ、発見者にちなんでフラウンフォーファー線と言う。図中の「CIE昼光」というのは国際照明委員会で定められた昼光、つまり「白い光」の意味であって、この光は色温度が6504K(絶対温度)の熱放射体からの光と等価であることを意味している。

しかし実際にこれと同じスペクトルを人工光源として手軽に作ることは不可能である。地上で6500Kもの温度を長時間にわたって安定に作り出すことは不可能であるし、ましてギザギザした吸収スペクトル線のすべてを作り出すことも不可能に近い。そこで色温度が6500Kに近くなるようにフィルターでスペクトルが調節されたタングステン電球の標準光源を「白い光」の標準光源(D65-6504K)にしようと決めている。もちろん定義そのものの「北空昼光」を用いてもいい。人間の眼は色のスペクトルが違っても同じ色に見えてしまう『メタメリズム』という現象があるので都合がいい。


<「白い光」の白さを求める>

定義された「北空昼光」という「白い光」の"白さ"を100としたときに、ある照明光がどの程度の白さなのかという尺度のことを「演色性」(Ra:正確には平均演色評価数)と言っている。限りなく演色性Ra100に近い人工光源の実現は可能かもしれないが、定義からして厳密に言えば演色性Ra100の人工光源はあり得ない。とは言え光の"白さ"の何らかの計測手法が必要である。その方法としては、まず基準の色パターンが用意されていて、ある光源と色温度が6504Kになるように調整された標準光源と同じように見えるならば、「演色性」Raは100とするのである。一般の光源の演色性Raは、昔のカルシウム・ハロフォスフェイト蛍光体を用いた蛍光灯ではRa60~74、最近の希土類元素を付加した3つの蛍光体による三波長型蛍光灯はRa88、自動車のヘッドライトなどに用いられるようになったメタルハライドランプはRa70~96、水銀ランプはRa40~50などである。厳密にいえばこれらは光源の色温度が違うので、物理的には同じ色をした物体であっても眼には違った色のように見える。これも『メタメリズム』である。(下図をクリックすると大きくなります)


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<現在の「白い光」>

現在ふつうに家庭で使用されている人工の「白い光」、すなわち白熱電球・三波長型蛍光灯・白色LED、そして太陽のスペクトルを比較すると下図のようになる。スペクトルの形が違うのにもかかわらず、人間の眼ではすべて『メタメリズム』によって「白い光」と感じる。しかし演色性との観点から見ると、現在の白色LEDはまだまだ改良の余地がる。(下図をクリックすると大きくなります)


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しかし、国際標準として決められた色温度6504Kという「白い光」は私たち日本人からみると高すぎる、つまり白すぎるように感じるのは私だけであろうか。これは北半球でもかなりの高緯度の北欧のデータであって、低緯度のモンスーン地帯のアジアの湿度が高い大気を通って来る「北方昼光」は色温度が低いはずだ。また「眼の分光視感効率」データ(参照:第41話 光と色と絵の話(9)ニュートンは間違っている)にしても、目の黒い日本人と青い眼の西欧人では違うのではないかと思うのである。あらゆる国際標準や規格が北欧系の人たちの主導でよって作られてきているのと同じ状況が「白い光」の規格にもあるように思うのでは偏見であろうか。

下の絵は、デンマークの画家リング(Laurits Andersen Ring)の【6月、タンポポを吹く娘】である。北欧の「白い光」を描いているのであるが、日本の「白い光」とずいぶんと違うように思う。

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